F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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2012年のF/T公募プログラムの参加作品には、ある同時代の問題意識がまるで遺伝子のように貫かれている。それは「媒体に対する問い」と言えよう。
「演劇とは何か」。「ダンスとは何か」。
1960年代のアバンギャルドの議題が現在においてもまだ有効である理由は、「社会の変革」の課題がまだ終わっていないからだろう。それは社会の変化に対する反応と要求がいかに切実かを示している。
もちろん今日の芸術の場において、変革の意思と抵抗が具体的な目標と方針として表れることはあまりない。目的意識はぼんやりとし、転覆は虚しい。(見えない情緒的な権力は、「変革」や「抵抗」といった言葉を陳腐な死語にさせてしまう。)
その朦朧さの中で出会った日本の劇団の態度は、慎重でありながらも堅固だった。そこには静かな活力が生きている。観客を揺さぶろうとする大きい叫びではなく、素朴で細かい提案。または巨大な権力に対する巨大な抵抗ではなく、小さな変化のための小さなジェスチャー。自己批判から再盗用に至るまでの様々な方法論は、演劇的コミュニケーションについての黙想のように進んでいた。慎重に。
「演劇」のアイデンティティーについての問いが、日本の五つの作品で最も濃厚に響いた理由は、もしかしたら現在の日本のアーティストが直面する社会的かつ歴史的現実の特殊性にあるかもしれない。社会構造の急激な変化は、芸術においてもそれぐらい大胆な変化を要求し、もたらすことになるだろう。
「演劇」という形式を巡る批評的思考は、個人とコミュニティ、社会と歴史についての批判的観点と重なる。その思考は日本の演劇作品で「私」という個人、即ち言語の主体に対する先鋭な問題意識として可視化される。それは舞台上の「人物」が簡単に得られる虚構のアイデンティティーを無効にすることで成立し、慣習が崩れたところには無意味な空虚ではなく鋭い緊張が生まれる。今日、個人とコミュニティの力学はどう変化しているのか。変化する環境の中で「私」という主体はどう再構成出来るのか。新しい存在論的な基盤はどこから来るのか。主体を再構成することは正当な行為なのか。
「私」という代名詞で呼ばれる舞台上の実体が融解すると、その亡霊は強い不在感を表し出す。俳優の身体では縫合(suture)できない存在論的な穴が舞台を占領するのである。
もしかすると、「演劇」の本質は行為や情緒ではなく、それらの前兆や残像かもしれない。本質を侵食する派生的な空白の「現れ」に、その本質があるのかもしれない。
この一連の問いかけは、祭儀的でありつつも遂行的である。舞台の裏やその無意識の基盤に漂う暗鬱な総体的不安定さには、福島の原発事故や経済危機のように具体的な状況が憑依するかもしれない。しかし、この作品群の重要な成果と言えば、存在に対するより本質的な問題として、不確実性を直視していることではないだろうか。
公募プログラムの「ダンス」作品は、コミュニティの問題について遥かに寛容的かつ進歩的な態度を見せているのが興味深い。それは「群舞」という形式が求める画一性の遺産かもしれないし、「伝統」が遂行してきたヒエラルキーが残っているのかもしれない。あるいは、日本以外のアジアの国の「振付家」たちが直面している社会的現実が全く異なるからかもしれない。
演劇とダンスの境界で作品を創っている台湾、インドネシア、シンガポール、韓国のアーティスト達には、偶然ではなく、「参与する民族誌学」の方法論が共通して見えてくる。それは「伝統」、外部のコミュニティ、他者、そして自分自身に対して、相互作用の関係を回復しようとする態度である。文化の違いを認め、代替的な繋がりを模索する方法論を、身につけていくのである。文化的な同質性を確保しようとする意図と、異質性を克服しようとする努力は、奇妙な緊張と調和を生み出し身体に動機を与える。体を動かすことは、即ち、存在を確認する過程になるのである。
今日、「振付」という過程は、そのようなコミュニケーションと認識の力学を可視化する祭儀として表れる。結果的にこの祭儀は、振付家が自ら自分のアイデンティティーを再考して捉え直す手段として作用する。これは「ダンス」を再発明して再生産しようとする努力でもある。言語的には存在できない主体の穴は身体が埋める。身体は言語的主体の危機を乗り越える物性になるのである。
もしかしたら「ダンス」の本質というのは、演劇的な残像が保たなければならない、また保たざるを得ない物性の「現れ」かもしれない。それは身体に対する充実した集中によってのみ可能な「現れ」なのだ。
(*)公募プログラムの英訳はEmerging Artists Programである。