F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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最初に、諸々の事情から、本稿を書きあげることが大幅に遅れてしまったことを、この場を借りて謝罪したい。「F/T12」の公式プログラムの中で、私はアミール・レザ・コヘスタニの作品を見ることができなかった。ポツドールは池袋では見逃したが、数週間前に京都で行われた公演は見ている。公募プログラムやテアトロテーク、シンポジウム等には、残念ながらほとんど参加することはできなかった。そういうわけで、ここでは主として、主催プログラムを中心にしながら、「F/T12」全体を、私なりの視点で振り返ってみたい。
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〈3.11〉の翌年に開催された「F/T12」は、プログラム全体が、これまでで最も先鋭化されたフェスティバルとなっていたように思う。誰もが注目するように、その先鋭性は、ひとまずこの演劇祭において、「エルフリーデ・イェリネク特集」が実現した点に認めることができる。公共劇場、商業劇場を問わず、おそらく日本の他の劇場ではよほどのことがないかぎり困難に思われる企画が、F/Tという「公共の場」で実現したことは、2012年の日本における特筆すべき「事件」のひとつだったと言わなければならない。忘れてはならないのは、そもそもの発端が、主催者の趣味・嗜好以前に、イェリネク自身にある、ということである。『光のない。』『エピローグ?』という二本のテクストは、〈3.11〉に応答したイェリネクから、世界に向けて発信された「言葉」だったのだ。もしも「F/T12」が取り上げなければ、〈3.11〉の最大の当事者である日本において、この「メッセージ」へ応答しようとした劇場は皆無であっただろう。もちろん個々の上演についてはさまざまな意見があってよい。だが、本当なら新国立劇場が果たしてもよいはずのこうした役割を、日本を代表する国際演劇祭である「F/T12」が果たしたことに目を向けることは重要である。すべての肯定や批判は、最低でも、このことの評価の上になされるべきだろう。個人の美的趣味や感性だけから作品を創ることを当然のように考える固定観念から、日本の演劇作家はそろそろ自由にならなければならないのだから。
〈3.11〉後のトーキョーが、何を考え、どんなメッセージを発信しうるのか。世界はその点に、パブリックな視点から、絶えず注目しているはずである。「F/T12」が、大きな意味でのパブリックな役割を果たすことができたことは、F/Tが、もともと制度的な「演劇」に対する正当な疑いと、〈3.11〉以後における「文明」に対する正当な疑いを、時間をかけて育んできた思想的な裏付けのせいである。そのような姿勢は、「F/T12」終了のすぐ後に行われた総選挙で、〈3.11〉をむしろ「忘却」することを選択し、「経済的繁栄よ、再び!」という麻薬のような夢を生きる方向に舵を切ってしまった後の文脈を考えれば、ますます重要なものとなってきている。そのような意味で、私は、「F/T12」を、2012年の日本で起こった二つの街頭イヴェントとの関係のなかで捉え直してみたい誘惑にかられたりもする。ひとつは、国会議事堂前や東京電力前、関西電力前を埋め尽くした反原発デモ、もうひとつは、ロンドン五輪直後に銀座の街を埋め尽くしたメダリストの凱旋パレードである。もちろん、そこに集まった夥しい数の人々の姿のうち、一方を左翼的、他方を保守的と名指して終わるような思想は、すでに失効しているのであって、どちらもが日本の自画像として捉える発想がなければ、とても先には進めないだろう。作家の多和田葉子は、今回「F/T12」が発行したジャーナル誌『TOKYO/SCENE』に寄せた文章の中で、次のように言っている。「オーストリアには、「反ふるさと文学」という奇妙な「ジャンル」がある。これは自分の「祖国」オーストリアを批判的に描く文学で、エルフリーデ・イェリネクやトマス・ベルンハルトの文学を語る時にこの言葉が使われることがある。批判的と言っても外から冷静に批判するのではない。批判する自己は、自分が批判する対象の一部であることを隠さない」(傍点引用者、※1)。なぜ、「F/T12」が、イェリネクに応答することを選んだのかは、この指摘からだけでもすでに明白である。
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前回の「F/T11」が、既存の劇場を離れ、多くが野外にその上演空間を求めていたのに対して、今回の「F/T12」は、メイン会場のひとつである東京芸術劇場の改修直後ということもあって、いわば「劇場への帰還」の年でもあった。にもかかわらず、結果としてみれば、実際のプログラム中に、劇場という箱におとなしく収まっていた作品はほとんどなかった。顕著な例でいえば、にしすがも創造者における二種類のインスタレーション会場が、順路さえなく、ぶっきらぼうにただ並置されただけの、マレビトの会『アンティゴネーへの旅への記録とその上演』は、屋内であっても、ただひたすら野外を歩いているかのような感覚に襲われたものだった。
F/Tの最大の特徴のひとつに、演目の記憶が、いわば身体に残るという点がある。それぞれの演目を構成していた言葉やイメージの断片以上に、「私」という観客の身体が覚えている記憶とでもいうべきものが、F/Tのプログラムには数多い。今回の「F/T12」を思い起こしてみるとき、私の脳裏に真っ先に浮かんでくるのは、ニュー新橋ビルの屋上から見た夕刻の大きな東京の空である。Port B『光のないⅡ』のツアーパフォーマンスを終え、携帯ラジオなどの装着品をすべて受付に返却した後、最後に観客はひとりひとり小さな地図を渡される。指示にしたがって4階にあがると、そこには新橋から福島に至る無数の空の絵ハガキ(撮影:土屋紳一)が、「お土産」として並べられている。そして、その向こう側の扉を開けると、そこには本物の夜空が、突然頭上に広がっているのである。
そのような「自然」ではないが、三浦基『光のない。』における舞台美術(木津潤平)の巨大な「空洞」の質感も忘れがたい。そして、先に述べたマレビトの会の体育館のほうの会場をつつんでいた、わずかな光をともなっただけの深くて柔らかな、いわば呼吸する暗闇(照明:藤原康弘)は、それだけで見ている者を思考に誘う見事な「フィクション」=「装置」となっていた。
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ところで、見るものに思考を促す、という点で印象に残った作品のなかに、グリーンピグ『ステップメモリーズ‐抑圧されたものの帰還』とクレタクール『女司祭‐危機三部作・第三部』があった。前者については別の機会に論じるが(※2)、後者は、何よりも日本の観客に、ブレヒトを一から読み直す必要性を強烈に促された作品だったと言える。
この作品は、ブレヒトの「教育劇(Lehrstück)」と言われるアイディアがモデルになっている。具体的には、ルーマニア・トランシルバニア地方の地域におけるワークショップが基になって出来上がっているというが、それに関して、演出助手バーリント・ユハースは、次のように書いている。「生活上の意見の相違において、妥協は歓迎されない。その主たる理由は、個々の要求ごとに、絶対的な正当性が主張されることにある。しかしながら、演劇においては、私たちは内に抱える葛藤を矛盾のままに語ることが許され、困難を伴う共通の目標の実現のため、あらゆる議論をすることができる」(※3)。私はユハースが述べている、『女司祭』のワークショップの「前提」が、これまで日本で半世紀にわたって行われてきたブレヒト受容の「前提」と、根本的に違っているのではないかと感じた。クレタクールのワークショップの「前提」は、参加者が属している地域内の階級やエスニシティの妥協困難な差異である。それに対して、日本におけるブレヒト受容は、どこか同質性の内側でなされるゲームのようなものにすぎなかったのではないか、ということである。「リハーサル過程での私たちの主な目標は、異なる信条を拒絶することなく互いが影響し合うように、全体をまとめていくことだった」(ユハース)。『女司祭』の終盤に、都会から赴任した進歩的な演劇教師の女性と、守旧的な土地の神父が衝突する場面がある。この場面を演じるのは、どちらも劇団のプロの俳優だ。きわめてシンプルな二人の舞台上の立ち位置だけで、お互いの一歩も引かない社会的な対立軸が、鮮明に浮かび上がってきてしまう演出家アールパード・シリングの力量は見事というほかなかったが、私たちはこれを機に、日本でも新しいブレヒト受容のステージに進むべきだと感じざるを得なかった。なぜなら、日本においても、クレタクールのようなワークショップが必要とされる時代はすでに到来しているからである。たとえば、昨今のような、中国、韓国、日本における葛藤ある共存の時代にこそ、ブレヒト演劇の可能性の地平は最大に発揮されるのではないか、ということである。そのための思考と言語を、いまこそ鍛え上げるべき時代ではないか。
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私自身は残念ながら見ることはできなかったが、「F/T12」では、クレタクールの「危機三部作」の第一部にあたる映画『JP.CO.DE』が、テアトロテークで上映されていた。「三部作」の第一部が、ある家族の息子を、第二部のオペラが同じ家族の父親を、そして第三部の演劇『女司祭』が母親を主人公とした物語であるというように、クレタクールは、ブタペストを中心とするコミュニティの問題を、あえて三つの形式でフィクション化しようとしている。クレタクールのこうした越境性には、「演劇」という形式を徹底的に相対化しようという強い意志が感じられる。オペラの上演はさすがに経済的な事情から簡単ではないとしても、「F/T12」が三部作のうちの二作を取り上げたことは、制度的な「演劇」への疑いと、その方法としての「ジャンルの越境性」に関心を持ち続けてきたこの演劇祭に、いかにもふさわしい企画だったと言えるだろう。
作品としては、未完成の部分もあったとはいえ、村川拓也『言葉』にも、非常に興味深いジャンルの越境性が潜在していたように感じられた。被災地を訪れた二人のパフォーマーが、現地で感じ書き記した膨大な言葉を「編集」することで成立しているこの演劇作品は、同じ作者が撮ったドキュメンタリー映画『沖へ』と対関係にある。映画が、あくまでも被災地に暮らす人々を対象としたドキュメンタリーであるのに対し、演劇は被災地を訪れた人々の側を対象としたドキュメンタリーである。村川は、たとえば二人のパフォーマーが書き記したノートの言葉のあるパッセージを何度も反復したりしながら、「編集」によって作り出された形式そのものが、新たな意味を持ち始める瞬間を探っていくのであるが、それはあたかも、ドキュメンタリー映画の「編集」現場における、膨大な素材フィルムのほとんどを捨て、残ったなかから厳密に一本の映画を紡ぎ出していく作業を思い起こさせる。作品の核心部分の弱さは目につくとはいえ、こうした作業手法の厳密な積み重ねには、今後のクリエーションに繋がる持続的な「熱」をたしかに感じさせるものがあった。
同じ「映像」でも、高山明の『光のないⅡ』が、「写真」――それも「報道写真」というテーマにクローズアップしたことは、この作品だけにとどまらず、「F/T12」全体が持っている思考の大きな枠組みを明確化することに貢献していたと言える。誰もが知っているように、〈3.11〉は、カタストロフィーの直接の当事者だけでなく、莫大な数の人々を、新聞、テレビ、インターネットの「映像」の力を通じて、いわば「別種の当事者」に仕立て上げていた。高山は、東京電力本社ビルのある新橋駅周辺に十数箇所のスポットを設け、被災地の様々な報道写真を、あえて粗末な書割り的舞台装置に「変換」してみせる。その作業を、奇妙な逐語訳を生み出すインターネットの自動翻訳機能に高山自身は準えている。「報道写真に写ったイメージを、三次元の具体的な空間に自動翻訳する。福島のある風景を東京のなんの文脈も共有していない空間に再構成した結果は変に決まってます。でも、その不協和音の中にこそ、自分が福島にいないこと、今東京にいること、その距離がはっきりみえてくるんじゃないか」(※4)。――見事な、下手をすると見事すぎるかもしれない構造化である。だが、少なくともそこには、誰もが実感せざるを得なかった「映像」の生々しい力の体験――それは通常の意味での「現実」と「虚構」の境界を完全に消失させる――を、もう一度、――かつてゴダールが『ヒア&ゼア』で、パレスチナでない「ここ」と、画面の向こうのパレスチナ(「よそ」)の関係を描き出したように――「分析」しようとする作者のメランコリックな手つきがある。先に述べたように、そのメランコリーは、ツアーの一番最後に、観客ひとりひとりが「おまけ」のように体験する「本物の夜空」のロマンティシズムに行き着くことになるのだが、もちろんその夜空とは、フクシマとトーキョーを繋ぐリアルな「通路」にほかならないのである。
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もっとも、こうした既存のジャンルに対する「疑い」と「越境」の試みへの関心は、ともすれば、このフェスティバル自体を、まるで「ポストドラマ演劇」の牙城ででもあるかのように見做そうとする、一面的な解釈を助長させかねないリスクも持っている。私たちに最も必要なことのひとつは、こうした一面的な見方に対する批判的言説なのだ。同時にまた、そのことは、そうした批判精神を舞台作品に結実させていくための、具体的な方法論と技法の発見の問題でもある。
私は、ヨッシ・ヴィーラー演出の『レヒニッツ(皆殺しの天使)』を見ながら、それが、結局のところ、ドイツ語圏の観客にドイツ語で語りかける作品であることに、微かな苛立ちを覚えた。いうまでもなく、この作品は、ドイツ語圏の観客が、最も思い出したくない歴史的記憶を白日の下に晒すという点で、極めてよく出来ている。それを伝える言語として、ナチス・ドイツと、いまここに集っている観客が同じドイツ語を話しているという事実が、きわめて重要な意味を持って迫ってくるのである。私の微かな苛立ちは、同じようなことが、日本語の演劇における方法論と技法の問題として、いまだ十分に探究され尽くしていないのではないか、ということに対する苛立ちである。再び、この文章の冒頭近くで引用した、イェリネクなどの作家に対する多和田葉子の言葉に立ち返ってみよう。「批判する自己は、自分が批判する対象の一部であることを隠さない」ことが可能となるような、日本語の演劇的使用はどのようにすれば可能なのか? 私たちが、今回の「イェリネク特集」を通過した後にじっくり考えてみるべき点はそこにある。それは、「ドラマ演劇」か「ポストドラマ演劇」かといった、意味のない新旧論争などよりも、はるかに重要なテーマではないか。
イェリネクの翻訳者である林立騎は、イェリネクの翻訳文体の選択について、次のように述べている。「演劇は「口語」であり演劇テクストの翻訳は「自然な日本語」でなければならないという、ほとんど意識もされていない前提は、歴史的に生まれた誤解なのである」(※5)。あえて、違和感のある文体を選ぶこと。おそらくそれは、多和田が考えるようなイェリネクの試みを、日本語の活字において実現するために不可避の選択であったはずである。ただ、それが舞台上で――もちろんツアーパフォーマンスにおける携帯ラジオから、でもよいのだが――発せられる劇言語としての日本語として現出した場合、どこかでそれは、無防備に「美しく」なってしまう。端的にいって、それは音声言語としての近代日本語の「弱さ」であり、「美しさ」であり、人々を情緒的に安心させる何かなのである。高山の作品は、福島の高校生たちにイェリネクのテクストを朗読させるという点では挑発的なのだが、下手をすると、「高校生の健気さ」という物語を作動させてしまいかねない要素をもっているし、音声言語としての日本語に最も意識的な演出家である三浦基の作品でさえ、下手をすると、前衛的な演劇美学に回収されかねない。〈3.11〉を通じて、誰もが被害者でありかつ加害者でもあるという状況があからさまになった今、それを舞台化するにふさわしい日本語の演劇は、どのような音の姿で、どのような音のリズムで、どのような音の表情で、「劇場」のこちら側とあちら側を往復すればよいのか? 私は今回は、公募プログラムをほとんど見ることができなかったが、こうした問題に、ぜひ若手の演劇人は意欲的に取り組んでほしい。