あの人の世界アーカイブ

12月20日(日)にF/TステーションでF/T09秋劇評コンペ優秀賞発表・講評会が行われました。
受賞者の皆様、おめでとうございます!


<優秀賞受賞作品>

柴田隆子氏 美しい静寂の地獄絵図 ―『神曲―地獄篇』 

堀切克洋氏 「本物」はどこにあるのか――『Cargo Tokyo-Yokohama』評

百田知弘氏 『あの人の世界』 劇評


追って審査員の皆様からの各作品・全体についてのご講評をアップいたします。
どうぞお楽しみに!

 舞台は高層と低層に別れている。
 低層部舞台はさらに上手側に手前に傾斜のついた二等辺三角形が底をこちらにむけている。下手側にはそれよりやや高い位置に奥に傾斜した頂点の鋭角がきつい三角形だ。どちらも足場の上に乗り、中空に浮かんでいる。役者はその床下からも現れたりもする。高層部はギャラリーから渡した橋の上に、中央部に空間を切り、そこも重要なアクティング・スペースである。

 一度見ただけでは、頭の中がぐっちゃぐっちゃになって、心底わけがわからない。なのに、妙に記憶の染みになりそうなひっかかりが、たくさん出てくるお芝居だ。
 私は、松井周オリジナルものとしては「家族の肖像」と「通過」の再演を、また演出作品ではマリウス・フォン・マイエンブルグ作「火の顔」を観劇した。内向きのベクトルが強いそれらにくらべると、今回の作品は、バッカスの祝祭やカーニバル的な気分も満載。視覚面でも、どことなく地平線がほの見えているようでもあり、とりあえずはかなり開放感のある印象だった。

 松井周の描く家族の肖像は、ルキノ・ヴィスコンティのそれにも似て、どこか歪なとこ
ろがある。
 同じ歪とはいえ、ヴィスコンティが貴族の没落をデカダンたっぷりに表現するのに対し、
松井周はグロテスクな中にどこかバカバカしいユーモアがあり、笑いを誘いながらも後味
はかなり苦い。
 そもそも家族が家族たり得た時代は、とうの昔に過ぎ去り、今や過去への望郷の念の中
にしか存在しない。戦後の高度成長期がもたらした核家族化の波は、古い日本の家長制度
を崩壊に導いた。制度に縛られなくなったおかげで自由を得はしたものの、同時に伝統を
も失い、柱のいなくなった家族は、同じ家に住んではいるにもかかわらず、一家離散状態
へと陥った。
 前々作の『家族の肖像』は、そんな家族なき時代の家族探しとでも呼ぶべき物語であり、
前作の『伝記』では、嘘で固めた自分史のほころびによって侵食され、精神的に自爆する
家長の物語であった。それらで家族の再生と崩壊を描いた松井周。3度目の振り子はどち
らに振れるのか? それともまったく新しい軌道を描くのか?

タイトルが『あの人の世界』であるからには、「あの人」の内的世界を色々に切
り出してみせているのだろう、そこまでは予想できる。では「あの人」とは誰な
のか? を考え始めると、とたんに見通しが利かなくなっていく――そんな印象の
公演だった。
全体としては、(1)ホームレスのダンサーたちが、ホームレスドクター
(HLD)の指揮下でミュージカルを作ろうとしているところに「女」が訪れる
(2)目的を見失っている「男」が、「ビラ配り」との出会いをきっかけに「運
命の人」を探す(3)「上の男女」と「嫁・姑」の対立――これらが物語の大きな
軸ということになる。
それぞれの軸、あるいは個別のキャラクターに注目すればむしろ展開を追いやす
くもある一方で、それぞれの軸を構成するエピソードが他の軸に繋がる、あるい
は他の軸へ繋げられている(*1)といった役割を担っていることは無視できな
い。それらが組み合わされたところに立ち現れてくる複雑さや曖昧さが、独特な
奥行きや味わいを与えてくれるからだ。

 この芝居を観ると、タイトルが気になる。『あの人の世界』。チラシにある演出の言葉の「あの人」には全てカッコが付いている。この演出の言葉の「あの人」とタイトルのあの人。そのカッコが決してなくならないのが、面白くて少し哀しい。

 松井周(サンプル)の『あの人の世界』は、現代日本に於ける不条理演劇のように思われた。20世紀フランスの不条理演劇作家であるArthur Adamovの戯曲、『タラーヌ教授』(Le Professeur Taranne)でも、主人公タラーヌ教授がアイデンティティの確実性を主張すればする程、それは脆く崩れ去った。Adamovの場合は実際に見た悪夢を舞台上で表現したが、『あの人の世界』ではそこに他者と他者による自分の存在というテーマを取り入れ、全編ファニーな要素で味付けする事で、現代日本に於ける不確実性の上に安住する「リアル」を表現している。