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私たちは何を語ることができるのか?

私たちは何を語ることができるか? ―現実を掴み直すために

永遠に続くかのように思われた日常が断絶し、あまりにも多くのものが失われてしまった。以来、私たちの世界は、途方もなく「大きな物語」によって覆い尽くされている。喪失感や虚無感、怒りや不安に引き裂かれながら、私たちは、この現実について「語ること」の困難さの前に、半ば言葉を失いかけている。私たちは今、「生きること」自体に、大きな負荷がかかる地域・時代にいる。長く美しい日常という夢から無理やりたたき起こされた私たちは今、この現実を前に、何を語ることができるだろうか? 

現実は私たちに判断を迫る。ここに留まるか/避難するか。その情報を信じるか/疑うか。この水を飲むか/捨てるか。公演をするか/止めるか。発言をするか/避けるか。「いま、ここ」にいること自体が負荷となった今、私たちは判断を迫られる。その判断は、私たちの現在や未来を大きく左右するかも知れない。そして日々、このような判断を迫られる非常事態が、今後、長期にわたって私たちの日常を侵食するどころか、日常そのものになってしまうかもしれない。

そのような非現実的現実が、まさに現在進行形で進んでいるただ中にあって、私たちがそれでもフェスティバルという場、トーキョーという都市において問い続けたいこととは何か? 演劇というメディアを通じて、掴み直したいものとは何か? そもそも掴み直すことは可能なのか? 正直、分からないというゼロ地点から、今回のF/T11は始めなければならないと感じている。

途方もなく「大きな物語」が日常を覆い尽くし、現実が虚構を超えてしまった時、私たちは何を語ることができるのか? 受け入れがたい数の生命や財産、そして都市や風景が失われ、それらをめぐるイメージと言葉が氾濫した後で、私たちは何を表象することができるのか? これまで前提として容認してきた政治や社会のシステム、それを伝えるメディアを信じることができなくなった時、私たちはいかに新たな社会モデルや共同体のあり方を設計し、実践することができるのか? 人間の力では制御不能な圧倒的力を前に、それでも許された小さな抵抗の集積によって、私たちはどんな未来を描くことが可能なのだろうか? 

今回のF/Tは、これから長い年月にわたり私たちが抱えていくこの複雑な現実を、なんとか掴み直し、そこから派生する無数の問いかけをめぐり思考と実践を重ねる作業の始まりとなるだろう。それはあまりにも唐突に分断されたものを、ゆっくりと繋ぎ直し、未来へと接続させる作業となるだろう。それには恐ろしく長い年月を要するに違いない。F/T11は、こうした問いかけに、この現実を共有するアーティストやスタッフ、そして観客の皆さんと共に、ただ愚直に向き合う場にしたいと考えている。

当初の計画どおり、F/T11のプログラムは、さまざまな形で演劇/劇場の外に出ることによって、都市と演劇、演劇と社会の関係性を問い直す試みを中心に構成されている。だが、その多くが新作である以上、そこには震災以降の緊急の問いが色濃く反映されることになるはずだ。そして何より、都市の風景やそれを見つめる私たちの眼差しそのものにも震災の痕跡が強く残された以上、都市と向き合う演劇もまた、この「大きな物語」との対峙を避けることはできないのではないだろうか。

くしくもF/T11は、劇場というハードから物理的かつ確信犯的に脱出することによって、その場固有の景観や社会的・歴史的文脈から構想された野外劇3演目で幕を開ける。F/T11オープニング作品の委嘱を受けた飴屋法水とロメオ・カステルッチは、宮澤賢治の言葉から自由にそれぞれ発想し、「夢の島」という特異な磁場で、地面と天空、自然と人工物、過去と未来をつなぎ、1000人もの観客を共振させる一夜を出現させる。ラジカルな手法で演劇の臨界点に挑み続けるルネ・ポレシュは、ドイツのルール工業地帯で考案された野外劇を、東京・豊洲の空地へと再インストールし、都市と郊外の風景を批評的に捉えながら現代社会の矛盾を告発する。野外劇の雄、維新派は、20年ぶりとなる東京での野外公演をデパートの屋上で敢行、21世紀の都市、東京・池袋の風景画を新たに再構成する。これら 3つの野外劇は、都市のドラマトゥルギーを味方につけながら、そこに生きる私たちのリアルをも映し出してくれるだろう。

また都市の日常から生まれてきた同時代の表現は、暴力的に切断された日常を前に、今後どのように変容するのだろうか? これまで一貫して都市に偏在する言葉や身体から物語を紡ぎ続けてきた宮沢章夫は今回、1986年と2011年という二つの時間軸から新たな物語を立ち上げ、時代の集積と断絶を舞台化する。また、独特な言語・身体感覚で新境地を模索する神里雄大も、人間の力では制御不能な謎の物体をめぐる物語から、震災後の強い違和感と向き合う。一方、これまでネット・オタクカルチャーから無限に生成する創造物を現代美術として提示してきたカオス*ラウンジは、その聖地・秋葉原にキャラクターやギークたちが集う演劇的な場を立ち上げ、震災後の日本文化の批評を試みる。さらに、このような「演劇」という虚構のフレームが、そもそも震災以降どこまで有効かという根本的な問題提起もまた、震災後の芸術家の態度として忘れてはならないだろう。数々の脱・演劇的企てを展開してきた高山明は今回、独自の「国民投票」を演劇プロジェクトとして提示し、現実への応答から、現実への介入、変革を試みる。もはや現実が虚構を超えてしまった以上、演劇も虚構の枠に留まることなく、現実に作用する新たな運動へと進化を遂げることができるかもしれない。

ダンスにおいてはどうだろうか? F/T11では2つの再演・再創造作品を通じて、「ダンスとは何か?」という根源的な問いと向き合う。ダンスの革命家ジェローム・ベルは日本人キャスト26名と共に代表作の日本バージョンを創作、グローバル時代の身振りや身体に批評的かつユーモラスな眼差しを投げかける。またこれまでも重力や空気など、目に見えないものと拮抗する身体を模索してきた白井剛は今回、身体と音、動きと静止によって緻密に「静物画」を構成し、ダンスというメディアによって時間と空間を掴み直す試みを継続する。

F/T11の新たな展開としては、昨年話題を呼んだF/T公募プログラムがアジア地域に拡大し、アジア地域共通のプラットフォームとして本格的に始動する。国内70件、アジア地域から80件、計150件もの応募総数の中から選ばれた11団体は、いずれも各地域の同時代の現実から自生してきた、ユニークな眼差しと手つきを持つ。彼らの多様な価値観に基づく新鮮な提案は、今回新設された「F/Tアワード」を目指して相互にぶつかり合うことになる。アジアから多数の表現者や批評家が集う中、アジアの同時代の現在地を共有し未来へと繋ぐ、濃密な3週間となるだろう。

そして、これまでF/Tの求心的な場であったF/Tステーションは今年、特定の固定された場としてではなく、都市の中に拡散する形で展開する。フェスティバルを楽しみ、深めるための機能を、都市の既存の場やコミュニティとの連携のもとに「F/T食堂」「F/Tステイ」「F/Tサロン」として提案。普段は可視化されない都市の異空間の中に、偏在するF/T固有の時間と他者との出会いを体験していただきたい。また震災に応答する特別企画として、今年は「なにもない空間からの朗読会」を連続でリレー開催する。これまでF/Tに参加してくださったアーティスト有志の参加、協力のもと、一晩に1回限りの朗読会が都市の中に出現する。アーティスト自身が選び、演出する「ことば」の力が、何もない空間を満たすとき、私たちは失ったものに思いを馳せ、そこから未来へと生み出されるものとの連帯を深めるだろう。そこに響く声は、被災地に向けて、ネット中継される予定である。

歴史の大きな転換点に立ち会っている私たちは、今、何を語ることができるのだろうか? 語りえないことへの沈黙も含め、私たちはそのただ中にいる。分断されたものそっと繋ぎ直し、不確かな現実を掴み直すために、今、私たちの想像力が試されている。

相馬千秋
F/Tプログラム・ディレクター

相馬千秋 ― Chiaki Soma

2002年よりNPO法人アートネットワーク・ジャパン所属。主な活動に東京国際芸術祭「中東シリーズ04-07」、横浜の芸術創造拠点「急な坂スタジオ」設立およびディレクション(06-10年)。第一回のF/T09春より現在まで、F/Tの全企画のディレクションを行っている。

相馬千明