9月中旬。マレビトの会「ヒロシマーナガサキ」シリーズ最新作に向けての試演会。会場となった京都芸術センターの講堂は、ところどころにスポットライトの輪が落ちているほかは客席もなくガランとしている。「もしもし、久しぶり。3、4日後に広島にいこうと思うんだけど......」。談笑しながら開演を待つ観衆の中から一人の青年が現れ、おもむろに携帯電話で話し出す。スポットライトの中に立ち、広島行きの計画を語る彼の頭上には、テレビモニターと博物館にあるような作品解説の札。「広島を歩く 演者:生実 慧」。やがて同じようにライトの中へと歩み出した俳優たちによって、会場にはいくつもの「作品」が姿を現した。
広島とそこでの被爆者が多く住むという韓国・ハプチョンに取材し製作された本作。「展覧会形式」とうたった上演は、現地を訪れた俳優たちのレポート(再現としての演技を含む)と取材時の音声や映像をコラージュした場面=「作品」を同時多発的に配置したものだ。
「自分の言葉だけでは限界があるなと思ったんです。もう少し他人の言葉と一緒に作品づくりができないかなということを考えていて」と演出の松田正隆は説明する。劇作家の書く言語からはもちろん、いわゆる「演劇」の形式からも逃れ、他者へ開かれようとする創造。だがそれは単なる多様性や共感を目的にしたものではない。
「私は長崎の出身ですが、そういう当事者性を持った語りを頼りにするのではない、むしろ『当事者ではない』という、その外部性にこそ希望を見出したいと思っています。部外者である俳優たちがレポーターとして広島やハプチョンを訪れた経験を、どうこの展示会場に写しこむか。それが今回のテーマです」
自らの故郷・長崎を取り上げた『声紋都市』、広島の戦後復興の歴史を都市計画から紐解いた『PARKCITY』、そして海外にも取材した本作と、回を経るごとに「被爆都市」への眼差しを広く、高くしてきた松田。その彼にとって「外部性」はこれまでにも常に意識してきた基本姿勢なのだろう。安易な理解や共感を許さない「部外者性」を自らのうちに持つこと。厳しいとも思えるこの眼差しがなくては「自分たちなりの原爆資料館をつくる」という今回の試みも生まれることはなかったかもしれない。
映画「ヒロシマ・モナムール」を友人と観た話、被爆者のための医療拠点となった日赤病院の元看護婦のコメントの再現、米軍施設の関係者へのインタビュー......。彼らの「原爆資料館」を訪れた人々はスポットライトとスポットライトのあいだを移動しながら、それぞれの「作品」を鑑賞してまわる。何をどのくらい、どう観るかは自由。だが同心円状に並べられ、かつ同時多発する「作品」群は、私たちからあらかじめ全体像を奪ってもいる。
「お金を頂いた時点で観客としてふるまう権利は保障されているわけで、私はそこにある<見(観)る・見(観)られる>の関係を壊したいとは思わないんです。むしろ<見(観)る主体>としての暴力性や権力性を持って観て欲しいということは 考えていて。だから今回のような方法を通して、目の前で起こる何かに見入ってしまったとき、そのかたわらでは同時に別のことが進行していた----という発見ができれば、ちょっと面白いんじゃないかと思ったんですよ」
それはたとえば、次のような経験にも凝縮されるだろう。夏の日に市電の中で突如貧血で倒れこんだ人を目撃したと語る「作品」の近くで、別の「作品」の登場人物が床に倒れこむ。だが「あっ」と振り返った時には、関連性を持つと思われる瞬間はとうに消え去っており、そこにいた俳優までもが登場時と同じように観客の中に紛れてしまっている----。
「たくさんの人で同じものを見ていても、その体験は非常に個的なものになる。現実の人生だってそういうことに満ちあふれているわけですしね」
鑑賞中には他の観客が歩き、立ち止まる姿も目に入る。そうして一つひとつの「作品」との新鮮な出合いの一方で、私たちは見知らぬ誰かの存在を認め、その彼らが違うものを見、感じていることを実感する。発見の興奮と、すべてを手にできない疎外感(それは「部外者性」と呼ぶこともできる)を抱え、歩きながら、見ながら、見逃しながら巡った展覧会。約50分間の展示(*)はどこかの見知らぬ都市への訪問にも似ていた。
試演会の翌日、松田をはじめとするマレビトの会のメンバーは3度目の取材のためハプチョンへと向かった。開幕まで約1か月半。マレビト式の展覧会は、さらなる視線と経験を堆積させた「被爆都市」を私たちの眼前に立ち上げようとしている。
(2010年9月15日)
(*)実際の上演では、一定の時間帯の中でパフォーマンスも含めた「作品」が何度もループして「展示」される。