劇評

2012年12月

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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選評


フェスティバル/トーキョー公募プログラムの審査員として観た11作品のうち、特に劇評を書きたいと思えるものが3作品ある。
一つは『不変の価値』(構成・演出:谷 竜一)で、厳かで大きな問題をテーマとしている。商品と市場が人の価値を変えてしまうことを問いただすものだ。しかし、舞台は気楽な感じで、更にはゲームのような形式で進行する。役者が観客に「有料リクエスト」として作品を「演出させる」のだ。このように「演出の権力」を観客に委ねる方式は、「商品・市場と人の価値」という複雑な謎解きは避け、実際にはゲームを用いることで作品を答えるべき問題そのものに転化しているのである。

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選評


基本として、それぞれが提案する「コンセプト」が、どう表象されたか、どのように舞台表現となったか、いかに作品化されたか、その手続きに注目していた。質にばらつきはあっても、どの集団のコンセプトも、おしなべて注目すべき部分があり刺激的だ。実作者として興味深くそれを観ることができ、すべての集団に敬意を表したい。だからなおさら、それがどのように実現するのかを考えざるをえず、作品そのものに創作の過程が刻まれるのを見る。成功しているか、まだ、そこまで達していないか、集団としての創作力はどうだったか。あるいは、コンセプトだけが先行していないか。その見極めが審査の基準になる。というより、そもそも創作とは、あるいは「作品」とはそのようなものとして観客に届けられるものではないか。

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公募プログラム審査について


 公募プログラム審査にあたるのは今年が2回目だが、昨年以上に、国際フェスティバルの審査というのは実にむずかしいという思いを抱いたまま、また、「これを推そう」という決意ができないまま、審査会に臨むことになった。とはいえ、以下のようなメモをそれぞれの作品について準備し、あとは、審査会での議論の推移を見て、というつもりだった。以下、そのメモをまず再録するが、審査会の席上、あるいはそれ以降明らかになった事実誤認等も含まれているものの、誤字脱字の修正以外、一切編集していない。

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増殖し、身体を乗っ取る声たち(『キメラガールアンセム/120日間将棋』) 


 The end of companyジエン社(以下ジエン社)の『キメラガールアンセム/120日間将棋』の一番の特徴は、同時多発会話である。しかしその技法自体は平田オリザが有名にしたものであるが、ジエン社のそれは平田のそれとは結構な違いがある。まず平田が「自然らしさ」を目的とし、あくまで日常にありそうなシチュエーションで会話を同時多発させるのに較べ、ジエン社はそもそもの劇のシチュエーション自体が「日常」「自然らしさ」というものからは離れている。

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「価値の在処は明らかにしてくれた、しかし......」

上演の構成は、大まかに言って前半と後半に分けられる。
前半では、まず観客に500円玉を1枚ずつ配った上で、「その500円を払えば好きなように演出を付けられる」旨が説明される。俳優は、あらかじめ用意された短い台本を、観客からの指示を反映させつつ演じるのだ。やがて別の俳優たちも舞台に登場して「自分にもやらせてほしい」「こっちは2人で500円にします(*1)」等とアピールし始め、結局は3人で演技を競い合う。もっとも、指示が10、20と増えてくると、中には相互に矛盾するものや、いわゆる「無茶振り」も交じってくる。当然ながらこなしきれずに失敗したり、時には俳優同士で相談してまで指示に応じようとする姿は笑いも誘うが、観客の要求がどこまでエスカレートするのかという緊張感も付いて回る。

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空白の可視化、繋がり合う喜び


一方が「途中で一度も顔を合わせることなく公演を迎えるなんて、そもそも無理があるんじゃないか」などと危惧する声に、相手が「それなら、公演に至るプロセスそのものを見せていくことにすればいい」と応じるところから、上演は始まる。
二人の女性が上手と下手に座り込み、一方はペンで紙へ、もう一方はチョークで床へ、次々と何やら書き付けていく。そして舞台には2枚のスクリーンが吊り下げられており、片方にベルリン、もう片方にソウルでの光景が映し出される。それぞれ同じテーマに沿って撮っているらしく、固定されたカメラの前を繰り返し駆け抜ける様子や、バス停の前で自分自身が映り込むように風景を撮っている様子などが流れていく。

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この既視感はどこから来るのか


 20世紀を表象する言葉とはなんだろうか。戦争、革命、運動、マイノリティなど、挙げればいくつもでてくる。ただし、それらの言葉がもつ視点から時代を切り取ると、20世紀というものがもった、ある現象が鋭利に浮かんでくる。だからこそ、そこに一つ言葉を足してみると、移動という言葉がでてくるのではないか。
 むろん、人が移動すること自体は、有史以前からある。しかし、その形態を分析すると、20世紀から現在までの移動という問題は、また違った位相として現れる。19世紀に現れたヨーロッパからアメリカへと移動する大規模な人口は、20世紀になると多様な移動の流れを生み出した。また、強制連行やポスト・コロニアルという言葉に代表されるように、宗主国と植民地のなかでの移動もある。ただ、それらが貧困というものを大きなバネとしていたのに対して、夢を叶えるための移動というものが生まれたのが、20世紀末の特徴ではないか。いわば、単に貧しさから富裕層を目指すための移動ではなく、自己実現を求めた移動。

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