写真をめぐる4つの断章(『あたまのうしろ』評)
「写真と身体行為の関係性を探求する」カンパニーであるヒッピー部の『あたまのうしろ』を観た後私が思い出したのは、ロラン・バルトの写真論『明るい部屋』、また多木浩二がバルトの写真論に触発されて書いたいくつかの論考だった。いずれも、根底にあるのは「(自分にとって/世界にとって)写真とは何か」という切実な問いである。ヒッピー部主宰の三野新、バルト、多木、三人に敬意を表してこの論考では私も写真、或いは写真と「何か」について考えることとしたい。
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何故いま、此処で『雲。家。』なのか
男/女、強者/弱者、被害者/加害者、単純な二項対立に収まらない物語を紡ぐ力を、言葉を、エルフリーデ・イェリネクは持っている。例えば3.11のような甚大な悲劇が起きたあと、被害者に肩入れし、二元論の世界を構築し、東電なら東電、政府なら政府と敵をはっきり決めた勧善懲悪の物語を語ることの方が作り手は倫理的にしやすいだろう。ただ何故か受け手は嘘くさく、寒々しく感じてしまうのだ。例えば3.11が引き起こした原発問題を考えてみれば、誰が被害者で誰が加害者かなどという線分けはもう意味をなさない。福島市民は首都圏に送電する図式の中で犠牲になったとも言えるのだ。その図式の加害者の中には、全く加害の意志のない人々の方がほとんどだろう。
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寄る辺なさと親密さ――WCdance『小南管』
中国の福建省から台湾にかけて、「南管」という伝統芸能(音楽・舞踊劇)が存在する。唐の時代まで遡れるともいわれ、今日では台湾で比較的よく継承されているが、類縁は東シナ海沿岸地域から東南アジアに広く分布する。2009年にはユネスコの無形文化遺産にも登録された。
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時間の外へ――シアタースタジオ・インドネシア『バラバラな生体のバイオナレーション! ~エマージェンシー』
アジアの舞台芸術において言葉の壁は大きな問題だが、それを乗り越える表現手段としてフィジカルシアターが独特の発達を遂げて来たことは日本でも比較的知られている。「日本国際パフォーマンス・アート・フェスティバル(NIPAF)」やストアハウスの「フィジカルシアターフェスティバル」などが精力的に紹介してきたからに他ならないが、今回のF/Tにおけるシアタースタジオ・インドネシア『バラバラな生体のバイオナレーション!~エマージェンシー』の上演は、そうしたいわゆるアングラ的な文脈ではなく池袋駅前の広場という文字通り「地上」で行われ、しかも場の特性上、通りすがりの人々の目にもふれる入場無料の公演になった点、そしてそのスケールの大きさによって、異色の出来事だったといえる。
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観客の主体性への振付――ダニエル・コック・ディスコダニー『ゲイ・ロメオ』
確かにダンスが中心にあるとはいえ、あえて因習的な風俗としてのダンスに固執するこの作品を「ダンス作品」として論じるべきなのかどうか。むしろダンスに至るまでの手続き、そして(ポストトークでの本人の言葉を借りれば)ダンスを「正当化(justify)」する手続きに焦点をあてたパフォーマンスであり、とりわけ「観客」という制度への考察を鋭く掘り下げている点に注目すべきだろう。
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狂気のおかれる位置
狂気と一言にいっても、それはどのように形作られているのか。少なくとも、狂気の位相は、時代によって可変的なものである。もはや、現代の古典といえるフーコーの『狂気の歴史』には、狂気が扱われた古典から近代にかけての歴史を通すことによって、西洋を覆う狂気の思想までが書かれる。それは、監視や精神医学という問題と連関し、現在の社会に至るまでの狂気の問題が、理性の関与とともに提示される。
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ノスタルジーとメランコリーをこえて
久方ぶりに、若手でありながらも、演劇の時流を賢しく考えて作品を創らない集団がいた。むろん、そのような文脈を気にすることは、概して日本の小劇場文化と一笑に付されてしまうものに過ぎない。
今回、ピーチャム・カンパニーが上演した三島由紀夫原作の『美しい星』は、昨年のフェスティバル/トーキョーの公募プログラムで上演された『復活』という作品とは、一線を画したものとなった。『復活』を覆う作品の色合いは、一言でいえば「アングラ」だった。黒テントか唐十郎の影響でも受けたのだろうか、なぜいまさら彼らはこのようなアングラ・スペクタクルロマンに憧れ、アングラ・ノスタルジーに染まった作品を作らなくてはいけないのか、まったく理解できなかった。少なくとも、3・11や福島という問題を扱っていても、どのような形であれ「革命」を問わずして、アングラの衣裳をまとっても無意味に思われたからだ。
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F/T公募プログラム選評(2012) 小さな身振りか大きな身振りか? ――身振りの思想性、その演劇との関係をめぐって――
私はここで公募プログラムの審査結果発表会で問題にされた、作品評価の基準としての身振りについて問題にしつつ、幾つかの作品について分析していきたいと思う。作品を評価するにあたって、大きな身振りによって上演されたものと小さな身振りでしかないものとでは、大きな身振りの演劇のほうがより優れているのかどうか、作品を評価する基準として、どうやら大きな身振りによって上演された作品のほうが高く評価されてしまうのは致し方のないことなのではないか、そういった見解が述べられたりもしたこの審査結果発表会は、私にとって、演劇の評価基準における身振りの問題を改めて考えるきっかけになったし、また公募プログラムにおいて上演された作品をどのように考えるべきか、ということを身振りの視点から考察する出発点にもなった。
ということで、私はこの問題を軸に据えて、2012年度のフェスティバル・トーキョーの公募プログラム作品について考え、そして、その審査結果が、最終的にどうしてそのようなものとして決着したのかについて考えていきたい。
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フェスティバル/トーキョー12 公募プログラム 選評
200件近い応募の中から、たった一つの作品にF/Tアワードを授ける。それはなんと多くの困難をはらんだ行為だろうか。私はこの公募プログラムという枠組をつくり、その応募対象をアジアに拡大し、さらにアワード制度を作った張本人としてこの困難を自覚してきたつもりだが、今回はこれまで以上にその困難さと向き合うことになった。もともと公募プログラムは、若手劇団の自主公演をサポートする目的で創設された枠組であり、ディレクターが設定するテーマや価値観を強く打ち出す主催プログラムに対して、まだ評価の定まらない多様な表現を複数紹介し、劇場(シアターグリーン)の無償提供や制作サポートによって柔軟に支援していこうという意義で考案された。当初は国内の若手劇団を対象にしていたものが、前年度よりアジア全域に対象地域を拡大したことによって、アジアというパースペクティブの中であらたな意義と様相を帯びることになった。一言で言うならば、個々の作品として立ち現れてくる表現の独自性はもちろんだが、それらが立脚する文脈や歴史観、社会状況の多様さがより前景化し、それらを単純に比較し批評することが困難であることがより明らかになったのではないだろうか。しかし、それでもアワードは決めなければならない。作品を問うている側が、同じだけ作品に問われる。それが今回の公募プログラムの、私なりの苦しくも豊かな経験であったことを最初に記しておきたい。
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