劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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倫理の動物、動物の倫理――シニシズムへの態度


 2012年のフェスティバル/トーキョー(F/T)のテーマは「ことばの彼方へ」であったが、上演された八割方の作品を観て、あらためて振り返ったときに、例年よりもテーマを意識したと思われる作品が多かったように感じた。

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ポストリアリズムへの探求

セノ・ジョコ・スヨノ
翻訳:加藤ひろあき

 去る11月22日、にしすがも創造舎 (i) のグラウンドに大きな穴が一つぽっかりと口を開けていた。もともと耕作地であったように思われるその土地は手入れされることなく放置されていた。盛られた土の上にはシャベルが数本、ごろんと転がっている。そしていくつかの木箱、見たところコンテナのようなものが穴の横に無造作に置かれていた。わたしは最初、これはインスタレーションアートだろうと考えた。しかも、ごくありふれたインスタレーションだと。

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「不可視なペストの時代」の知覚装置


東京以北の日本はいま、目に見えない病に冒されている。その病は、ゆっくりとしかし確実に、国土を荒し、人体を侵し、正常な言語感覚を失調させている。政治家が、マスメディアが、御用学者が、「安全です」と宣言する。しかしその力強い安全宣言の連呼はもはや、言葉として、国民の不安感情を増幅させる反作用しか持ちえない。確かに表面的には安全だ。何も見えないのだから。しかし可視化できないものの水面下で、かつてないほど巨大な病が国内で猛威を振るっている。言葉を換えるなら、日本中はいま「不可視なペスト」に侵されている。

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ダンスのエコロジー
――F/T12におけるいくつかのダンス作品について


 「その土地にどんな草が生えているか、ということはその土地の踊りにも直接関係してくる」。インドネシアの前衛舞踊家として世界的に知られるサルドノ・クスモは、ダンスがその環境と密接につながっている事実を絶えず強調する人である。

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写真をめぐる4つの断章(『あたまのうしろ』評) 


 「写真と身体行為の関係性を探求する」カンパニーであるヒッピー部の『あたまのうしろ』を観た後私が思い出したのは、ロラン・バルトの写真論『明るい部屋』、また多木浩二がバルトの写真論に触発されて書いたいくつかの論考だった。いずれも、根底にあるのは「(自分にとって/世界にとって)写真とは何か」という切実な問いである。ヒッピー部主宰の三野新、バルト、多木、三人に敬意を表してこの論考では私も写真、或いは写真と「何か」について考えることとしたい。

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何故いま、此処で『雲。家。』なのか


 男/女、強者/弱者、被害者/加害者、単純な二項対立に収まらない物語を紡ぐ力を、言葉を、エルフリーデ・イェリネクは持っている。例えば3.11のような甚大な悲劇が起きたあと、被害者に肩入れし、二元論の世界を構築し、東電なら東電、政府なら政府と敵をはっきり決めた勧善懲悪の物語を語ることの方が作り手は倫理的にしやすいだろう。ただ何故か受け手は嘘くさく、寒々しく感じてしまうのだ。例えば3.11が引き起こした原発問題を考えてみれば、誰が被害者で誰が加害者かなどという線分けはもう意味をなさない。福島市民は首都圏に送電する図式の中で犠牲になったとも言えるのだ。その図式の加害者の中には、全く加害の意志のない人々の方がほとんどだろう。

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寄る辺なさと親密さ――WCdance『小南管』


 中国の福建省から台湾にかけて、「南管」という伝統芸能(音楽・舞踊劇)が存在する。唐の時代まで遡れるともいわれ、今日では台湾で比較的よく継承されているが、類縁は東シナ海沿岸地域から東南アジアに広く分布する。2009年にはユネスコの無形文化遺産にも登録された。

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時間の外へ――シアタースタジオ・インドネシア『バラバラな生体のバイオナレーション! ~エマージェンシー』


 アジアの舞台芸術において言葉の壁は大きな問題だが、それを乗り越える表現手段としてフィジカルシアターが独特の発達を遂げて来たことは日本でも比較的知られている。「日本国際パフォーマンス・アート・フェスティバル(NIPAF)」やストアハウスの「フィジカルシアターフェスティバル」などが精力的に紹介してきたからに他ならないが、今回のF/Tにおけるシアタースタジオ・インドネシア『バラバラな生体のバイオナレーション!~エマージェンシー』の上演は、そうしたいわゆるアングラ的な文脈ではなく池袋駅前の広場という文字通り「地上」で行われ、しかも場の特性上、通りすがりの人々の目にもふれる入場無料の公演になった点、そしてそのスケールの大きさによって、異色の出来事だったといえる。

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観客の主体性への振付――ダニエル・コック・ディスコダニー『ゲイ・ロメオ』


 確かにダンスが中心にあるとはいえ、あえて因習的な風俗としてのダンスに固執するこの作品を「ダンス作品」として論じるべきなのかどうか。むしろダンスに至るまでの手続き、そして(ポストトークでの本人の言葉を借りれば)ダンスを「正当化(justify)」する手続きに焦点をあてたパフォーマンスであり、とりわけ「観客」という制度への考察を鋭く掘り下げている点に注目すべきだろう。

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狂気のおかれる位置


 狂気と一言にいっても、それはどのように形作られているのか。少なくとも、狂気の位相は、時代によって可変的なものである。もはや、現代の古典といえるフーコーの『狂気の歴史』には、狂気が扱われた古典から近代にかけての歴史を通すことによって、西洋を覆う狂気の思想までが書かれる。それは、監視や精神医学という問題と連関し、現在の社会に至るまでの狂気の問題が、理性の関与とともに提示される。

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