F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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私はここで公募プログラムの審査結果発表会で問題にされた、作品評価の基準としての身振りについて問題にしつつ、幾つかの作品について分析していきたいと思う。作品を評価するにあたって、大きな身振りによって上演されたものと小さな身振りでしかないものとでは、大きな身振りの演劇のほうがより優れているのかどうか、作品を評価する基準として、どうやら大きな身振りによって上演された作品のほうが高く評価されてしまうのは致し方のないことなのではないか、そういった見解が述べられたりもしたこの審査結果発表会は、私にとって、演劇の評価基準における身振りの問題を改めて考えるきっかけになったし、また公募プログラムにおいて上演された作品をどのように考えるべきか、ということを身振りの視点から考察する出発点にもなった。
ということで、私はこの問題を軸に据えて、2012年度のフェスティバル・トーキョーの公募プログラム作品について考え、そして、その審査結果が、最終的にどうしてそのようなものとして決着したのかについて考えていきたい。
200件近い応募の中から、たった一つの作品にF/Tアワードを授ける。それはなんと多くの困難をはらんだ行為だろうか。私はこの公募プログラムという枠組をつくり、その応募対象をアジアに拡大し、さらにアワード制度を作った張本人としてこの困難を自覚してきたつもりだが、今回はこれまで以上にその困難さと向き合うことになった。もともと公募プログラムは、若手劇団の自主公演をサポートする目的で創設された枠組であり、ディレクターが設定するテーマや価値観を強く打ち出す主催プログラムに対して、まだ評価の定まらない多様な表現を複数紹介し、劇場(シアターグリーン)の無償提供や制作サポートによって柔軟に支援していこうという意義で考案された。当初は国内の若手劇団を対象にしていたものが、前年度よりアジア全域に対象地域を拡大したことによって、アジアというパースペクティブの中であらたな意義と様相を帯びることになった。一言で言うならば、個々の作品として立ち現れてくる表現の独自性はもちろんだが、それらが立脚する文脈や歴史観、社会状況の多様さがより前景化し、それらを単純に比較し批評することが困難であることがより明らかになったのではないだろうか。しかし、それでもアワードは決めなければならない。作品を問うている側が、同じだけ作品に問われる。それが今回の公募プログラムの、私なりの苦しくも豊かな経験であったことを最初に記しておきたい。
フェスティバル/トーキョー公募プログラムの審査員として観た11作品のうち、特に劇評を書きたいと思えるものが3作品ある。
一つは『不変の価値』(構成・演出:谷 竜一)で、厳かで大きな問題をテーマとしている。商品と市場が人の価値を変えてしまうことを問いただすものだ。しかし、舞台は気楽な感じで、更にはゲームのような形式で進行する。役者が観客に「有料リクエスト」として作品を「演出させる」のだ。このように「演出の権力」を観客に委ねる方式は、「商品・市場と人の価値」という複雑な謎解きは避け、実際にはゲームを用いることで作品を答えるべき問題そのものに転化しているのである。
上演の構成は、大まかに言って前半と後半に分けられる。
前半では、まず観客に500円玉を1枚ずつ配った上で、「その500円を払えば好きなように演出を付けられる」旨が説明される。俳優は、あらかじめ用意された短い台本を、観客からの指示を反映させつつ演じるのだ。やがて別の俳優たちも舞台に登場して「自分にもやらせてほしい」「こっちは2人で500円にします(*1)」等とアピールし始め、結局は3人で演技を競い合う。もっとも、指示が10、20と増えてくると、中には相互に矛盾するものや、いわゆる「無茶振り」も交じってくる。当然ながらこなしきれずに失敗したり、時には俳優同士で相談してまで指示に応じようとする姿は笑いも誘うが、観客の要求がどこまでエスカレートするのかという緊張感も付いて回る。
一方が「途中で一度も顔を合わせることなく公演を迎えるなんて、そもそも無理があるんじゃないか」などと危惧する声に、相手が「それなら、公演に至るプロセスそのものを見せていくことにすればいい」と応じるところから、上演は始まる。
二人の女性が上手と下手に座り込み、一方はペンで紙へ、もう一方はチョークで床へ、次々と何やら書き付けていく。そして舞台には2枚のスクリーンが吊り下げられており、片方にベルリン、もう片方にソウルでの光景が映し出される。それぞれ同じテーマに沿って撮っているらしく、固定されたカメラの前を繰り返し駆け抜ける様子や、バス停の前で自分自身が映り込むように風景を撮っている様子などが流れていく。
20世紀を表象する言葉とはなんだろうか。戦争、革命、運動、マイノリティなど、挙げればいくつもでてくる。ただし、それらの言葉がもつ視点から時代を切り取ると、20世紀というものがもった、ある現象が鋭利に浮かんでくる。だからこそ、そこに一つ言葉を足してみると、移動という言葉がでてくるのではないか。
むろん、人が移動すること自体は、有史以前からある。しかし、その形態を分析すると、20世紀から現在までの移動という問題は、また違った位相として現れる。19世紀に現れたヨーロッパからアメリカへと移動する大規模な人口は、20世紀になると多様な移動の流れを生み出した。また、強制連行やポスト・コロニアルという言葉に代表されるように、宗主国と植民地のなかでの移動もある。ただ、それらが貧困というものを大きなバネとしていたのに対して、夢を叶えるための移動というものが生まれたのが、20世紀末の特徴ではないか。いわば、単に貧しさから富裕層を目指すための移動ではなく、自己実現を求めた移動。