劇評

光のない。

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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イェリネクからの問い、イェリネクへの応答――「F/T12」について


 最初に、諸々の事情から、本稿を書きあげることが大幅に遅れてしまったことを、この場を借りて謝罪したい。「F/T12」の公式プログラムの中で、私はアミール・レザ・コヘスタニの作品を見ることができなかった。ポツドールは池袋では見逃したが、数週間前に京都で行われた公演は見ている。公募プログラムやテアトロテーク、シンポジウム等には、残念ながらほとんど参加することはできなかった。そういうわけで、ここでは主として、主催プログラムを中心にしながら、「F/T12」全体を、私なりの視点で振り返ってみたい。

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言葉と距離と


 われわれの抱える問題のひとつは、失語さえ発語出来てしまう、ということである。或いはこう言ってもよい。われわれは発語することでしか失語という体験を表現出来ない。それが「表現」でなければ、ただ黙っていればよい。そもそも失語とはそういうことだろう。だが、失語の沈黙を単なる怠惰や無為と見間違えられたくないとき、われわれはこう言うのだ。「わたしは言葉をなくした」と。このあからさまなパラドックスは、しかし殊更に糾弾されるようなことではなく、人間として、ごくごく当たり前の反応であり、よくあることであると言えばそれまでだが、しかし失語の発語という逆説を義務や権利と取り違え、そこに紛れもなくある筈のやむにやまれなさを忘却していったとき、その者は自らの「表現」に溺れ、胸を張って「わたしは言葉をなくした」と言い放ち言い募ることになってしまうだろう。ほんとうは戸惑いや恥辱を内に感じながら、それでもそう述べるしかない、ということであるのに、何かを言ったつもりになっているのだ。その姿は醜い。だがその者は自らの醜さを知らない。そうならないようにするためには、失語の発語という奇妙だが切実な行為を、そこに潜む意味を、何度となく問い返し、ただ発語しないという選択肢を折り曲げて、どうして「わたしは言葉をなくした」と述べないではいられないのかを、まず自分自身に対して、絶えず証明し続ける必要がある。もちろんその問いと証明のあり方は、一通りではないのだが。

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