F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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まず何よりも、そこがどこなのか観客にはよく分からない。最初、会話により病院の待合室らしいと思わされるのだが、途中から「ここは私の店よ」と主張する女が出てくる。椅子しかない狭い空間に、10人近くが詰め込まれていて、そのうちの数人が将棋をしていて、そのうちの数人が会話したと思ったらそれが同時多発会話に変化する。話の内容はたわいもないことだ。平田の劇のように老若男女幅レンジが広く取られた登場人物が、その特性に特徴的な演技をするというのではなく、登場人物は一人「球根叔父上」と呼ばれるおじさんがいる以外、みな20代らしき若者。やっと誰が誰なのか判別できるようになった頃にみなが同時に喋り出し、しかもAさんだと思っていた人が途中から違う名前で呼ばれたりする。
ジエン社は何のために同時多発会話をさせているのか。平田は「私にとって、現代演劇とは、混沌とした世界を、混沌としたままに提示することなのです」(※1)と語るが、平田が同時多発会話をさせればさせるほど現実に近づいていくのに較べ、ジエン社がそれをすればするほど、現実からは離れていく。そもそも、ジエン社の同時多発会話に特徴的なものに、同時に並行する会話がある瞬間呼応し合うというものがある。それも、カクテルパーティなどで実際に隣り合っている二人組同士が隣の会話が聞こえて影響されるというようなものではなく、明らかに全く別のシチュエーションで喋っている二人組同士の会話が突然、ある単語により繋がり、方向性を変える。
ジエン社が同時多発会話をさせている理由はむしろ、ハンス=ティース・レ―マンの「ポストドラマ演劇」の中のこんな言葉がぴったりくるのかもしれない。「同時性の意図と効果はなにかという問いには、知覚の断片性が不可避な体験となるという答えが返ってこよう。」(※2)「重要なのは、この全体なるものの放棄が欠損としてではなく、書き-続け、空想し、再結合させる解放的な可能性として考えられることだろう。」(※3)
この劇は「全体なるもの」を放棄している。「芝居らしさ」も、がしかし「現実らしさ」も両方放棄している。あるのは、判別がつきにくい若者たちの肉体から発せられる声が増殖し、衝突し、化学変化する様であり、それによって人格が変わり、物語が変わる様である。同時に発せられる言葉を知覚しようとする、知覚できるかできないかのギリギリ感を味わう時の、聴覚が拡張するような感覚に、震える。そこにある身体が声に乗っ取られる。声に乗っ取られて別の人格になり、声に乗っ取られてあらぬことを口走るのを固唾をのんで見守る。あるのは声の優位性だ。そこがどこであるかも、誰が誰であるかも、その男が本当に死ぬかどうかも、その女が本当に妊娠しているのかどうかも、よく分からない。ただ声、多様な声、たくさんの声を、必死で聞き分ける。
ただ手法の明確さ、過激さのわりに、感銘を受けたかというと微妙なのだ。ドラマがたわいなさすぎるのが原因だったのかもしれない。或いは、そのたわいなさが軽すぎず、空虚とまではいかず(繰り返される3.11への言及、ドラマをずっと通底している一人の男の死)、手法と共鳴しきれなかったのかもしれない。或いは観劇後より上演台本を読んだ後の方が感銘を受けたので、「実際に劇になる」過程で、何かもう一つ仕掛けのようなものが足りなかったのかもしれない。或いは身体性の問題がネックであったのかもしれない。テクストではなく「声」である以上、朗読ではなく「劇」である以上、その声を発している俳優の身体がある。生身の人間が「声」に乗っ取られる面白さを表現するには、その俳優がもつ身体性との対比が肝になってくると思うのだが、それを表現するにはステージが狭すぎたのか(平田の同時多発会話は、ステージの上手と下手など、常に空間を生かした演出をしている)。俳優の持つ身体性に拘泥しない風情は、アニメなどの二次元性に共通する(今時の?)感性を、若干感じてしまったりもした。
と文句をたくさん書いてしまった。ジエン社的な、増殖する、文句だ。「全体なるもの」もなく「芝居らしさ」「現実らしさ」のどちらにも寄らず、ただ俳優たちの肉体から発する声のみで勝負した劇にふさわしい、「もしこうであったら」という可能性の増殖。開かれた可能性と希望はジエン社も、観客をも育て、また新たな場を作るだろう。そこで私たちはまた声が「書き-続け、空想し、再結合する」姿を、目撃するのかもしれない。そして今度こそ、「ことばの彼方へ」到達するのかもしれない。例えフェスティバルのテーマが、もうそれでなかったとしても。
※1)『演技と演出』(平田オリザ著、講談社現代新書)p149
※2)『ポストドラマ演劇』(ハンス=ティース・レ―マン著、谷川道子ほか訳、同学社刊)p112
※3)同上p113