F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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東京滞在の初日、私はセゾン財団の事務所に連れて行かれた。そこで、ヴィジティング・フェローとして森下スタジオで過ごす32日間のレジデンスで何が可能か話し合う予定だったのだ。
まったく初めての来日だったため、日本のいかなる芸術的で文化的な体験を受け入れようとする気持ちがありながらも、シンガポールでは演劇およびその学問が政治的になっているという傾向もあり、心の奥底で描いていた優先事項の一つは、アートと政治、社会とアクティビズムの関わりを体感することだった。
「ゲイ、レズビアン、トランスジェンダー、フェミニストあるいは少数派アーティストで誰かお薦めの方はいませんか。」シンガポールからの機内泊での旅に疲れを見せながらも、私はセゾン財団の方々に単刀直入に尋ねた。
もちろん、印象的だったその会議中に、たやすく率直な答えをもらえたわけではなかった。それにもかかわらず、その時、私は日本最大の舞台芸術祭であるフェスティバル/トーキョー12の開催を心待ちにしていた。相馬千秋氏がプログラム・ディレクターを務めるそのフェスティバルは私が到着した2日後に開幕する予定で、私は当時、既にこれからの1ヶ月間、そのフェスティバルにおいてアートに熱狂的な観客となり、次から次へと観劇を重ね、21世紀におけるアートの限界に挑戦している日本のアーティスト達の創造性を学び目撃する覚悟が出来ていた。
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しかしながら、まもなく、私が高く評価し、また、この国で観ることを望んでいた類いの現代演劇やコンテンポラリーダンスは、日本では歴史的に見て政治から否定されてきたのが実情だと知った。ここ日本では、私がいちシンガポール人として想像していたよりも、アートが持つ批評性のポテンシャルは有効だと見なされていなかったのだ。
今の話を簡潔に説明するとすれば、アートの領域は美学、哲学、そして国家主義者の理想の中にあり、一方で、政治は議院内で明示され、主流であるテレビを通じて国全体で放映されている。
内野儀氏が2009年に出した著書『Crucible Bodies: Postwar Japanese Performance from Brecht to the New Millennium』(未訳) 内で、このことについて非常に入り組んだ追究を見せている。この中で、彼は国家における戦後の社会経済の発展に反抗してきた日本の演劇とパフォーマンスの軌跡のあらましを説明している。内野氏は、歴史家であるハリー・D・ハルトゥーニアン氏の研究を通じて自身の考えをより確かなものにした。そして、この考え方は東京滞在中の私の所感にも通ずるものである。
What had originally been conceived as a means to explain how societies, in this instance Japan, could become modernized without relying on the agency of conflict and struggle, became an ideological device employed by the state to justify the status quo and to eliminate the realm of criticism that once belonged to the space of culture.... What this entailed was a turn to culture to explain the status of contemporary mass society, to affirm it rather than to offer the space of critique, and the subsequent appeal to a pre-modern endowment as an irreducible essence to sanction, not to resist, the modernizing changes Japan has realized. (1) (emphasis mine)
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もし、内野氏が述べるように「日本の文化的環境において、歴史と政治が合意の上で排除され、また、それらに言及するべきでないとされているとしたら、そこに従事している者達にとって」(2)区や行政の資源によって実現されながらも、それらから独立して運営されている日本最大級の舞台芸術祭であるフェスティバル/トーキョーはどのような立場を取っていると言えるのだろうか。そして、長期に渡るポストバブル経済や3.11以降更に悪化した冷めることのない政治的熱狂の中、フェスティバル/トーキョーは自身を左派から右派までの幅広いスペクトルのどこに位置づけるのだろうか。
このフェスティバル内で、批評としてのアートの痕跡を追い求めるべく見渡した結果、私はそれらを見つけることが出来た。おそらく予期していた通り、それらは日本のアーティストからではなく、プログラム・ディレクターである相馬氏が招聘した幅広い海外からの作品に見受けられた。フランスにおける不法滞在者のありさまを描いたサイト・スペシフィックな上演 (『たった一人の中庭』ジャン・ミシェル・ブリュイエール/LFKs)から、ルーマニアの郊外における社会的差別(『女司祭-危機三部作・第三部』アールパード・シリング/クレタクール)や議論を引き起こした2009年のイランでの大統領選挙の寓話(『1月8日、君はどこにいたのか?』アミール・レザ・コヘスタニ/メヘル・シアター・グループ)、そして、シンガポール人であるゲイの男性が見せる性的関係(『ゲイ・ロメオ』/ダニエル・コック・ディスコダニー)。相馬氏は、各アーティストの国や町に潜む光のとどかない部分を体験する非常に貴重な機会を日本の観客に提供している。この異文化交流は非常に価値があるものだ。
私は、これらのアートによる実験性の高い作品群を東京で紹介するという学芸的ビジョンを掲げる相馬氏に拍手を送りたい。しかし、その反面、F/Tダイアローグの参加メンバーの一人が抜け目なく指摘していたように、海外からの作品で描かれる「政治」は日本人の意識から常に遠いところにあるのだ。どんなに政治的題材を上手く盛り込んだ鋭い作品であろうと、現代の東京にて捉え直してみるとその切れ味は鈍くなる。
この考察に対してはただ同意せざるをえなかった。東京芸術劇場で上演された『女司祭』の初日では、演出家のシリング氏はブレヒトの異化効果を用い、役者が観客に直接問いかけたのだが、観客の大部分は反応せず、役者と登場人物の区別にまごついていたように見受けられた。その観客の多くは、VIPか終演後のレセプションにいつものごとく参加する正装した来賓だった。
そして『ゲイ・ロメオ』だ。私は、観客がシンガポールでゲイとして生活することの法律的な負荷を分かっているのか不思議でならなかった。イギリス統治時の規律を継いでいるのだが、シンガポールでは、男性同士の性行為は法律上罪にあたるのだ。コック氏は今回の作品において、シンガポールのナショナル・アーツカウンシルから助成をもらうことは出来なかった。なぜなら、ナショナル・アーツカウンシルは「一般市民から好ましくないと見なされるライフスタイル、すなわち同性愛を擁護あるいは陳情する」(3)作品への助成はしないからなのだ。この作品がいつシンガポールで上演されるのかまだ分からない。しかし、この作品は、秘められた性行為と公で打ち明けられる一人の男性の感情の旅路、そして、快楽とその状態に身を置く危険性の間での揺れ動きを描いた洗練されたパフォーマンスであり、上演されるにふさわしいものである。
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以上のように、海外から招聘されたアーティストは、彼らが身を置く社会について批評し、抵抗を示した一方で、私がこのフェスティバルで目撃した日本人アーティストの政治的立ち位置は、私が考察する限りでは、より曖昧で、民意とは離れたものに見えた。大文字の政治を想起させるよりも、より内省的かつ個人的なアプローチを取り、各々のニッチな世界観と美学を表現していた。
このことは、このフェスティバルで見られた数多くの3.11への応答に明らかに見られたことだ。この災害に関する集合的な意志は見られなかった。Port Bによる『光のないⅡ』では、演出家の高山明氏は、原子力の害悪を主張する代わりに、福島から300キロメートル以上も遠くに住む東京都民のために、美しくそして超現実的に、このことを想起させる体験を創造した。宗教巡礼者のように、観客一人一人が都心のニュー新橋ビルの中、そして、周辺を巡る個人ツアーに出て、3.11の象徴的イメージが注意深く再現された場所を訪れる。この体験は私にとってこのフェスティバルでの印象深い出来事の一つだ。この経験から、私は日本が抱える災害による深いトラウマをようやく理解できた。
村川拓也氏による『言葉』をご覧になった方々には、いかなる政治活動に対する反感がより一層見受けられただろう。二人の役者が3.11以降の福島への旅について細かく話をする。彼らの語りは穏やかで事実に基づいている一方で、むき出しになった舞台装置(マイク、アンプ、椅子)は、災害の情景をほとんど想起させない。村川氏による優雅な作品を私は忘れることはないだろう。しかし、初日の終演後、人づてに耳にしたのだが、政治的な領域に入らないように意識しすぎたのではないかとの意見もあった。中立なんて本当に存在するのだろうか。私には分からない。
私が観劇した他の作品と比較すると、ピーチャム・カンパニーの『美しい星』が原子力に対して最も強く抵抗を示していたと感じた。三島由紀夫による原作である、主人公である大杉重一郎とその家族が自身を宇宙人だと思い込み、核による破壊から世界を救おうとする話。おそらく、広島出身の演出家である川口典成氏の心境に近いものだったのだろう。しかし、この戯曲で見られる政治的要素は、2時間近くに及ぶメロドラマ的、かつ、どこか滑稽な作風によって薄められ、最終的には観客は現実に近づくよりも、むしろ遠く離れた場所へと連れて行かれた。
もし日本人アーティストによる作品の中に政治的な鋭さがあったとするならば、私はようやくポツドールの三浦大輔氏による『夢の城 - Castle of Dreams』にて見つけたと言えよう。私にとって、あの作品が完売した公演となった要因は、単に暴力、ヌード、セックスだけではなく、三浦氏によるガングロの若者に対するネオン色の髪や日焼けした肌以上の人物描写だ。舞台上で再現された東京のアパートの一室で、テレビゲームを奪い合いながら喧嘩や虐待が繰り広げられるが、最終的には次の日の朝に鍋に入った麺を囲むことで団結する。野蛮な性行為を行うと同時に、泣き疲れて寝入り、仕事に向かう為に服を着替えるような穏やかな瞬間も目撃する。
この作品は、一時期池袋や渋谷に多く出没したガングロの若者に対する世間のイメージに抵抗している。作品の題名通り、三浦氏はポストバブル経済期において彼の世代が抱く野望が、結局のところ空に浮かぶ城に過ぎないことを表現している。この点において、この作品はアーティスト個人の独りよがりな創造性の結果ではなく、現代の日本社会の断層に対する痛烈な批判なのである。
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日本の滞在時に、同性愛者や少数派アーティストに出会うという願望はいまいち実現されなかった。むしろ、私が出会った演出家、戯曲家、振付家のほとんどが、異性愛者の男性だった。
しかし、奇妙なことが起きた。日本を離れる二日前の夜、京都の寒々としたホテルの部屋でうずくまりながら、私はダムタイプによる『S/N』(1994)の貴重な映像を観ていた。パソコン上で出だしの場面が流れると共に、私は晩年の古橋悌二氏と「アメリカ人」、「黒人」、「聾唖者」、「HIV感染者」そして「同性愛者」とのラベルを身体に貼り、社会のはみ出し者であるアイデンティティを主張している他の役者にただちに目が釘付けになった。夜中の2時まで休みなくその映像を最後まで観て、古橋氏のHIV感染に対する独創性に富んだこの作品に畏敬の念を抱いた。
日本で先鋭的なアートを目撃するという夢を抱くのは考えが甘かったのだろうか。アーティストに政治的に一風変わった作品を期待するのは罪深いことなのだろうか。おそらくそうなのかもしれない。しかし、国のアジェンダが他の何よりも優位に立ってしまい、アートによる表現が未だに検閲にさらされてしまう国からやって来た者としては、個人の行動を称賛し、また、あらゆる偏見を超えた社会の意識を擁護するアートに敬意を表したい。
アートは政治的だ。私はそう信じている。