劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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ノスタルジーとメランコリーをこえて


 久方ぶりに、若手でありながらも、演劇の時流を賢しく考えて作品を創らない集団がいた。むろん、そのような文脈を気にすることは、概して日本の小劇場文化と一笑に付されてしまうものに過ぎない。 今回、ピーチャム・カンパニーが上演した三島由紀夫原作の『美しい星』は、昨年のフェスティバル/トーキョーの公募プログラムで上演された『復活』という作品とは、一線を画したものとなった。『復活』を覆う作品の色合いは、一言でいえば「アングラ」だった。黒テントか唐十郎の影響でも受けたのだろうか、なぜいまさら彼らはこのようなアングラ・スペクタクルロマンに憧れ、アングラ・ノスタルジーに染まった作品を作らなくてはいけないのか、まったく理解できなかった。少なくとも、3・11や福島という問題を扱っていても、どのような形であれ「革命」を問わずして、アングラの衣裳をまとっても無意味に思われたからだ。

 しかし、野外の寒空の中で、今どきがんばって上演する体力のある若手が現れたと、微笑ましく評価する評もいくつかあらわれた。今年の彼らの作品は、むしろそのようながんばりかたによって評価されてしまうことを一蹴した。そして、なおかつ現在の若手演劇を覆うモードにもおもねらない。
それは、今回の『美しい星』を覆う作品の色合いにも表れている。この小説自体が、そもそも三島をイメージさせるような美から離れているということはあるが、作品が発表された当時のことなど、まとわりつく文脈は根深くある。
 たとえば、この『美しい星』が発表されたときには論争が起こった。1950年代中盤ぐらいから巻き起こった原水爆禁止運動を背景にした「原爆文学」の変種ともいえるこの作品は、「原爆文学」の大多数が、政治からの影響圏を抜け切れないなか、(別役実の『象』などは、旧左翼から新左翼の側にスタンスを置いた作品といえるだろう)、サイエンス・フィクションもどきの書き方とも関連するが、政治に直截拠らないものとなった。だからこそ、これは「政治と文学」という問題へと一石を投じることとなった。
 奥野健男の評価から始まり、それに反論する武井昭夫、そして飛び火するような形で吉本隆明を交えて、60年安保以後の形で「政治と文学」論争が起こった。その意味でも、60年安保における旧左翼と新左翼という日本の政治的な文脈をいったんカッコに括り、なおかつキューバ危機などの冷戦対戦という状況を、いわゆる政治と文学が従属的な関係を結ぶ形で「リアリズム」に落とし込まずに書かれている。
だから、3・11以後に、核という問題と連関して、この作品が再び注目されたのも、もともと原爆と原発という違いはあるにしろ、核という問題が文学、ひいては思想や思考にまで影響を与えたことを問うているからだ。
 だが、今回のピーチャム・カンパニーが上演した『美しい星』は、それらを踏まえつつ、そういった文脈が孕んだ問題を軽やかに飛び超えようとしている。上演は、物語としてはほぼ原作に沿って進行される。自分たちを宇宙人と考えている東京の郊外に住む家族を軸に、そこから派生する関係と、同じく自分たちを宇宙人と思っている仙台のグループ、それらが大まかに物語を進行させていく。そして、その家族の父が主張する地球を守るべきか、仙台のグループが主張する地球を滅ぼすべきかという意見の対立がある。そこが物語の肝となっている。そして、父は末期ガンとなり、最後に丘陵に行き、娘が「UFOが来ている」と叫び、物語は終わる。
 だが、上演では結末と合間合間に挿入される独自の部分がある。それが、作品を歴史の磁場から引きはがし、これがいま上演されなくてはいけないことを示していく。たとえば、この作品の上演を事後的に評した批評もどきが冒頭から延べられたり、演出家が突如出てきてコメントを読んだり、そしてベケットの『ゴドーを待ちながら』のシーンが、断片的に物語に入り込む。とくにゴドーを待つことは、UFOを待つ家族と重ね合わせて入れ込まれる。
 挿入される劇評で書かれることは、地球人の身体で宇宙人の身体を演じる、そして俳優が演じるということが、幾重にも重なっていることが述べられる。それを観客に示すように、小説の描写の部分を、台詞に挟み込ませたり、俳優たちがテキストを持ったまま読んだり、それが有効的に響いたとは言い難い側面もあるが、俳優たちの身体を単に物語に包み込ませないように異化しようとしている。
 それは、一言でいえば、三島のメランコリーの文脈をこえるための手法であったといっていい。80年代の『美しい星』の読まれ方は、三浦雅士が『メランコリーの水脈』で述べるように、核というものができたために、未来の時間が終末として確定的なものになった。そのために現在の時間は、追憶の時間にならざるをえない。いわば、メランコリーの状態となる、というものだ。だが、それは80年代という限られた時代の評ともいえるだろう。いわばイメージとしての終末論の流行は演劇においてもあったからだ。(大してすぐれた作品とは言えない、北村想の『寿歌』神話がいい例だ)。
 3・11以後の現実の中で、メランコリーに、もしくはノスタルジックに現在を想うことができるのか。それを問うことが、ピーチャム・カンパニーが上演した『美しい星』の目指したところだろう。CLASKA(クラスカ)という一風変わったホテルの最上階のギャラリーのような部屋で行われた上演は、原作の最後と同じように、UFOが来ていると言われて終わる。ただ、オリジナルな部分として、それから、屋上へと観客は連れ出される。そして、屋外の光景を目にしながら、ゴドーを待つようにUFOを待つシーンが入れ込まれる。つまり、そこでは先ほど来ていると言われたUFOが、実際に来ているかがわからなくなるのだ。
 しかし、そこにはメランコリーもノスタルジーもなにもない。ただ来ることを待っている俳優たちを横目に見ながら、観客は上演の内部から外部へと接続された光景をみながら、そこには現実しかないことを知る。少なくとも演劇において流行した終末論などというものは、現実の前にはるかに矮小であり、後景に退かされたことを知るのだ。
 もはや核というものが、文学をはじめ芸術にもたらされた時間や身体性の現象を分析することよりも、この現状といかに対峙するべきか、メランコリーに考えている余裕などはない。それを逆説的に示した作品であったといえるだろう。

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