F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』は、誰もが知っているポップスが流れるなか、その曲のテーマに関わるものを公募で集まったダンサーたちが、時にはダンス以外の方法を用いて表現する演目である。ベルに対する知識がない人がそれだけを聞くと、アメリカナイズされたミュージカルチックなダンス、ダンサーたちがノッて踊りまくり、最後は大円団の大喝采というものを想像してしまうかもしれない。或いはベル、コンテンポラリー・ダンスに対する知見が多少なりともある人なら、難解で抽象的なダンスを観客たちがじっと鑑賞する場を想像するのかもしれない。だが、演目を実際に見て私が連想したのは、他のダンサーや過去の演劇ではなく、やはりベル自身影響を隠さないロラン・バルトであった。
ベルの過去の作品はバルトの理論のダンスによる実践のようなものがいくつかある。1995年の『ジェローム・ベル』はダンサーは裸、照明や音楽も極力排除という、バルトの「零度のエクリチュール」の実践版とでも言えるべきものであった。1997年の『シャートロジー』ではバルトの試論「衣服の歴史と社会学」から着想を得て、パフォーマーが幾重にも重ね着しているTシャツを脱いでいくなど、「衣服」をテーマにしている。(※1)ではこの『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』はどのように、バルトの理論を実践しているのだろうか。
作者の死
この演目では誰もが知っているポップスが使われている。「レッツ・ダンス」が流れれば体をくねらせるデヴィッド・ボウイを、「My Heart Will Go On」が流れればタイタニック号の船上で両手を横に広げたヒロインとヒロインの腰を支えるヒーローを、思い浮かべない人はいないであろう。そして、その観客側のパブロフの犬的な条件反射に突き付けるアプローチは、実験的とか脱構築とかいうよりは、むしろベタでユーモラスなものである。ダンサーたちは「Killing me softly with his song」では徐々に力をなくしていき、最後には地べたに寝て「死んで」しまうのであり、「My Heart Will Go On」では行き当たりばったりでちぐはぐなカップル、背の高さが男と女逆であったり、はたまた男同士だったりするカップルが船上で両手を広げるポーズをし、客席の笑いを誘う。音楽には勿論オリジナリティはないとして、では果たしてその曲へのアプローチであるパフォーマンスにオリジナリティがあるのか? と問われると、そのほとんどコントかむしろ「欽ちゃんの仮装大賞」のようなアプローチを「独創性がある」と言っていいものか迷ってしまう。
バルトは文学テクストに作者はいず、起源もないことを主張し、「作品」という言葉を嫌い「テクスト」という表現にこだわった。「テクスト」とは「織物」という意味である。「すなわちテクストは終わることのない絡み合いを通じて、自らを生成し、自らを織り上げてゆくという考え方である。この織物----このテクスチュア(texture)----のうちに呑み込まれて、主体は解体する。」(『テクストの快楽』)借り物の音楽と公募で集めたダンサーを使って一発芸のようなパフォーマンスをやること。ベルのアプローチを、他のダンスや演劇が必死に主張しようとしている「作家」や「作家主義」への揶揄だと受け取ることは可能であろう。そこには練られた「作品」が纏うオーラも、鍛錬された「ダンサー」が纏うオーラもない。あるのは借り物の、その場あつらえの、しかし全体を通して見ると観客を引き込む力を持った、むしろ「場」のようなものだ。私たちは知らず知らずのうちに、決してダンスの質が高いわけでも、パフォーマンスの質が高いわけでもないのに、何か今まで味わったことのない感動の渦のようなものに引き込まれる。それは一体何だろう。
「書き込む人」
「作者に代わるのは「書き込む人」である。彼は自分の内面に情念や気分や感情や印象などというものをもう所有してはいない。彼の中にあるのは巨大な辞典であり、彼はそこから終わることのないエクリチュールを汲み上げるのである。」(同)バルトの言う「書き込む人」の具現化を私たちは舞台上で見たのではなかったか。決して有名なダンサーがいるわけではない(少なくともそれを前面には出していない)『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』のパフォーマーたちは、老若男女、痩せた方から太った方、ダンサー然とした方から失礼ながらダンサーと呼ぶには厳しい方、みんな思い思いの服を着て、それぞれの、それなりのダンスをする。同じ服を着せ、同じ化粧をし、同じ振り付けをさせる維新派のような集団と、どのように違うのか。そこでは演出家の「強固な意図」のようなものは浮かび上がってこない。だからといって「曲によるコマンド」に沿ってパフォーマンスをしている以上、彼ら一人ひとりの情念や気分や感情や印象が浮かび上がってくるわけでもないのだ。なにしろ彼らは27人もいる。むしろ、統制の取れていない27人を見ていると、目立つのは背の高い者と背の低い者の差異、ダンスの上手い者と上手くない者との差異などである。「無名性」と「統制の取れていなさ」、ステージ上を歩き、出逢った人とペアを組んでいくような「偶然性」(「Into My Arms」)、これらは、「書き込む人」が「巨大な辞典」から「エクリチュールを紡ぐ」様そのものではないだろうか。
ステージにいるのは誰だ?
演目が進むにつれて27人の個性も徐々に分かってくるのだが、その普通のダンスチームにはあり得ない、個性の不揃いさ、ダンスの不揃いさはいつまでも私たちに不協和音として届く。体の柔らかさの違いによる体幹の角度の違い、足の上がり具合の違いなどを見るうちに、しかしどうもこの27人は私たちの「社会」そのものの縮図、或いは代表のようなものかもしれないと思い始めた途端、急にチューニングがあったみたいに、物事がクリアーになる。太ったおばさま、ダンサーと呼ぶには厳しいおじさま、ベルが彼らをステージに引っ張り上げているのは、ステージと客席の境界線を取っ払うためなのではないかということだ。ベルは自国からダンサーを連れてくるようなことはせずに、日本で公募し、オーディションし、日本人を選んでいる(しかもそのうち1人が韓国名、2人が外国人という手の込みようである)。その選抜に、「日本」を象徴させようという想いがなかったはずがない。ダンサーたちだけでなく、ステージの真下で操作していた音響技師までステージに上がり、ダンスを披露したりする(「Private Dander」)。ユーモア溢れたアプローチにより、私たちの心はほぐされ、自由になり、懐かしい音楽に乗せられて、ついにステージ上に上がってしまうかのようだ。そう、あの27人は、私たちなのだ。
「テクストはさまざまな文化的出自をもつ多様なエクリチュールによって構成されている。そのエクリチュールたちは対話を交わし、模倣し合い、いがみ合う。しかし、この多様性が収斂する場がある。その場とは、これまで信じられてきたように、作者ではない。読者である。」(同)
概念を転覆させ、更新し続けるダンス/ノンダンス
基本的には一発芸のエンターテインメントの中に、私たちが普段信じきっていて疑わない概念への異議申し立てがところどころで顔を見せる。曲だけ流れてパフォーマンスのない曲があったり(「La Vie en Rose」と「Imagine」、ステージという概念への異議申し立て)、音響技師がステージに上がりダンスを披露したり(ダンサーという概念への異議申し立て)、はたまた客席の明かりを照らし、ダンサーたちが客席をじっと凝視したりする(ポリスの「Every Breath You Take」、邦題は「見つめていたい」、観られる側/観る側の転倒、観客への異議申し立て)。そして、私が一番感心したのは、それぞれがヘッドフォンをつけ、違う曲を聞き、その曲のサビの部分だけ歌うという場面だった。突然内外のポップスのサビだけ気持ち良さそうに歌う彼らの歌声は、27人もの集団だとモグラ叩きゲームのモグラのように唐突で、そのサビが重なり合ったりしなかったりする様は抱腹絶倒であった。もちろんギャグとしても秀逸で観客は大ウケだったのだが、しかしこれは私たち観客にも向けられたものである。私たちは、それまでの時間様々なポップスに、ダンサーが踊っていたのと一緒に、ノリノリで踊っていたのに違いないからだ(頭の中で。何故なら彼らは私たちだから)。
バルトは言語の営みには2つの縁があると説いた。ひとつは従順で、画一的で、模倣的な縁。もう一つの縁は動いていて、空虚で、おのれ自身の効果の場でしかなく、そこには言語の死が覗いている縁。「この二つの縁、両者が演じてみる妥協、それが必要なのだ。文化も、文化の破壊もエロティックではない。エロティックなのは両者のあいだの断層である。」(同)私たちは、空っぽのステージ、音響技師がステージに上がる瞬間、こちらを凝視するダンサーたちと目があった時の気まずさ、そんな瞬間に、バルトの言うところの「断層」を見たのではなかったか。大衆文化の象徴であるポップスと、ベタな一発芸。馴染みのあるものと下手なダンスに心底安心して鑑賞しながらも、ふと現れる切断にひやっとし、今まで当然と思っていた概念を疑わざるを得なくなる。そうかと思うとまた聴き慣れたポップスが流れ、新たな一発芸に向けて、ダンサーたちは踊り出す。何度も何度も繰り返されるその切断と更新は、まるで私たちを生まれ変わらせるようなエロティックさに満ちていて、カーテンコールが始まった時、「もっと続いてくれたら...」と願ったのは、私だけではなかったろう。
すべての垣根を取っ払え!
そして、重要なのはこれがF/Tのクロージングだったということだ。今年のF/Tのコンセプトは「私たちは何を語ることができるのか?」である。3.11後の現実を前に、F/Tでもいかに多くの演劇が、形を変えることを余儀なくされ、逡巡し、悩みぬいた上の演目を上演したことか。それに比べると、初演から10年間経つというフランス人によるこの演目は「日本の震災」による変更をしたようにはほとんど感じられない。しかし、腹が立つどころか、「今の私たち」の気分にぴったりフィットしたようであった。
津波による多数の死者、福島の原発の被災による放射能漏れ、福島を中心とした東北は深い傷跡を負い、今だに苦しんでいる。3.11が引き起こした断絶は、中央/地方という対立、それによる境界線を結果的に前景化した。災害による被災者/被災者以外という対立に、今まであまり知られていなかった原発の実態が明らかになってくると、そこに原発派/反原発派の対立までもが加わってきた。電気が不可欠な生活を捨てる選択肢を持たない私たちは、困惑し言葉を失うしかない。災害はあるところでおき、おきないところもある。原発は首都圏ではなく、地方に作られる。垣根のない世界なんてないのだ。
でも、あそこにはあった。『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』では上手いダンサーも下手なダンサーも混じり合い、ペアを変え、音響技師はステージに上がり、観客たちも視線に晒されステージに参加した。そこではダンサー同士、ダンサーとスタッフ、ダンサーと観客、すべての垣根は徐々に取り払われていった。「すべての垣根を取っ払え!」私たちはベルのそんな声が聞こえたような気がした。その声はいつまでも私たちの心に残るだろう。だからこそ、私たちは三度目のカーテンコールが終わった後、意外にもあっさりと席を立ち、心の中でこう呟きながら、帰路につくのだろう。「ザ・ショー・マスト・ゴー・オン」。
※1) webDICE「コンテンポラリー・ダンス界の「異才」ジェローム・ベルによる、このうえなくポップで反スペクタクルな『The Show Must Go On』」(越智雄磨)
http://www.webdice.jp/dice/detail/3253
※ロラン・バルトの引用に関しては、「現代思想のパフォーマンス」(光文社新書、難波江和英、内田樹著)より