そこでゼロ夫人という老婦人が老召使いを連れて登場し、厳しい指導を行うのである。いい年をした恰幅の良い政治家たちが、ゼロ夫人から子供のように叱られ、歌わされ、体操を行う様子に満員の場内は大爆笑。さらに、昼間の練習に疲れた政治家たちが簡易ベッドを広げて眠る場面も抱腹絶倒だった。彼らが静かに眠ろうとすればするほど、ベッドは反発し、スプリングがはね飛んで床に放り出されたり、ベッドごと折りたたまれたりするのだ。政治のスペクタクル性と男性中心主義が徹底的に笑われていた。
2000年にマルターラーはチューリヒ・シャウシュピールハウスの芸術監督に就任したが、この職は彼には合わなかったようだ。任期途中での解任を受け入れ、舞台全面に難破船の船内を組んで上演したシェイクスピア『十二夜』(2000年)や、不時着した飛行機の機内をセットにした『不時着 − ひとつの希望のヴァリエーション』(2003年)などを演出した後、フリーの演出家に戻った。『不時着』は2001年に倒産したスイス航空を題材としつつ、自分を解任した劇場を不時着した飛行機にたとえた皮肉な舞台でもあった。
劇場を離れたマルターラーは、美術家フィーブロックやドラマトゥルクのシュテファニー・カープ、そして気心の知れた俳優たちとともに、各地の劇場や演劇祭からオファーを得て、毎年二、三本のペースで演出活動を続けている。公演会場は劇場に限らない。アルプスの保養地にあるホテルを貸し切るなど、会場の特性を生かした公演もある。バイロイト祝祭劇場でのワーグナー『トリスタンとイゾルデ』や、パリ・オペラ座のモーツァルト『フィガロの結婚』など、オペラの演出も多い。ナチ時代に多くの子供たちが安楽死させられた出来事を扱った『未来を防ぐ』は、今年(2010年)のアヴィニョン演劇祭で再演された。
そして今回の『巨大なるブッツバッハ村 -- いつまでも続くコロニー(仮訳)』。この作品はリーマンショック以後の金融危機による経済破綻を描いている。フィーブロックは、事務所、銀行、倉庫の要素を寄せ集めた巨大な室内を作った。舞台にはガレージやベランダ、カウンターや街灯もあり、窓ガラスを通して奥には事務室も見える。おそらくここは、破産した事務所の内部なのだろう。俳優たちそれぞれが愛着を持つ家具が、売却済みの札を貼られ、持ち出される。スラップスティック風のコミカルな動きを交えながら、シューベルト、ベートーベン、マーラーらの歌曲や、リリー・マルレーン、ビージーズのヒットソングを歌う俳優たち。言うまでもなくこれは、マルターラー演出の常套手段である。その一方で、マルターラーには珍しく、一家心中せざるをえなかった男の手記をはじめ、経済苦境で味わった苦しい体験をもとにしたドキュメンタリー風のテキストが語られる。また、哲学書などさまざまな著作からの引用もモノローグされるが、なかには資本主義を激しく批判する直接的なフレーズも多くあり、マルターラーの穏やかな批評性に慣れた観客層を驚かせた。リーマンショックがヨーロッパ社会に与えた深刻な亀裂が、マルターラー独自のユーモア溢れる緩慢の美学に捉えられ、もともとメランコリックな彼の作風に深い影を落としたように思える。 (早川書房「悲劇喜劇」2010年9月号「ドイツ演劇事情」に加筆)
演出:クリストファー・マルターラー【スイス】
舞台美術:アンナ・フィーブロック【ドイツ】
公演スケジュール:2010年11月19日(金)−11月21日(日)
会場:東京芸術劇場 中ホール