F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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20世紀を表象する言葉とはなんだろうか。戦争、革命、運動、マイノリティなど、挙げればいくつもでてくる。ただし、それらの言葉がもつ視点から時代を切り取ると、20世紀というものがもった、ある現象が鋭利に浮かんでくる。だからこそ、そこに一つ言葉を足してみると、移動という言葉がでてくるのではないか。
むろん、人が移動すること自体は、有史以前からある。しかし、その形態を分析すると、20世紀から現在までの移動という問題は、また違った位相として現れる。19世紀に現れたヨーロッパからアメリカへと移動する大規模な人口は、20世紀になると多様な移動の流れを生み出した。また、強制連行やポスト・コロニアルという言葉に代表されるように、宗主国と植民地のなかでの移動もある。ただ、それらが貧困というものを大きなバネとしていたのに対して、夢を叶えるための移動というものが生まれたのが、20世紀末の特徴ではないか。いわば、単に貧しさから富裕層を目指すための移動ではなく、自己実現を求めた移動。
台湾のアゲインスト・アゲイン・トゥループという劇団が上演した『アメリカン・ドリーム・ファクトリー』は、そのような夢の形態を取り巻く現在の状況を扱う。もちろん、アメリカなるものが形作られる初期から、アメリカン・ドリームという言葉はあった。土地所有や金や石油の採掘をはじめ、富裕層へと貧しい階層から脱出するチャンスは夢見られた。だが、この舞台の扱う20世紀末から現在までのアメリカン・ドリームのもつイメージは、いわば大いなる希望のなかにある夢というより、もはや誰もが見知ってしまった夢の果ての姿といっていい。
舞台はいくつものシーンが断片的に構成される。たとえば、あるシーンでは、マクドナルドのイメージキャラクターやミッキーマウスなど、かつては富裕として憧れの象徴であった豊かさのイメージが現れる。しかし、今ではそのようなイメージは、それこそジャンクに散逸されて、すべてがどこかで見たことのあるものにすぎなくなっている。少なくとも憧れの対象とはもはや言えないだろう。他のシーンでは、デパートの一角で売り子が販売をしている商品は、「アメリカン・ドリーム・コンドーム」と呼ばれるものだ。それはアメリカン・ドリームなる言葉と現実が、いまでは使い捨てされる程度になってしまっているというメタファーだろう。
だからこそ、舞台で話される夢は、通俗的である。ビデオ映像で台湾の街角の人たちにそれぞれの将来の夢を聴くシーンがあるが、そこで青年たちが話す夢は、なに一つ特異なものはない。ただただ、誰もが思いつくようなありふれたものに過ぎない。他にも、レディ・ガガやスーパーマーケット、ウォーホールのイメージであるポップアートなどが舞台におかれるが、もはやキッチュともいえないような、もののなれの果ての姿となっている。
実際、あるシーンではロンドンの公衆電話から台湾の実家へと電話をかける女性がいる。それは夢が破れて、実家からお金を借りようとする姿だ。しかし、うまく借りることもできず、彼女は男に体を売ろうとする。このありがちな夢が破れた末路を含め、もはや夢は我々がイメージできる範囲に収まってしまっている。
つまり、今では、アメリカン・ドリームという夢そのものが、まるで工場でラインに乗って生産されているかのようなものなのだ。そして、夢へと憧れをもつことも、まるで生産された商品として享受するように限られた範囲のものとなっている。いわば、見る夢が貧困なのではなく、貧困のなかに夢が囚われてしまっているのだ。
それは、なにもそれぞれのシーンだけに限らず、舞台全体を基調として覆っている。今の世界は、アメリカニズムという名のグローバリズムに包摂されている。アメリカン・ドリームという作品のタイトルでありながら、ロンドンから台湾の実家へ電話を掛けるということは、マクドナルド的カルチャーが作った夢は、すでに世界を覆ったということだ。それはどこにいても同じなのだ。日本を含めて、80年代の台湾と同じように、アジアの主要都市の経済発展は、グローバリゼーションという名前のアメリカの影によって等しく、同じような経験をもたらされた。
だからこそ、この作品もまた、どこかで観たことがあるかのような作品となっている。ありふれたというよりも、あまりに安っぽいチープさが漂っている。突然、ダンスシーンが入ったり、小劇場ならではの俳優たちの身振り一つとっても、それはどこか既視感がある。日本ならば、80年代に起こった、アメリカからパフォーマンスという概念が導入されて、パフォーマンス・ブームが起こったときの作品を思い出した人もいるかもしれない。この作品がどこかで観たことがある舞台となったのも、取り扱うテーマとしての夢というもの自体が、すでにどこかで見たことがあるものとして基底されたからだろう。その表象としてこの作品はあった。