劇評

2011年12月

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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F/T11 公募作品觀劇報告

林于竝

  3.11的震災讓日本東北受到空前的劫難,福島原子能發電廠的輻射事件更給日本帶來接二連三的考驗。震災之後電力供給吃緊,在節電政策當中首先被關閉的是劇場,國外的許多表演團體也因為擔憂輻射問題而紛紛取消日本的演出行程。 面對這世紀性的大災難,劇場顯現出它的脆弱與無力。超越想像的巨大災難帶來非現實感,在3.11背後的,是現代消費社會、能源環境等盤根錯結的問題。就在震災的驚恐記憶仍然鮮明,創傷尚未撫平,而日本社會仍然必須面對災後各種複雜的問題時,劇場到底可以述說些甚麼?這是此屆東京藝術節(Festival Tokyo)拋出的議題。
 
  這次很榮幸應東京藝術節之邀擔任駐地批評家(Critics in Residence),得以進駐觀察東京藝術節的進行,並且觀賞此次藝術節的各類性節目。當中尤其最令我感到興趣的,是這次藝術節特別為年輕藝術家所企劃的公開甄選作品(Emerging Artists Program)。此次入選的七個日本團體,其主要創作者年齡都未滿三十歲。 這些作品代表著日本新世代的創作者,透過這些作品我們可以窺探出日本新世代的創作者,他們面對著怎樣的社會現實,以及在這當了怎樣的進行的藝術表現。

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物語りはマクロな現実によって崩れた フェスティバル/トーキョー記

リー・ホンユー(中国 )

 東京の至る所でみかける「フェミリーマート」。31歳の捩子ぴじんはそこでアルバイトをしている。朝9時から夕方5時まで働く。すでに4年になる。レジだけでなく、フライドチキンやフライドポテトも作る。一年前から、もうひとつアルバイトを始めた。夕方6時から夜11時半まで、駅の売店が新しい仕事場だ。毎日13時間、立ちっぱなし。捩子は舞台上で自分の脚を見せながら「ついにはO脚になってしまいました」と語る。

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F/T观剧札记

李宏宇

  来到F/T,看到的第一出戏就很让人喜欢,这究竟是好还是不好呢?后边的戏要让我兴奋是不是就会更难了呢?在Theater Green看过Neji Pijin的《The Acting Motivation》之后,我确实有这样的想法,当然,还有头发里和衣服上浓浓的油烟味。

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子供を所有しないことはできるか (『おねしょ沼の終わらない温かさについて』)

堀切克洋

 鳥公園は、劇作家・演出家の西尾佳織によって2007年7月に設立された「劇団」である。構成員は主宰の西尾と、俳優・デザイン担当の森すみれの二人だけなので、「劇団」というよりはユニットと呼ぶほうが適切かもしれない。俳優やスタッフの編成は、流動的である。西尾は、そのような「ゆるやかさ」を「公園」と呼ぶ。「三人以上の集団は苦手です。二人はぎりぎり好きです。〔......〕鳥公園は、一人でいて、それでいて人と一緒にいられるための場所です。出入り自由です」(鳥公園HPより)。

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「劇評」は、なぜ書かれ、読まれるのか?

森山直人

私は劇評コンペの審査に携わるのは今回が初めてである。だから、他の二人の審査員のように、過去のコンペと比較して何か言うことはできないが、総じて、応募された劇評は、どれもそれぞれ力作が多かった。そのこと自体は喜ばしいと思う。ただ、今ひとつの舞台作品について劇評を書くという行為が、それぞれの投稿者の中でどこに向かい、何に繋がっているのか、という点も、実は一本の劇評の成否以上に重要である。いいかえれば、一本の劇評としての説得力だけでなく、なぜその人が、この作品について、このような劇評を書こうとしているのか、という次元における説得力があるかどうかである。この人は、どんな「視界」において、この作品をこのように評価しているのか。同じ審査員の福嶋亮大氏が、審査会の場で「書き手の演劇観」という言葉を使ってそのことに言及していたが、そういう部分まで迫力をもって読み手に伝わってくるような劇評が、残念ながら今回は少なかったように思う。昨年、一昨年が三本の優秀賞を生んだのに比べて、今回二本になっているのは、「これだけはどうしても推したい」と思わせる批評が見出しにくかったことに一因があるのかもしれない。

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劇評コンペから次の場へ

高橋宏幸

今回の劇評コンペの応募された作品を、第1回目の劇評コンペでも審査した経験から比較してみると、全体の劇評のレベルが格段に上がっていたことに驚いた。おそらく、1回目に受賞した劇評のいくつかでは、今回受賞できなかっただろう。劇評の審査は匿名で行われたので、全ての応募作を読み終えたときの私の印象はそこに集約された。

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大事なのは中身、あとは文章の技術力

福嶋亮大

劇評コンペの趣旨は、これからの演劇界に貢献してくれる書き手にデビューの場を与えることにある。そこで試されているのは、作品ごとの性格をきちんと理解し、広い視野からその意味を位置づけられるだけの能力である。したがって、個人史的体験にあまりにも深く依存して書かれた劇評には、コンペの性質上、高い得点を与えることはできない。逆に、きちんと目標を決め、それに向かって一つ一つ論証を積み上げていく実直な書き手には、おのずと評価が集まることになる。

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独身者の機械、または、彼女は如何にして掘削機を愛するようになったか (『油圧ヴァイブレーター』)

小澤英実

    演劇でもダンスでもなく、ドキュメンタリーでもフィクションでもなく、フェミニズムでもそのパロディでもない。それらのあわいをすり抜ける、ささやかだけれどしたたかな戦略を感じさせる、非常にクレバーな作品である。タイトルからしてフェミニズムやセクシュアリティをラディカルに問う政治的な作品なのだろうかと予想しながらシアターグリーンBASE THEATERの客席に入ると、舞台上には化粧っ気のない女がおり、壁面のスクリーンにはパソコンの画面が映し出されている。おもむろに開演すると、下手に置かれた机に向かって座っているその女、グムヒョンが、パソコンを操作して次々と動画を再生しながら、独白による説明を加えていく。

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芸術家であるとはどのようなことか?――あるいは、和田進太郎はどのような漫画を描いているのか? (『モチベーション代行』)

江口正登

 芸術家とは、芸術作品を作る者のことである。これは間違ってはいない定義であるだろうが、一見して思わされる通り、あまりに単純ではある。ここにはたとえば時間の問いが欠けている。芸術作品を作る者である芸術家は、常に芸術家なのか。そうでないとするならば、制作とあまりにかけ離れた営為に携わっているときの彼/女は誰なのか。芸術家と名乗ることがはばかられるほどに、芸術以外の事柄に時間を取られている彼/女は誰なのか。

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匿名的なものたちの饗宴――「引用」の問題を中心に (『常夏』)

江口正登

 ロロについての判断を下すことには、独特の困難がつきまとう。それは彼らの作品が、ある種の共感を、したがって同様にそれを裏返した反感を強く喚起する類のものであると思われるからである。共感や反感は、作品に対する我々の態度を根底的に動機づけるという意味で、決して意義のないものではないのは確かだが、批評にとってはしばしば躓きの石である。
 以上のような判断から、本稿では、ひとまずレジュメ的なスタイルを採用することとする。衒いのないレジュメとして、『常夏』の構造と、そこに観られるロロの作風・手法・特徴を整理し、これに対する基本的な批評的理解を確保することをまず第一の課題とし、その上で、より批判的な角度からいくつかのコメントを行いたい。

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