F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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The F/T Emerging Artists Program greatly expanded in 2011, opening its gates for the first time to the rest of Asia and receiving some eighty applications. The final Program consisted of four international and seven domestic groups; the first thing to be recognized at the launch of any discussion is that it was likely the part of the Festival this year with the highest risk and also a real cultural investment.
「なぜ、人は劇場に足を向けるのか」。筆者の場合はそこにまず、職業がシアター・ジャーナリストであるという自明の理由が存在する。ただその職をなぜ飽きずに十数年も続けているのか。あるいは日本だけではあきたらず世界の劇場を訪れるのか。今回のフェスティバル/トーキョー公募プログラムは、この問いに対しての答をより明快にし解き明かしてくれた。
日本滞在中の1週間で観劇した舞台は、80年代生まれの日本人作家5組(KUNIO、鳥公園、バナナ学園純情乙女組、ロロ、捩子ぴじん)による作品。ロンドンから日本に飛ぶ十日ほどまえに、主に70年代生まれの日本人作家を主題にとる拙著を脱稿したばかりだったこともあり、意図せずして、70年代世代と80年代世代の比較、という立地点から後者であるテン年代作家の特性を立て続けに認識させられることとなった。
I should start this essay with the simplest question: Why do people go to the theatre? I myself as a performing art journalist have a bluntly self-evident reason: it's my job. However, why have I continued doing this for over ten years? Not only in my home country Japan but around the world? There should be some plausible reason other than just for the sake of paying the bills. This year's F/T Emerging Artists Program elucidated, to certain extent, the answer to this question.
During my one-week visit to Japan I took in performances by five groups of Japanese theatre practitioners born in the Eighties: KUNIO, Bird Park, Pure BANANA girls class, lolo and Pijin Neji. And as ten days prior to flying from London to Tokyo I had just completed my book on Japanese theatre artists born in the Seventies, involuntarily, I found myself comparing the two generations of practitioners and subsequently made aware of the salient characteristics of the so-called "eighties babies".
F/Tの「公募プログラム」は、2011年から大幅に拡充された。はじめて門戸を開いたアジア諸国からは80組もの応募があったという。結果的に国外4組、国内7組による開催となったこのプログラムが、おそらく今年のフェスティバルの中で最もリスクの高い実験であり、文化的な投資だったであろうことは、まずは議論の出発点として認識されるべきだろう。どんなに個性的な作品が出そろったとしても、日本国内で無名のアジアの若手作家の作品に、残念ながら集客的には期待できない。その目標は、必然的に、「いま、ここ」よりも「未来」に向かわざるを得ないのだ。したがって、このプログラムが対峙しなければならないのは、近未来の舞台芸術であり、近未来の世界であると考えることができるだろう。今回上演された11組の作品は、総じて野心的で刺激的な作品が揃っていたことは間違いないが、問題をそこだけに限定しては意味が半減してしまうのである。
F/Tサロンで捩子ぴじんは、普段コンビニで働いているときは自分の作品のリハーサルを行っているようなものだと語った。彼は社会と人生を一種のリハーサルスタジオ、または、リハーサルという非現実的な場とみている。私はその時、日本は演劇国であるという見解を提示した。
今回、F/T11で6作品観劇した。その6つの作品がF/T11の全容というわけではないが、作品からは3・11の震災が日本社会全体に震撼を与えたということを確かに感じた。作品の大部分がダイレクトに震災の影響を受けている。大自然に対する畏れや都市や現代文明における自己認識の危機が作品に反映されているのだ。
當我在座談會上聽到Pijin Neji說,他覺得自己平常在便利商店時,就等於是在為自己將來的演出做排練時,我忽然警覺到他已經將社會與人生視為一種排練場,而排練的不真實,對應著他試著在劇場中尋找真實。於是接著他的對話,我提出了日本是一個劇場國家的看法。
在這次東京藝術節中我所看到的六個作品,雖然不能代表全部藝術節演出的樣貌,但我的確感覺到311大地震對整個社會產生的震撼,大多數的作品都直接或接的受到大地震的影響。這種影響反映在創作形式上,是對大自然的恐懼,這些作品主要都是反映了都市或現代文明中的主體認同危機。
ディケンズの『二都物語』は「それは良き時代でも悪しき時代でもあった」の一文で始まる。この有名な一文は波乱に満ちた時代の総括としてよく用いられてきた。しかし、我々の生きるこの時代はとうに「良い」、「悪い」という白か黒かで単純に分けられるものではなくなっている。「良い」と「悪い」の間には長きにわたる曲折と過程があり、日常生活は留まることなく続く。日は昇り、また落ちる。我々が負った責任を時代や環境に委ねることなく、演劇やあらゆる文芸は生活や人類そのものの思考に戻る必要があり、そこから表現をすべきなのだ。フェスティバル/トーキョー11で鑑賞した作品は、まさに我々が生きる今の時代の静かな思考とその表現のあらわれであった。
狄更斯的《双城记》里说:"这是最好的时代,这是最坏的时代。"这个金句曾被用来写意地概括很多波澜状况的大时代。然而,我们今天所生活的时代,已经远远不能用"好"或"坏"这样非黑即白的简单定义来界分。在好与坏之间,有着漫长的曲折与过程,日常生活蔓延继续,在日起日落的光阴里,逃离了对时代的指责和功过归咎之后,戏剧或一切文艺形式,终究需要回到对生活本身、人类本身的思考与呈现中来。2011年东京艺术上我所看到的,恰是这样一种对身处之时代的安静思考与呈现。
From 1994 to 2006, my experience of Tokyo and Japan was limited to the Narita Airport where I connected my flights between Bangkok and the US - my transit was so frequent that I even started a romantic relationship with a Thai woman passenger at a departure gate there. I was frequently informed back then that not only was it difficult to travel on your own unless you understand Japanese but the Japanese yen was also strong that I feared my Thai baht saving accounts would be much affected had I set foot outside the airport - and I am never a fan of guided tours.
3・11の震災は日本の東北地方に空前の苦しみをもたらした。また、福島の原発事故は日本にとって更なる試練となった。震災後、電力不足から節電対策として劇場が休館を余儀なくされ、原発への憂慮から海外のカンパニーが日本での公演を相次いでキャンセルした。今世紀最大の震災を前に、劇場の軟弱で無力な一面が露呈された。想像以上の大きな災難は、非現実的な感覚をもたらした。3・11の背後には、現代の消費社会やエネルギー環境などの難解で複雑な問題があるといえる。震災の恐怖心や外傷はは未だ払拭されていない。震災後、複雑な問題に直面しているとき、演劇は一体何を語れるのだろうか?これは、今年のフェスティバル/トーキョーのテーマでもある。