劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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F/T13公募プログラム総評

高橋 彩子

異文化・異文脈への鋭い眼差し〜『ダンシング・ガール』『地雷戦 2.0』『地の神は不完全に現わる』〜

 様々なスタイル・テイストの舞台作品があふれる現代において、観劇体験に何かしら共通する価値を見出すことができるとするなら、私は「未知との遭遇」を挙げたい。情報が溢れ、知ったつもりになることも多い現代だが、それまでには覚えたことのない感覚や他者の現実が、生々しさを伴って私達の前に立ち現れることこそ、観劇の醍醐味だと思うのだ。そして、F/Tにおいて、名前を聞いたことがないアーティストも数多く登場し、内容やクオリティの予想すら難しい「公募プログラム」はいわば、その最左翼的存在だった。

 この点にすこぶる意識的であったのが、インドから参加した、ゴーヤル・スジャータ振付『ダンシング・ガール』だ。薄暗い舞台上で、民族衣裳を身につけたスジャータの姿が、ピンスポットで照らし出される。ライトの明滅に合わせ、ポーズを決めながら緩やかに踊る彼女は、人形のようにも見える。インド舞踊の要素もあるものの、スピードにしろ振りにしろ、原物とは全く異なるものだ。さらに、バレエやコンテンポラリーダンス的な要素が混じり、次にコケティッシュでセクシャルな仕草が顕著になり......と、その動きは刻々と変化していく。ミステリアスな人形のようだった彼女は、次第に人間的・日常的な雰囲気を強め、最後、初めて明るいライトに照らされ、観客に近づく。もの問いたげに強い視線をこちらに向ける姿は実に印象的だ。インドの人形の踊りというイメージは裏切られ、私達は自らの先入観の脆さに気づかされる。ここで展開するのは、オリエンタルなインドの舞踊でもなければ、現代的なダンスにしばしば見られるような、動きの独自性あるいは踊り手の心象風景を表現するといったものでもなく、踊りとその鑑賞行為を異化する試みなのだ。スジャータは、インド舞踊を習得してはいるが、アメリカ生まれであり、世界的なコンテンポラリーダンスの振付家アンヌ・テレサ・ド・ケースマイケルが校長を務めるベルギーのダンス学校「P.A.R.T.S.」でも学んだ人物。異文化・異文脈において、どんな(色)眼鏡で自身のダンスが観られるかにも自覚的な彼女が放った、鑑賞行為への考察は、極めてスリリングだった。

 もう一つ、異国・異文化への視線という意味で特筆すべきは、ワン・チョン率いる薪伝実験劇団『地雷戦2.0』。反日プロパガンダ映画「地雷戦」や中越国境戦争などを扱った本作は、劇団の本拠地がある北京で上演禁止となり、F/Tが世界初演となった。開演前から映画のテクストが字幕で流れ、上演中はほぼ俳優の身体や拡声器やジョイントマットといったシンプルなものだけで、武器を持つ者の力関係や、土地を巡る攻防などが、メタフォリカルに描かれていく。拡声器は、銃や地雷に見立てられているが、プロパガンダや世論、果ては玉音放送まで、様々な"声"とも重ね合わされる。演じ手達が長台詞を発することはなく、ほとんど俳優の表情・身体の動きと物の配置だけで巧みに魅せる。コミカルで、どこか現実感がないのも特徴だった。これは、映画「地雷戦」が中国でドラマ化・ゲーム化されて人気を呼んだ状況を映したとも考えられると同時に、すべての悲惨な戦争が、表層的なパワーゲームとも不可分でないという意味で、一面の真実を表していると言える。『ダンシング・ガール』が観る者の偏見や思い込みをクローズアップして私達に見せたとすれば、『地雷戦2.0』は、歴史的事柄を扱いつつも、具体的な事実からは一旦距離を取り、今も起きていて、あるいは今後も起きるであろう様々な紛争に敷衍できる作りになっていた。なお、どう敷衍するかが観客の側に委ねられており、その周到さから言っても完成度から言っても、公募プログラムの中でも群を抜いていた。

 これら2作ともまた異なり、自国の固有の文化を他者のように検証するのが、ソ・ヨンラン『地の神は不完全に現わる』だ。本作は、近代化以前の韓国に伝わっていた巫教の祭儀や歌や舞などの文化をリサーチしたもの。作品では、伝承者の老人達へのインタビュー音源を流し、また、ヨンランたちもちょっとしたデモンストレーションといった風情で"再現"するのだが、ここに日本や韓国の行商人や焼き芋屋などの常套句も織り交ぜられ、最後はヨンランらが、ミラーボールが回る中、歌謡曲を歌い踊る。前近代的な芸能と現代の日常が、緩やかにつながっていくのが見ものだ。そこには、容易に会得できるはずもない伝承芸能への敬意が感じられた一方、それらを神聖視し床の間に飾るのではなく、あくまで生きたものとして、身近な世界から捉え直そうという意欲が感じられた。多くの伝統芸能が、特権化されることで、必然的に風化の道を辿りがちな現代において、若い世代が、批判的でも従属的でもなく、まるで遊ぶように楽しみながらこうしたものにアプローチする姿は、示唆に富むものだ。

 以上の3作品には、異国の観客の前で上演することに耐えうる、固有性とフレームの強さがあった。アジアの若いアーティストをサポートし、紹介することをミッションとする公募プログラムならではの作品群だったと言えるだろう。



均質化した現代〜『野良猫の首輪』『真夏の奇譚集』『クラウド』〜

 前述の3作品にローカリティがあり、そこから普遍性・国際性が生まれていたとすれば、世界の均質化を感じさせたのが、sons wo:『野良猫の首輪』、シャインハウス・シアター『真夏の奇譚集』、タン・タラ『クラウド』だ。

 sons wo:『野良猫の首輪』では、一人の女が見知らぬ土地や人と出会うさまが描かれる。台詞によれば、いつの間にか長い歳月が過ぎていたり宇宙に来ていたりといった変化があるようだが、俳優たちのスローで抑揚がない台詞回しといい、身をかがめながら行うたどたどしい動きといい、劇作上の起伏には乏しく、作品全体を覆う無個性や終末感が、観ているこちらをじりじりさせる。勿論、それは作り手の狙い通りだろう。ウェブサイトには"発話や身体から連続性を排除した「機械仕掛けのシアター」を構築しながら、そこで起こる現象にあくまでも独りで対峙できるような「開かれた自己内省のための場」としての演劇空間を追求している"とある。だが、前述の演技から、じわじわと特別な感情が湧き上がったり輝かしい異物が立ち現れたりということも、少なくとも私にはなく(サイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』が重要なモチーフのようだが、この歌と作品世界との相乗効果を狙うには、もう少ししかけが必要に思われる)、閉鎖的で自己完結めいた印象を受けた。

 シャインハウス・シアター『真夏の奇譚集』は、斜幕や映像を用いた幻想的な空間の中で、幾つかの怪談を展開していく作品。共働きで忙しい夫婦の下に育つ子供の孤独につけいる幽霊、自然災害の被災者の霊など、いずれも、日本と変わらない状況を映していて、興味深い。ただ、他の逸話も含め、全体的に深く掘り下げるには至っておらず、よくある怪談話の域を出なかったのが残念だ。短い話を綴っていくのがオムニバス形式の特徴であるとはいえ、挿話の一つ一つを際立ったセンスや機転でまとめないと、全体の印象が薄くなってしまう。その点、まだ発展の可能性がある題材だとも感じた。

 タン・タラ『クラウド』もまた、万国共通とも言うべき状況を示していた。子供を亡くした夫婦のすれ違い、記憶の記録、慌ただしい文明社会の中での孤独......。そこから、記憶を別の人間に移植するというSF的な展開を迎えるのも興味深い。しかし、多くの要素を盛り込み過ぎたきらいもある。一つ一つの伏線を回収し、既視感のない地点まで描いてほしかった。また、映像、モノローグ、歌からなる構成から、対話劇とは違う空気を生み出すのも狙いだったと思われるが、やや散漫な印象を生んだのは惜しい。

 タイプは異なるが、この3作品に共通するのは、作り手が拠って立つ場所(ローカリティやアイデンティティ)が強く感じられなかったところにある。これは、観客を知ろうという意識の不足とも言い換えることができる。観客にとって、何が未知であり新鮮なことなのかを踏まえた上で、独自性を押し出してこそ、観客にとっての普遍性を得ることができるのだ。



さらなる変化・成長を〜『HELLO HELL!!!』『たのもしいむすめ』『いのちのちQⅡ』〜

 独自の世界を築きつつあり、今後さらに発展を望みたいのは、下記の3作品だ。

 劇団子供鉅人『HELLO HELL!!!』は、「地獄の沙汰も金次第」の状況を、賑やかに極彩色で表現した音楽劇。地獄をシニカルに描くことで、結局は現代社会の病巣を抽出し、皮肉・批判を行っている。そのテーマ選びの巧みさといい、雑多な世界を雑多なまま軽快にまとめあげる技量といい、比類ない。ただ、欲を言えば、演技や音楽の見せ方にもっと緩急を求めたい。一定の強いテンションが続けると、却って観る者の集中力が削がれることもある。登場人物の多くが、一面的な造形なのも気になった。"悪人"だから地獄に来たという前提も、本作品が全てを笑い飛ばすものであることも承知の上で、敢えて言えば、たとえば子供を捨てる夫婦像などはもう少し丁寧に造形してほしかった。そして、エンターテインメント色と共に、「このことを伝えたいのだ」という作り手側の切実な感情をも観客の胸に響かせることができれば、より大きな飛躍が望めるのではないだろうか。

 柴田聡子『たのもしいむすめ』は、ギターの弾き語りを中心とするライブ。シンガーソングライターが演劇のフェスティバルに登場すること自体ユニークだが、公演にはそれこそ異文化・異文脈への意識が希薄なように感じた。狭義の演劇をやってほしいと言うつもりはないが、別フィールドからの演劇的な刺激なり挑発なりを機能させるには、立脚点が弱く、結果的に観客を選んでいたのではないだろうか。演劇性を最も感じたのは、場内の電気を遮断すべく、彼女がコンセントを引き抜いた瞬間だった。

 Q『いのちのちQⅡ』は、大別すると二つの世界から成り立っており、舞台上手側では、ブリーダーの家で飼われている犬達のドラマ、下手側では、寿司職人になれなかった女が寿司を握る回転寿司バーでの人間模様が展開する(もともと、作者の別作品のモチーフだったと聞く)。両者の場面は交互に描かれ、容易にはクロスしないが、徐々に、生殖や血脈、制度や歴史といった大きな物語としてリンクしていくさまが秀逸だった。ともすれば露悪的あるいは陳腐になりそうなところも、市原佐都子の感性の鋭さと言葉選びの上手さで、非常に魅力的に見せている。一見、リアリティがなさそうな設定にも、実に生々しい独特の手触りがあり、大いに可能性を感じた。独創的な世界観をさらに育てていってほしい。

       * * *

 個別評が掲載されないと聞き、駆け足だが一つ一つに触れた。公募プログラムでは、若いアーティストに焦点を当て、こうした多彩な演目を送り出すのみならず、国内外の審査員を招いて審査し、アワード受賞者には主催演目への参加資格を付与するなど、育成を視野に入れた工夫が多様になされていただけに、今回で終わりを迎えるのは残念だが、新たな枠組みの誕生と、各参加者の飛躍を祈りたい。




高橋彩子(たかはし・あやこ) Ayako Takahashi
1975 年生まれ。演劇、バレエ・ダンス、伝統芸能、ミュージカルなどを取材・執筆。第10 回日本ダンス評論賞第一席。『AERA』『
ジャパンタイムズ 』『エル・ジャポン』『シアターガイド』『ダンツァ』『ぴあ』などの雑誌やウェブサイト、演劇・舞踊の公演パンフレットほかに寄稿している。

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