F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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その上で、テーマの処理の仕方として大きくふたつのアプローチがあったように思う。「ことばの彼方へ」と聞いたときに反射的に思い出したのは、ハイデガーが人間存在のありようを分析するに際して、人間だけが言葉を持つことに着目し、人間だけが世界を持ち、石は世界を持たず、動物は世界が貧しいと定義したことだったのだが、この定義を今回のF/Tの傾向に強引ではあるが援用すると、世界=言語が崩れ去ったなかでなお人間であるにはどうすればよいかという人間的倫理を問うアプローチと、世界=言語の崩壊は自明として、というよりも、そもそもそんなものが成立せず、ある種喃語や叫びのようにばらばらの記号がばらばらのままに(それゆえの充足もともなって)存在する人間未満=動物の新たなる世界をいかに見つけ出し肯定するかという動物的倫理を模索するアプローチに分けられるだろう。
またこのふたつのアプローチの違いを別の言い方で言えば、世界=言語の崩壊に応じるにあくまでその意味・機能にこだわるか、行為や作用にこだわるか、の違いとも言えるかもしれない。そして往々にして前者のアプローチは、日常的に使用される言語の範疇を大幅に超えるディザスターに遭遇した際に、それは表現できるのか、表現できないものを表現してもいいのか、そもそも表現できることなんてあるのか......といった具合にシニックな沈黙と(それと相即的な身体性への退却)に至りがちであり、当然、その陥穽をみな十分に意識して作品を制作していたであろうゆえに、結果としていかにシニシズムと向き合うかというさまざまなケーススタディが出ていたように思う。以下、粗くではあるが、それぞれのケースを見ていこう。
まず、そのままずばり『言葉』というタイトルの村川拓也の作品では、二人の男女の俳優がそれぞれ被災地へと向かい放浪する。彼らは特にコンタクトをとることもなく、それぞれがそれぞれに見たもの聞いたものを言葉によってレポートする。端的にレポートである言葉は、それ自体貧しくも充足しているが、その伝達が眼目なのではなく、実際それらは「ああ、そういうことがあったのね」以上の感想を持ちにくいほどに伝わりようのないものだ。むしろ、この作品はタイトルとは裏腹に言葉の不在に賭けられていると言えるだろう。というのは、舞台には客席に向けられたマイクがあり、それに照明があたっている時は観客が――あたかも舞台上の俳優二人と同様に――自由に話してかまわないという指示が上演前にあたえられるが、上演中、幾度かあるその機会に誰も喋らない(少なくとも、筆者が観た回では)ということが、ディザスターへの発語よりもむしろ失語を際立たせ、さらに決定的であるのは、二人の俳優の発話はいくつかのセクションでわけられているが、中盤より舞台の前に手話者が現れ、彼らの発話を身振りで話し出し、最終的に手話者のみが舞台に残り、彼らだけが話すこととなるのだ。その間はむろん沈黙がもたらされ、もちろんそこで手話を解する者たちはまさしく語り得ないことが語られるといった体験をするのかもしれないが、全体のコンテクストからすれば、おそらくはそのような言葉もなお何も語り得ないという失語のほうが作・演出家の意図にあるものと思われた。つまり、そもそも世界を構築するゆえんであった言葉をぎりぎりのところまで削ぎ落とし、そこにおいてもなお残るものに、人間の尊厳を賭けようという態度。そのセンシティブな方法意識は非常に伝わってくるものの、ディザスターのもたらす虚無と言葉の無根拠という虚無があいまいに重なり合って、いまここでこれをやらなければならない固有性が薄まってしまったのではないだろうか。
いっぽう、The end of company ジエン社『キメラガール アンセム/120日間将棋』はうってかわって饒舌な舞台である。主人公(?)と関係を持った/持ち得なかった三人の女性(キメラガール)たちや、作者の体験が反映されていると思しい狂躁と自省を行き来する躁鬱的なエロライターなど、さまざまな人物が役やセリフを相互に乗り入れながら、われわれの震災後の日常風景のようなものを立ち上げていく。空疎だがにぎやかな世界、そこでの生のかたち。ひとつの作品としてほとんど意味を持たなくなるすれすれまで猥雑な空気が醸し出され、その過剰の隙間へわれわれもするっと入っていけそうな気さえする。しかし、ここでも、饒舌を支える基盤として、巨大な失語が浮かび上がってくる。タイトルの片一方にある一日一手ずつしか指せない「120日間将棋」、それぞれの発話が、行動が、結局のところ、終局というエンドへ向かうまでのたまさかの華であったとするならば、それはどこかゲーム盤を模したその舞台美術が示すように、〈死〉という究極の失語を前にした誠実だが退屈なシニシズムというべきではないだろうか。
ヒッピー部『あたまのうしろ』は、より愚直に「ことばの彼方へ」向かってみせる。そこには基本的に言葉はなく、社会もむろんなく、ただ光と目があるばかりだ。そして言葉は目が受け止めた光についてつたなくもどかしくも伝えようとするが、光はどこまでもそこから逃れつづけ、ついに像を結ぶことはない。いや、像は存在する。むしろ複数のスクリーンを駆使することで至るところに像が浮かぶのだが、なにかを捉えようとする行為がいたずらに像だけを増やし、結局求める像を結ばなくなってしまうのだ。そして、この公演の成果と問題はひとえにそこにかかっている。果たしてこの物理的・倫理的失語の価値はなんだろうか。倫理が現実において意味を持つ局面を考えるに、あくまでも未知なる状況、未知なる存在と応接するシーンにおけるふるまいを規定するシビアなものだとするならば、ここでの失語はあらかじめ予期されていたそれに無事逢着する幸福なものではないだろうか。「言えない」ことを「言えない」と言うことの遊戯めいた甘さ。ほぼ演劇であることすら捨て去って表象の臨界に迫ろうとする『あたまのうしろ』はこの苦くも甘いプリミティブな喜びがおおいに見どころではあるものの、しかし、やはり写される女性がただ写されるだけという安定した構造をゆらがす契機がないのは、ナルシシックなシニシズムを免れ得ないだろう。
ピーチャム・カンパニー『美しい星』はテキストの選択、そして演劇性を過度に誇張してみせる演出、さらに期間中擬似的な劇評などを劇を中断すらして客席に配布するといった猥雑なハプニング感etc.と(さしあたって)テキストを自前では書かないぶん、ジエン社とは違った饒舌さに溢れていたと言える。宇宙人ではあるが家族としてそれぞれの事情を抱え、究極的にはそもそも同じ宇宙人であるかどうかすらさだかでない彼らの姿は、ある意味で不完全な世界のなかで右往左往するわれわれの動物的な生の似姿そのままである。その一所懸命であるがゆえに硬直しスラップスティックな破局へ導かれる生のありようは愉快であると同時に薄ら寒くもあるのだが、ここでもなぜかそのカウンターバランスとして巨大な失語が置かれることになる。『美しい星』に接ぎ木された『ゴドーを待ちながら』は、前者を相対化しながら、巨大な沈黙に対比される(われわれのささやかな)狂躁へと一場をおさめてしまう。むろん、そこでゴドーを実際に登場させたりといったこれまでさんざんやられてきたパロディや読み換えにもはや意味はなく、ゆえに、われわれはただ『美しい星』のあとに、『ゴドー』のダイジェストを見ることになるのだが、やはり先に接ぎ木と書いたように、付け加えられた『ゴドー』は蛇足ではなかったか。いや、蛇足が悪いのではない。蛇足が蛇足として機能せず、あたかもそのためにすべてはあったかのようなおさまりかたをするのが問題なのだ。巨大な不在を受けとめる人間的な、あまりにも人間的な身振り、その自明さへの疑いが蛇足としてあるべきではなかったか。
その点、集団:歩行訓練『不変の価値』はあえて蛇足から作品を立ち上げるというか、蛇足だけで作品を作ってみせよう、だっていま上演されている演劇ってみんな蛇足みたいなものでしょ、と言わんばかりのあっけらかんとした気概に満ちていた。開演前に配布される「お金」と引き替えに誰でもが好きなように演出をつけられるという趣向は、プリミティブな面白さと批評的な角度をともにキープしていて(そのどこまで本気でやっているのか/やっていいのかわからないいかがわしさも含めて)刺激的だが、そこでほぼ必然的に舞台上にもたらされるカオスな饒舌が端的に意味の熱的平衡へ至ることで、その先に進みようがなくなる=進むことがなんらかの恣意に基づくものに思えてしまうのは残念であった。「言語」と「貨幣」をひたすら交換することでほぼ営まれている「われわれ」の「生活」の描写として非常に優れているが、それゆえにわれわれを日常ではない前へ進ませる摩擦に欠けていると言えるだろうか。「集団:歩行訓練」という劇団名は言い得て妙というか、歩行の訓練とは実際に歩行しているのかいないのか、仮にスポーツジム的なものでなく現実に身体がそれによって移動しているのだとしても、あくまで意味のある「歩行」ではなく、その「訓練」でしかないのだとしたら、そこにわれわれは何を見出すべきなのだろうか。けっして目標に辿り着くことはないが歩みを止めることはない的なロマンティシズム=シニシズムではないだろう。同様の感触をもたらす劇団名を持つ「大人計画」が本当に大人になるための計画を算段するものではいささかもなく、見当外れの計画を練り続ける大人とも計画とも無縁の集団であるように。しかし、とるにたらないカオスの中から、まったく未知の、もはや人間的ではない新たな言葉を見つけるかもしれない予感を感じさせた点では、今後の活動が期待できる舞台であった。
岡崎藝術座『隣人ジミーの不在』はその意味でもっとも「大人」「計画」的な舞台だったと言えるかもしれない。コミュニケーションでもディスコミュニケーションでもない(「ディス-」はコミュニケーションを前提としているので、コミュニケーションのないところにディスコミュニケーションもない)、男の妻の不貞への盲信による言葉から生まれたと言ってもよいジミーの数奇な運命を描いた本作は、不在のはずのジミーが舞台上に存在する、存在するはずのジミーが不在であるというどっちつかずの違和感をひたすら世界大に拡大しようという力強い野心に貫かれ、ラスト、ジミーは沖縄で多数の外国人が「インディペンデント落語家」を名乗る取るにたらない落語をきかされ無表情に立ち尽くすというアンチクライマックスに立ち会うこととなる。F/Tのような国際フェスティバルに期待される異文化交流へのアイロニーにも一見見えるが、そうであるよりはむしろここに零度のコミュニケーションが示されていたと取るべきではないかと思う。反実在的な存在という矛盾した属性をもつジミーが存在しうるのは、もともとのなりたちがそうであったように、コミュニケーション(およびディスコミュニケーション)が成立しない、ただそれらがそれらとしてあるだけの場所であった。そこにおいて初めてジミーを含めた誰もが存在しうること、どんなに不毛で貧しく暴力の気配に満ちた場所であったとしても、その場だけが彼らすべてを許容するということ、ここには限りなく無には近くとも動物の倫理というものがあるのではないだろうか。仮に次の瞬間、必ずや不和なり和解なりいずれにせよコミュニケーションが始まり、その場所の記憶は失われるとしても、その基底にはこの無関心な平等があるのであり、逆にコミュニケーションから生まれる平等、倫理などは存在しないのだ。つまり、先にF/Tへのアイロニーと書いたが、再度反転して、この場面こそが十全に「ことばの彼方」だったのである。