F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
カテゴリ内の作品別、言語別での選択が可能なほか、各記事のタグを選択すると条件に応じた記事が表示されます。
WCdanceの『小南管』は、現代の台湾の若者がこの芸能をいかに「知らない」かを主題にしている。振付家の林文中(リン・ウェンチョン)およびWCdanceのダンサーたちの他に、実際の南管の演者たちも共演するが、単にエキゾティックな他者(?)とその伝統芸能を提示するのではなく、それとの「接触」のプロセスを観客と共有しようとするパフォーマンスである。
冒頭でまず振付家からダンサーたちへのインタヴュー映像が流れ、彼ら彼女らが南管について何をどの程度知っているのか/知らないのか、どのようなイメージを抱いているかが示される。「名前は知っているけど聞いたことはない」「伝統文化を守ることは大事だと思う...」などのコメントは日本で聞かれるものと変わらない。やがてWCdanceのダンサーと、「江之翠劇場」に所属する南管の歌手・楽器奏者・踊り手たちが現れる。前者が白で統一されたシャツやパンツなどの「モダンな」舞台衣装であるのに対して、後者はいかにも伝統的な装束をまとっている。舞台には木でできた正方形の低い台が組まれ、演技は主にその上で行われる。
江之翠劇場の演者たちがWCdanceのダンサーたちに歌や踊りを指導する場面もあれば、伝統的な音楽の演奏とともに「コンテンポラリーダンス」の動きで踊る場面、さらにそこに舞踊劇風の立ち回りや所作が組み込まれる場面、そして南管の動きとモダンダンスのそれをフュージョンさせたユニゾンの群舞など、場面ごとに一定のフレームでジャンルの交合が試みられる。
馴染みのない観客にとってはまず南管自体が目新しい。京劇の所作や音楽に似ているとはいえ、スケールの大きい超絶技巧を誇示する京劇に比べると南管の表現は等身大で、優しい。音も動きも、遠くに向けて力いっぱい放たれるのではなく、目の前にいる観客に届くよう調整され、繊細に語りかけてくる。とりわけ笛、琵琶、二胡、歌、打楽器などから構成された小さなアンサンブルは、訥々として、空間の中に今にも消え行ってしまいそうなほど細く、温かみのある音色だ。
これに対してWCdanceのダンサーたちの基本的な動きの語彙はバレエやモダンダンス、リリースなど、いわば「世界標準」的なもので、両者の懸隔が強調される。南管に由来すると思われる動きを幾何学的に再構成した振付なども見られるが、異質なもの同士が交われば交わるほど、埋まることのない距離がさまざまに可視化されるように感じられた。
「ワールド・ミュージック」が流行した1980年代あたりから、ダンスにおいても様々な民族文化をバックグラウンドにもつアジアの振付家たちが世界的に知られるようになったが(例えば台湾のクラウド・ゲート・ダンス・シアター等)、「エスニック」な諸要素をモダンダンスの言語と接合することでナショナル・アイデンティティを身にまとった先行世代と比較する時、『小南管』は確かに現代的と感じられる。人や文化が地球規模で流動化し混淆が進む今、「自分たちにはこのような文化がある」と拙速にアイデンティティを主張する代わりに、「自分たちはこのような文化から隔たっている」との認識を共有しようとする『小南管』には、きわめて今日的な、引き裂かれた意識を感じる。
もっとも、「伝統的なもの」を異質な他者として対象化することで、「現代人」を標榜する個々の主体の特性や傾向(ポジショナリティ)は問われないままになるという弱点も、『小南管』は昨今のトランスカルチュラル・パフォーマンスと共有している。例えばジェローム・ベルの『ピチェ・クランチェンと私』(2005年)は、内容こそ二者間の対話でありながら、なかば暗黙のうちに、実質的な作者であるジェローム・ベルの「他者への寛容」の姿勢の誇示へと収斂してしまうわけだが、『小南管』もまた西洋化した「現代の我々」の側を、つまり積極的に他者と向き合おうとする主体が必然的に行使してしまう権力を、相対化してみせる視点はあまり感じられなかった(註)。
とはいえ『小南管』で注目すべきは、「伝統的なもの」と「現代的なもの」という素朴な二元論自体が、ラディカルに解体されるわけではないにせよ、ある種の批評的眼差しにさらされてもいる点だろう。冒頭部分のインタヴューには「中国文化の要素を入れれば外国人にも受けるんじゃないか(笑)」というシニカルなコメントが含まれていたり、伝統的な所作に西洋のクラシック音楽ではなく日本のポップソング(台湾でも流行した安全地帯の曲)をつけてみたりといった場面によって、究極的には西洋の(あるいは西洋化した)主体による他者の受容でしかない多文化主義的寛容なるものへの留保が差し挟まれ、作品全体が「西洋化」からも「伝統」からも、そして安易な多文化主義からも距離をおいた、寄る辺ない浮遊感を醸し出している。この「寄る辺なさ」、つまりは結論を出さずに問いを開いておこうとする姿勢が作品の要となっている。
実際何より忘れ難いのは、客席と舞台の全体を満たす、親密でありながら風通しの良い、美しいムードだ。物理的には、南管という等身大の芸能の特質と、木製の舞台や照明効果、出演者たちの柔和な所作が醸し出すものに違いない。しかしそれは、結論を急がずに「問い」を共有するための、絶妙な場の演出としても機能していたように思う。
註:それにしてもなぜ、ローカリティは遠い過去の伝統とのみ結び付けられがちなのだろう。台湾であれば、例えば石井漠から李彩娥、蔡瑞月へと続くモダンダンスの系譜、そして戦後のアメリカ化といった物語をふまえるなら、すなわち「失われた伝統」を客体化する代わりに「伝統の喪失」のプロセスを具体的に辿ろうとすれば、自己と他者の二項対立的な図式化とは違うアプローチが可能ではないだろうか。