劇評

F/Tで上演された各作品、企画についての劇評アーカイブです。
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F/T观剧札记

李宏宇

  来到F/T,看到的第一出戏就很让人喜欢,这究竟是好还是不好呢?后边的戏要让我兴奋是不是就会更难了呢?在Theater Green看过Neji Pijin的《The Acting Motivation》之后,我确实有这样的想法,当然,还有头发里和衣服上浓浓的油烟味。

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子供を所有しないことはできるか (『おねしょ沼の終わらない温かさについて』)

堀切克洋

 鳥公園は、劇作家・演出家の西尾佳織によって2007年7月に設立された「劇団」である。構成員は主宰の西尾と、俳優・デザイン担当の森すみれの二人だけなので、「劇団」というよりはユニットと呼ぶほうが適切かもしれない。俳優やスタッフの編成は、流動的である。西尾は、そのような「ゆるやかさ」を「公園」と呼ぶ。「三人以上の集団は苦手です。二人はぎりぎり好きです。〔......〕鳥公園は、一人でいて、それでいて人と一緒にいられるための場所です。出入り自由です」(鳥公園HPより)。

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「劇評」は、なぜ書かれ、読まれるのか?

森山直人

私は劇評コンペの審査に携わるのは今回が初めてである。だから、他の二人の審査員のように、過去のコンペと比較して何か言うことはできないが、総じて、応募された劇評は、どれもそれぞれ力作が多かった。そのこと自体は喜ばしいと思う。ただ、今ひとつの舞台作品について劇評を書くという行為が、それぞれの投稿者の中でどこに向かい、何に繋がっているのか、という点も、実は一本の劇評の成否以上に重要である。いいかえれば、一本の劇評としての説得力だけでなく、なぜその人が、この作品について、このような劇評を書こうとしているのか、という次元における説得力があるかどうかである。この人は、どんな「視界」において、この作品をこのように評価しているのか。同じ審査員の福嶋亮大氏が、審査会の場で「書き手の演劇観」という言葉を使ってそのことに言及していたが、そういう部分まで迫力をもって読み手に伝わってくるような劇評が、残念ながら今回は少なかったように思う。昨年、一昨年が三本の優秀賞を生んだのに比べて、今回二本になっているのは、「これだけはどうしても推したい」と思わせる批評が見出しにくかったことに一因があるのかもしれない。

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劇評コンペから次の場へ

高橋宏幸

今回の劇評コンペの応募された作品を、第1回目の劇評コンペでも審査した経験から比較してみると、全体の劇評のレベルが格段に上がっていたことに驚いた。おそらく、1回目に受賞した劇評のいくつかでは、今回受賞できなかっただろう。劇評の審査は匿名で行われたので、全ての応募作を読み終えたときの私の印象はそこに集約された。

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大事なのは中身、あとは文章の技術力

福嶋亮大

劇評コンペの趣旨は、これからの演劇界に貢献してくれる書き手にデビューの場を与えることにある。そこで試されているのは、作品ごとの性格をきちんと理解し、広い視野からその意味を位置づけられるだけの能力である。したがって、個人史的体験にあまりにも深く依存して書かれた劇評には、コンペの性質上、高い得点を与えることはできない。逆に、きちんと目標を決め、それに向かって一つ一つ論証を積み上げていく実直な書き手には、おのずと評価が集まることになる。

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独身者の機械、または、彼女は如何にして掘削機を愛するようになったか (『油圧ヴァイブレーター』)

小澤英実

    演劇でもダンスでもなく、ドキュメンタリーでもフィクションでもなく、フェミニズムでもそのパロディでもない。それらのあわいをすり抜ける、ささやかだけれどしたたかな戦略を感じさせる、非常にクレバーな作品である。タイトルからしてフェミニズムやセクシュアリティをラディカルに問う政治的な作品なのだろうかと予想しながらシアターグリーンBASE THEATERの客席に入ると、舞台上には化粧っ気のない女がおり、壁面のスクリーンにはパソコンの画面が映し出されている。おもむろに開演すると、下手に置かれた机に向かって座っているその女、グムヒョンが、パソコンを操作して次々と動画を再生しながら、独白による説明を加えていく。

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芸術家であるとはどのようなことか?――あるいは、和田進太郎はどのような漫画を描いているのか? (『モチベーション代行』)

江口正登

 芸術家とは、芸術作品を作る者のことである。これは間違ってはいない定義であるだろうが、一見して思わされる通り、あまりに単純ではある。ここにはたとえば時間の問いが欠けている。芸術作品を作る者である芸術家は、常に芸術家なのか。そうでないとするならば、制作とあまりにかけ離れた営為に携わっているときの彼/女は誰なのか。芸術家と名乗ることがはばかられるほどに、芸術以外の事柄に時間を取られている彼/女は誰なのか。

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匿名的なものたちの饗宴――「引用」の問題を中心に (『常夏』)

江口正登

 ロロについての判断を下すことには、独特の困難がつきまとう。それは彼らの作品が、ある種の共感を、したがって同様にそれを裏返した反感を強く喚起する類のものであると思われるからである。共感や反感は、作品に対する我々の態度を根底的に動機づけるという意味で、決して意義のないものではないのは確かだが、批評にとってはしばしば躓きの石である。
 以上のような判断から、本稿では、ひとまずレジュメ的なスタイルを採用することとする。衒いのないレジュメとして、『常夏』の構造と、そこに観られるロロの作風・手法・特徴を整理し、これに対する基本的な批評的理解を確保することをまず第一の課題とし、その上で、より批判的な角度からいくつかのコメントを行いたい。

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〈パフォーマンス〉の手前で――不動の身体を体験する (『ツァイトゲーバー』)

江口正登

 村川拓也の『ツァイトゲーバー』は、障害者の介助労働を描いた作品である(ひとまずこのようにいってよいだろう)。ここでは、舞台芸術と障害(者)の関係という、きわめて肝要な問いが、きわめて肝要な仕方で扱われていると思われた。本作の問いの射程を明らかにするために、最初に、舞台芸術と障害(者)の関係を巡っての一般的な考察を導入したい。

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出会いを果たした異文化  (『アウェイク』『ジョーカーズ・ブルース』)

高橋彩子

 キム・ジェドク率いるモダン・テーブル『アウェイク』『ジョーカーズ・ブルース』への観客の反応は、礼賛か拒絶かの二極に分かれがちだったように思う。これは、どういうことなのか。この文章は上演カンパニーへのフィードバックとしても使われるそうなので、以下に、日本の観客の反応についても言及しながら、全体的な考察を試みたい。

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