劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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公募プログラム審査について


 公募プログラム審査にあたるのは今年が2回目だが、昨年以上に、国際フェスティバルの審査というのは実にむずかしいという思いを抱いたまま、また、「これを推そう」という決意ができないまま、審査会に臨むことになった。とはいえ、以下のようなメモをそれぞれの作品について準備し、あとは、審査会での議論の推移を見て、というつもりだった。以下、そのメモをまず再録するが、審査会の席上、あるいはそれ以降明らかになった事実誤認等も含まれているものの、誤字脱字の修正以外、一切編集していない。

1.インドネシア/シアタースタジオ・インドネシア:『バラバラな生体のバイオナレーション!』
 素朴という見せかけながら、計算というかしっかりした設計図があり、しかし同時に、野外であることからの、また、オブジェを組み立てるということからくる、偶発性を意識的に導入したきわめて野心的なパフォーマンス。「伝統的」という意匠もふんだんに取り入れているものの、実際にはジェンダーバイアスがない民主的な(この手の「力業」パフォーマンスに期待される男性性は周到に排除)パフォーマーの構成にもなっている。「民族的=伝統的すぎる」という批判がありうるが、インドネシアでは伝統と近代がシームレスないしは弁証法的に関係しており、このパフォーマンスはその証左でもある。小さな部品/部分が、しっかりと結びつけられることで、天/権力/超越性を目指すというナラティヴ自体は特に目新しいものではないにせよ、最後にそれが一瞬にして転倒するというのが、あるいはその一瞬にこのパフォーマンスは賭けられているといっても過言ではなく、その瞬間の衝撃/覚醒がすべてである。つまり、これは革命劇であり、なにより古びていない革命劇であることを高く評価したい。

2.ピーチャム・カンパニー:『美しい星』
 三島の『美しい星』をテクストに選んだということがすべてである。そのモチベーションは当然、福島の問題と直結しており、時事的でありながら、「世界の終わり」という用済みであったはずの冷戦期特有の「物語」が回帰している現在――今回のフェスにおけるイェリネクの隆盛を見よ――、冷戦期の、しかもキューバ危機というとりわけ具体的な時期に書かれたテクストを今、上演する/パフォーマティヴに思考するというのは、まったく正しい選択である。「そのまま上演できない」(小説であるということだけが理由ではない)というこれまたまっとうな前提に立ち、ブレヒト/フォアマン的「歴史的事象の解説」を台詞及び字幕で挿入しつつ、全体の枠組みを『ゴドーを待ちながら』(=終わりなき日常としての)においたのは一種の奇想ではあれ、うまく機能していた。三島小説の言葉が喚起する新劇的なもの/アングラ的なもの(いわゆる大げさな身振りと発語)はそのままにしつつも、特に後半、それがカッコ付きであることが強調されにつれ――それは、俳優が必ずしもそうしたメロドラマ的身振りに長けていないという欠点をカバーする役割すら果たす――、「今の時点」からこれをどう考えるのか、ということを観客に問いかける姿勢は評価すべきである。最後に観客を屋上に導き、「終わりなき日常」=ゴドーが再演されつつ、実際に星を眺めることと、劇場の外の「現実」へと観客を送り返すというテント芝居の「常套」を換骨奪胎した歴史意識も評価されるべきだろう。

3.シンガポール/ダニエル・コック・ディスコダニー『ゲイ・ロメオ』
 これは純粋にパフォーマンス・アートであり、演劇と同列に論じるべきかどうか意見が分かれるところである。いずれにせよ、これはwell-made queer performanceである。観客をここまで意識化した(つまり演劇をここまで対象化した)上演は公募プログラムの中で唯一に近かったことも評価したい。前半は、よくあるプロジェクターを利用したレクチャー形式のパフォーマンス(その出自はウースター・グループというか、スポールディング・グレイだろう)。「わたしの経験を話す」という枠組みで、小冊子の中に本人が経験したと思われるゲイセックスのさまざまな記憶/記録があり――実際に、10月に来日して出会い系サイトを使ったようだが、語学の問題もありうまくいかなかったと聞いた――それにアトランダムにアクセスしながら(だから、やはり記憶ということか)、舞台上ではその経験と関係があるのかないのか判然としない静止画や動画、さらにレクチャーテーブルの上には、日常的なオブジェ(人形、香りのビーズ等々)が置かれては、しまわれていく。(途中、糸をどんどんほぐしていくことによるいわゆるパフォーマンス的な場面もある――後半への架け橋の準備となる)。この間も、観客との対話も挿入され、自己紹介から始まってコーヒーの無料券があるから明日、一緒にお茶しようというような場面もあり、観客は少なくともここまでは個々の脳裏でこれらのイメージや言葉を結びつけるような要請がある(観客は分断される)。後半、20分後にダンスが始まることを予告しながら、観客にその見方を教える部分は秀逸で、実際に彼の身体に欲望する、美的に見る、批評的に見る、疑念をもってみる――それ以外に、上演の見方があろうか?――というのを、対応する照明の色を変化させつつ、まずは短いダンスで練習させた後で、15分程度の圧倒的なポールダンスになる。ひとまず、その圧倒性で観客の統合が目指されるが、実際には、照明が変わることで、そのように圧倒されることは理論的には許容されていないのが何よりこのパフォーマンスの肝である。啓蒙と感動、芸術と社会、クイアと批評性、さまざまな問題性を喚起しつつも、ここまで押しつけがましくないこと自体、評価されるべきでもある。

4.中国/新青年芸術劇団:『狂人日記』
魯迅の『狂人日記』を使った上演である。舞台上はがれきの山で、そのなかに人々(個性/人格は与えられていないコロス的存在)がいる。基本的には、「現実の悲惨」を詩的に舞台上に声と身体で記述していくという意味で、実にオーソドックスな演劇である。家制度を基盤とした中国社会を歴史的に撃ちつつ(繰り返される欺瞞、不正、飢餓等々――そのままでしかない現状を告発するのだが、「食べること」を中心にして、食物汚染、大気汚染といった現代の問題もさりげなく織り込まれている。告発が自動的に要請する強い身体性が舞台上にあふれ、その意味では強度のある上演である。「四千年の間いつも人間を食ってそこで無駄に過ごしているんだ」「これから先もどうせ同じさ」「子供を救おう!」という一連のやりとりが全体のトーンをよく表している。絶望しかないのか。答えは「救いはない」である。ただ、こうした「救いはない」こと自体はもはや肯定するほかはないテーゼではあり、そのテーゼを今このように発語する必然性にいない(と言うのは欺瞞かもしれないと思いつつ)われわれは、その意味でのアルカイックな感じをどう考えるかが評価の分かれ目となる。仮面=死者の使用は効果的ではあれ、やや単調になったか(声のパフォーマンスになる)。この「作品性」をどう評価するかもポイントか?(海外参加には「作品性」をあえて希薄化しているものが多かった。)

5.台湾/WCdance:『小南管』
 モダンダンスのダンサーたちが、南管オペラ(伝統芸能)の実演者と交流した記録=記憶を上演化したもの。伝統と現代というそれこそ「伝統的主題」があるのだが、その主題についての思索や言及はあまり見られず、その意味では、拍子抜けした。知らない伝統芸能を学び、そのことで、都市住民(グローバル化した都市)の不安からの、ある種の、一時的な逃避を達成するという物語構造は、それが事実であったにしても、あまり面白いものではない。こうした伝統と現代の出会いは、現実にはそこら中に、相当前から、多々起きており、この作品がそうしたものとどこが違うのか――そのプロセスそのものを上演化したということはともかく――よく見えてこない。ただ、ともに、しっかりしたテクニックを持つ演者たちがそこにいることの満足感や、南菅の身振りとダンサーのいかにもモダンダンス的身振りや身体性の対比が、さまざまな知的観察を誘うことはもちろん確かではある。

6.台湾/アゲインスト・アゲイン・トゥループ:『アメリカン・ドリーム・ファクトリー』
 突如、日本の1980年代に戻されたような感じがして、それはそれでおもしろかった(ダンスや演技の「下手さ」加減が)。日本の80年代演劇と影響関係が具体的にあるのかどうかはわからないが、唐突に始まるダンスやメロドラマ的音楽の使用等々、とにかく似ている!アメリカ/グローバリゼーション批判というのも、なんだか久しぶりに聞くテーマで(今回はこれだけだっただろう)、その意味では「台湾の今」を記述しつつ(実際のインタビューをまぜ)、「嘆く」(告発にはなっていないのではないか)というような側面があったのだろうとは思う(たとえば、主要な物語の留学生はユーロ圏にいるといったような設え、反体制的だったはずのロック音楽の無害化と植民地主義化、コンドーム実演販売をめぐる本音と建て前、兵役の滑稽さ等々、バイトの悲惨)、幕開きでの神話性の付与(怪物=中国からの離反/独立とアメリカ的グローバル資本主義の誕生とそれとの伴走?)というのは、結局のところ、あまりうまくいっているようには思えなかったが、それと、物語の身近さ、通俗性のコントラストは、おもしろかった。夢は叶わないというメッセージはしかし、あまりに古いのではないか......「若者」の特権批判ではあれ。

7.韓国/Co-Lab プロジェクト・グループ『Co-Lab:ソウル―ベルリン』
 これもまた、二人のダンサーの現実における出来事を記録しつつのパフォーマンスで、ドキュパフォーマンスと呼べるもの。ペアのうちのひとりがベルリンに行くことになり、そうした現実の状況下で、共同作品を作るとはどういうことか、という問いがあり、その問いを思考していくプロセスそのものが作品となっている。ただベタな記録というのではなく、ベルリンとソウルの距離が、ネットの普及でどう変化したのか、ということも含め、両方で制作したダンスを画面上で見る場面などで、あくまでも問いとしてだけ提示する姿勢は評価できる。劇中、紙にハングルでいろいろ書いていくのが、何を書いているのかわからなかったのがやや困ったところだったが、最終的に、身体が同じ空間にいることでこそコラボレーションは可能だというような通俗的な結論になっていないこと自体が、ライヴ性とメディア性の境界が曖昧である今、重要だったように思う。「ふつうの女の子」がダンスが好きで、たまたま、地理的に分断されたときに、何が考えられるか、という意味では、地に着いた発想とそこから単なる日常には回収されない思考とそれがもたらした感情や行為のきっちりした軌跡が描ききられるという意味で、好感を持って見た。あえて、東西分断(ベルリン)と南北分断(韓国)について、少なくとも、あからさまには言及しないという姿勢も評価したい(そんなことを言い出しても、追求できないわけだから)。

8.The end of companyジエン社:『キメラガールアンセム/120日間将棋』
 字幕問題アリ。平田オリザが途中でほおり出した(と、わたしは考えているが)「世界をあるがままの姿で描く」ということを、字義通り実直に、その先をやろうとしていると考えられる。そのための、極限に近い同時多発と主体(人物設定)の揺らぎ(交換可能なアイデンティティ)という上演的手法があり、「福島後」という戯曲の設定があるのだろう。ただ、それ以上でもそれ以下でもないのではないか、ということが問題。実際の上演では、テクニカルな高度な困難さが、ある意味、めざましく克服されていた(相当に稽古を重ねたのだろう)と評価できる。もちろん、俳優には高度なテクニックが要請され(具体的に依拠する装置等なしで、瞬時に、さまざまなモードを切り替えることを要求されるわけだから)、それが十全に達成できていたとは思われない。が、たとえ、達成できていたとしても、こうやって、「わたしたちの現実」を戯曲的に/上演的に描ききるということ自体、その現実を越えることはないという意味も踏まえ、なんの意味があるのかよくわからなかった(それは、平田批判において、わたしがずっと繰り返してきた批判でもある)。毎日一手しか打たない将棋というのも、平田オリザがよく使う、ある種の上演空間の焦点化として機能しており、「わたしたちの現実」の的確な比喩であるとは思う。

9.重力/Note:『雲。家。』
 字幕問題アリ。今回イェリネクを取り上げるということは、他の上演と比較されるということを意味しており、そのことに作家が自覚的であったかどうかは不明だが、少なくとも審査員は比較してしまうことを余儀なくされる日程になっていた。『雲。家。』を、日本で活動する「ふつうの演技体」で発語するというシンプルな設定である。それなりに動きもあるが、基本的には映画館/美術館と観客席という設定?(そこがはっきりしない)のようで、時間が経過するにつれ、内容とはほぼ無関係に設定が移動していき、最終的にはちょうど180度回転したような形になる。それ自体、イェリネクの「わたしたち」という主題と即応していると言えなくもないが、見る者としては、形式的な移動を繰り返すことで、テクストを「そのまま発語する」ことを演劇的/劇場的に可能にしようとしたと考えられ、ロバート・ウィルソンの『ハムレットマシーン』上演を思い出していた。しかし、身振りの形式性/様式性は希薄であり、一方、三浦基的な台詞にブレーキをかけるないしは「不自然」な間を入れる等の人工的な原作への介入はほぼなかったように記憶する。初めてイェリネクを「聞く」体験で、このしつらえがどう機能したかは想像するほかはないが、『光のない。』『光のないⅡ』『レヒニッツ(皆殺しの天使)』と聞いて頭の中でイェリネク的言語が記憶に響き渡っている状況からでは、それほど問題なく言葉は「入ってきた」という感触であった。「テクストを聞かせる」ということが所期の目的であれば、それはそれで成功したと思うが、ではなぜ、「テクストを聞かせる」必要が、今あるのか、ということには、特には答えていない上演だったことが不満である。

10.ヒッピー部:『あたまのうしろ』
 字幕問題アリ。今回の公募プログラム中、もっとも異彩を放っていたことはまちがいない。「写真家が写真を撮る行為そのものを上演する」というのは、アクションペインティング等のことを考えても、ほぼ前代未聞の試みである(豊島重之の試みはある)。とはいえ、リアリズムであるわけではないので、写真家の「想念」と「現実」が同時存在するようなしつらえで、二重のスクリーンと壁に映る映像等を利用した「写真家の写真を撮る行為の途中で写真家の五感に生起するものを上演空間で記述する」試みである。バルトその他の写真論の引用や古井由吉の小説の朗読等もあり、よく考えられていることは否定できない。ただその過程で、物語的時間を駆動するために「母」を導入したために、写真と撮るという行為そのものの暴力性がはからずも?露呈しており、そのことについての作家の立ち位置が表明されないことが気になった。なぜ、「女」が呼ばれなければならないのか?この作品で、「男」が呼ばれたら、この作品は成立しないのではないか?という疑問を起こさせてしまったということである。とはいえ、この極私的でありながら、「写真とは何か?」という普遍的問いへと直結している諸問題を演劇で「公開する」という倒錯した感じは、評価に価する。

11.集団:歩行訓練:『不変の価値』
 字幕問題アリ。前半が長すぎたとは思うが、全体としては、なんというか、そのわけのわからなさが際立っていた。前半、舞台上の俳優を観客が金銭と交換で演出していく部分は、観客の「良識」によるところが大きく、わたしが見た上演では、それなりにカオティックにはなったが、無理難題は特になく、逆に言えば、あまり意味があるようには思えなかった。観客の期待値を上演は超えないというメタファー以上でも以下でもない(つまり、金銭の交換行為としての上演という、ある意味では本質のわしづかみ的ノリではあるのか?)。後半に至ると、完全にパッチワーク的なテクストが、恣意性を発散させながら、それなりに上演されていく。すべてを明らかにする/秘密は何もないという意味で、上演の起源を明かしながら上演が進行するわけだが、しかしそれは主として言葉の起源であって、俳優の起源ではない。とはいえ、字幕がここまで上演(とその受容)に影響を与えることは希で、それはそれで興味深い。基本的には、高度資本主義経済下に生きる「わたしたち」ということで、「金」と「人間関係/主として男女関係」と「日常」というキーワードにしたがって、集められたテクストの断片が、それなりに関係づけられながら、発語されていく。そのなかには、演劇にできることは、思想的に状況を語ることだけだ、と言ったような、作者の本音?とも取れる言葉もあるにはあるが、ここまで断片化されていると、全体として何が手渡されるかのかは、個々人によってまったく異なるということになろう(作者の頭の中を、編集せずに、そのまま手渡されたという言い方も可能か)。よって、前半の演出をつけていく部分が、観劇後の記憶に強く残ることになってしまう。とはいえ、ここまで自覚的で自意識過剰(を少なくとも装う)な作品は、日本ではめったに見られるわけでなく、その意味では評価に価する。

以上が、わたしが準備した「審査会用メモ」である。
 さて、今回の公募プログラムで気になったのは、まずは、テクニカルな点ではあるが、審査員に日本語を理解しない人が入っているということをどう考えるか、ということである。メモ中、「字幕問題アリ」と書いたのは、日本語を理解しない審査員には評価が相当むずかしかっただろうという意味である(このうち、集団:歩行訓練については、別途、翻訳テクストが審査員に渡されていたと審査会の席上、知ることになった)。字幕がなくても評価できるはずだという立場もありうるが、少なくとも審査会では、内容がまったく理解できなかったという声が多かったように思う(それは、韓国語字幕がなかった中国や台湾の作品にも、中国語字幕がなかった韓国の作品にも当てはまる)。似たようなテクニカルなことでいえば、総じて日本の小劇場系と見なされる圏域では、ハイコンテクストな上演が主流であることへの自覚性という問題がある。ハイコンテクストであるにはそれなりの歴史的事情や理論的理由があるわけだが、それが共有されていないと、たとえ日本語圏であっても、理解されないことが必然となる。それでもよい、という立場は、これまたありうるが、このアワードのように、日本語ネイティヴではない審査員による審査であるという制限があるからには、ある程度の妥協はやむをえないのではないか。
 最終的にわたしは、『バラバラな生体のバイオナレーション!』と『ゲイ・ロメオ』をアワードの候補と考えるようになったが、それは何より、舞台芸術の基本である政治性と美学性のバランスが、高レベルで取れているという点が大きかった。これらについては、「ウェルメイド=よくできている」にすぎないではないか、という批判もありうるが、賞の性格上、その批判を持ち出すべきではない、と今回は判断した。結果的に前者を選ぶことになったのは、後者の理論的基盤がややナイーヴであることがわたし個人として気になったからである。とはいえ、どちらが受賞してもよかったと思っている。
 つづいて、『美しい星』と『不変の価値』を挙げたい。特に『不変の価値』には、観客参加というおなじみの形式を取りながらも、メモにも書いたような「わけのわからなさ」があり(なぜ、こんなことがやられなければならないのか?と思いつつも、やられていることをなぜか注視してしまう)、集団:歩行訓練の今後の活動に注目したいと思ったのである。また、『Co-Lab:ソウル―ベルリン』にも強くひかれたが、これを評価する批評言語を、今現在のわたしは持ち合わせていない、という感じで、その点が自身の反省点として残った。
 ここまでの議論で理解できるように、わたしの審査基準は、フェスティバルにおけるアワードであることを踏まえ、政治性と美学性のバランスをまずもって、優先するということであった。若手アーティストの賞であるので、バランスよりも「志の高さ」ないしはまだうまくは行っていないが将来的には十分ブレークする可能性がある、という評価基準もありえたが、そして、今回に関してはCo-Lab プロジェクト・グループ、集団:歩行訓練、ピーチャム・カンパニーとヒッピー部にその可能性があると考えたのだが、そのどれについても、わたしが確信が持てるまでには至らず、バランスが高レベルで取れていた二作品を推すという結果になった。

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