劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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観客の主体性への振付――ダニエル・コック・ディスコダニー『ゲイ・ロメオ』


 確かにダンスが中心にあるとはいえ、あえて因習的な風俗としてのダンスに固執するこの作品を「ダンス作品」として論じるべきなのかどうか。むしろダンスに至るまでの手続き、そして(ポストトークでの本人の言葉を借りれば)ダンスを「正当化(justify)」する手続きに焦点をあてたパフォーマンスであり、とりわけ「観客」という制度への考察を鋭く掘り下げている点に注目すべきだろう。

 オンラインの出会い系サイト「ゲイ・ロメオ」を通して出会ったデート相手との出来事や記憶を起点としつつ、その中の誰かが客席にいる(かも知れない)という想定で、ダニエルと客席のやり取りが始まる。観客には予め冊子が配布されており、各ページには彼が経験した様々なエピソードが記されている。
 ダニエルがノートPCを使ってページを指定し、観客はそこを開いて読む。各ページには私的な出来事や感情の記憶が簡潔に描写されており、スクリーンにはテクストと関係のあるもの(彼がデート相手からもらったプレゼントや、クィア映画の断片など)が映し出される。この部分はかなり長く続き、観客は普段の劇場での気分と違っていることを次第に意識させられる。客席の照明が点いたままであることは別にしても、本を読むということは一人一人が個人的な行為に没入することを要求するのであり、この「個」の感覚が通常の観劇体験とは異質なのである。
 さらにそれを助長するかのように、ダニエルはテクストと関連した微小な物体(例えば小さな人形、ニンニクと唐辛子(ペニスの比喩か)など)をわざわざカメラで撮影してスクリーンに大写しにして見せたりもする。「注視」という行為もまた、プライヴェートな行為の感覚を強める。一人一人が自分の視界を狭く区切ることになるからに違いない。
 こうして観客は巧みに「個」の単位へと分割されていき、しかもその事を自然と自覚させられる。半ばは協力関係のもとに、半ばは偽装された必然性のもとに事態が進行するため、操作されているという印象を与えない点が見事だ。いつしか、ダニエルが客席に向かって話す時、観客は匿名集団の一部としてではなく「私」として向き合っているのである。デート相手の一人からもらったというカフェのクーポンを観客の一人に渡し、実際にお茶の約束を取り付ける場面もある。
 やや長大だが鮮やかな地均しが済んだ後、ダニエルは観客を再び「集合」へと束ねていく。印象深いのは、エピソードが語られた後に刺繍糸の糸巻をテーブルから落として転がす場面、そして少ししてから、今度は大量の糸巻を引きずりながら踊るシーンである。「糸」(thread)はもちろん彼が経験した「物語」(thread)のメタファーに違いない。そうした視覚的な意味表現が舞台で行われる時、観客は「個」よりも「集合」の方にやや寄った立場でそれを眺めている。眼前の出来事を対象化し、客観的に捉えることが要求されるからだ。
 そしていよいよ、デート相手への返礼としてのダンスが始まる。観客に対しては、ダンスを見ることにまつわる説明が行われる。まず四色の照明に合わせて異なった見方をするよう指示され(赤:性的な関心とともに見る、黄:美的に鑑賞する、緑:知的な思考とともに見る、青:疑念を抱きながら見る)、その上で、「ミニ・ダンス」と称して「練習」までさせてくれる。明らかに過剰な準備の過程(パレルゴン)が、冗談から本気への、日常から非日常への、滑らかな移行を促していくのである。いつの間にか照明は暗く絞られ、煽情的なテクノのビートが響き渡り、ダニエルのダンスはこれ以上ないほどナルシスティックに踊られる。しかしもはや観客は例の四つの見方を自覚しているため、なかば超然とそれを受け止めることができる。
 いや増しに高まる非日常的なムードの中、ついに白熱のポールダンスが踊られる。ソロダンサーの身体は、見る者たちの眼差しを一身に受け、神々しく輝く。それはまさにダニエルが"You will disappear."(あなたは消失する)と繰り返し唱えた通り、彼に対する観客一人一人の身体的な自己同一化を強力に引き起こし、主客の区別を見失わせるヒロイックな焦点である。
 冒頭でも述べたように、『ゲイ・ロメオ』は快楽としてのダンスを「正当化」する手続きを主題としたパフォーマンスである。個が集合へと束ねられ、カリスマ的なソロダンサーの身体へと昇華されていく。あられもない享楽と熱狂が、公共的に開示された着実な手続きのもとに成就される。踊ること、そして見ることの快楽とその危険は、「アート」の名のもとに、あるいは「教育」の、あるいは「モラル」の名のもとに去勢されるのではなく、最大限の注意を払った上で肯定される。それは欲望とセキュリティとの拮抗を保ちつつ両者の可能性を限界まで拡張してみようという知的な実験であると同時に、ダンスと社会統制という普遍的な(そして今まさに日本でも注目される)問題へのコメントともなっている。
 しかしその分、この作品はダンスそのものには全く手を触れずに終わっていることも確かだ。ダンスについてのパフォーマンスを行うためにはむしろ積極的に普通の、風俗としてのダンスが必要だったのである。ではこの作品でわれわれはいったい何を経験したのか。一つには、ダンスという文化に対する「知」、とりわけ観客という存在の構造への捉え直しであるだろう。他方、これはダンサーよりもむしろ観客に振付を行った作品なのだということもできる。一時間余りのパフォーマンスを通して、観客の主体性は様々に変化する。ソロから、アンサンブル、そしてユニゾンへ、と。この知的で内的な変容の旅こそ、「ダンスを見る」という手段を通じて実現された、特別な経験に他ならない。

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