ろじ式アーカイブ

12月20日(日)にF/TステーションでF/T09秋劇評コンペ優秀賞発表・講評会が行われました。
受賞者の皆様、おめでとうございます!


<優秀賞受賞作品>

柴田隆子氏 美しい静寂の地獄絵図 ―『神曲―地獄篇』 

堀切克洋氏 「本物」はどこにあるのか――『Cargo Tokyo-Yokohama』評

百田知弘氏 『あの人の世界』 劇評


追って審査員の皆様からの各作品・全体についてのご講評をアップいたします。
どうぞお楽しみに!

 本稿が扱う『ろじ式』に特に当てはまることだが、多くの維新派の作品においては、表象の対象となる物語は重要な役割を果たしていない。維新派の舞台が持つ豊かさは、物語にではなく、それを表現するための物質的諸手段が生み出す表象作用それ自体の分厚い層にある。その特色は、舞台上で大々的に展開される諸事物の物質的運動が立ち上げる物語未満の独特の感覚的世界にあり、その凄さは、それが圧倒的な力で展開されることにあるのだ。
 従って維新派の作品を論じるためには、表象される物語とそれを表象する手段の間で働くかかる意味作用を明らかにしておく必要がある。この〈虚構〉と〈現実〉の間の意味の層を、〈虚実〉と呼ぶことにしよう (ii)。それは、「役の下に役者を隠す」こと(〈虚構〉と〈現実〉の一致)を理念とするリアリズム演劇にも存在し、当然、「役と共に役者を見せる」非リアリズム演劇においては極めて重要な役割を担う。そして、言わば「役よりも役者を見せる」維新派においては、それこそが主戦場となるのである。以下では、まずかかる維新派的〈虚実〉の特長を分析し、それを前提に『ろじ式』を検討することにしよう。

会場に行ってまず驚かされたのが、普段ならただのグラウンドであるはずの場所に建てられた「屋台村」だった。食べ物、飲み物を扱う屋台の間には、私はタイミングが合わず出し物を見られなかったが、一角に小さなステージまで設置されている。劇場を祝祭のための空間と捉えるならば、そこまでの橋渡しとして「屋台村」という非日常的空間までも一緒に設置してしまうという発想に、否が応でも興味をかき立てられる。

 文明に疲れたら

 心を自然にまかせ

 無心に体を動かしな、

 すると詩が生まれるから。