犬死にのために、臭いものにはフタを――ピーチャム・カンパニー『復活』

堀切克洋

1.
原稿執筆がおおいに遅れてしまった。

当初はやわらかい口調だったフェスティバルの担当者からの催促も、冬の訪れとともに次第に厳しさを増し、最終的には「いい加減にしてくれませんか、ホリキリさん」という感じになって現在に至っている。おそらく、この企画に原稿を依頼されることは、もう二度とないだろう。この間、東京にはめずらしく雪が積もり、そして解けていった。

正直に言えば、この文章で扱うことになっているピーチャム・カンパニーの『復活』は、昨年秋のフェスティバル/トーキョーで最も面白いと感じた作品だった。たとえわたしが、この欄で扱っている鳥公園とピーチャム・カンパニー、そしてwonderlandの劇評講座で扱ったジェローム・ベルPort Bの作品以外には、わずか1本(バナナ学園)しか見ていなかったとしても。

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役者という使者の祝祭 (『エンジェルス・イン・アメリカ』)

小澤英実

 トニー・クシュナーの『エンジェルス・イン・アメリカ』(以下AIAと表記)は、エイズパニックがアメリカ本土を席巻した90年代初頭に書かれたアメリカ現代演劇の金字塔的戯曲である。アメリカ社会を構築する三大要素とされる「人種・階級・ジェンダー」に、「政治と宗教とセクシュアリティ」という3項を導入することで、共同体幻想を粉砕するようなアメリカ国家のマトリクスを観客にまざまざと見せつける。それは多民族国家アメリカの病理と救済の物語であり、ひとりのユダヤ系アメリカ人が、アメリカという内なる他者を理解しようとして書いた、途方もなく野心的な戯曲であり、第一部・第二部を通しで上演すれば、ゆうに7時間におよぶ壮大なスケールの叙事演劇である。1

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  • KUNIO
  • 2012年01月06日

子供を所有しないことはできるか (『おねしょ沼の終わらない温かさについて』)

堀切克洋

 鳥公園は、劇作家・演出家の西尾佳織によって2007年7月に設立された「劇団」である。構成員は主宰の西尾と、俳優・デザイン担当の森すみれの二人だけなので、「劇団」というよりはユニットと呼ぶほうが適切かもしれない。俳優やスタッフの編成は、流動的である。西尾は、そのような「ゆるやかさ」を「公園」と呼ぶ。「三人以上の集団は苦手です。二人はぎりぎり好きです。〔......〕鳥公園は、一人でいて、それでいて人と一緒にいられるための場所です。出入り自由です」(鳥公園HPより)。

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独身者の機械、または、彼女は如何にして掘削機を愛するようになったか (『油圧ヴァイブレーター』)

小澤英実

    演劇でもダンスでもなく、ドキュメンタリーでもフィクションでもなく、フェミニズムでもそのパロディでもない。それらのあわいをすり抜ける、ささやかだけれどしたたかな戦略を感じさせる、非常にクレバーな作品である。タイトルからしてフェミニズムやセクシュアリティをラディカルに問う政治的な作品なのだろうかと予想しながらシアターグリーンBASE THEATERの客席に入ると、舞台上には化粧っ気のない女がおり、壁面のスクリーンにはパソコンの画面が映し出されている。おもむろに開演すると、下手に置かれた机に向かって座っているその女、グムヒョンが、パソコンを操作して次々と動画を再生しながら、独白による説明を加えていく。

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芸術家であるとはどのようなことか?――あるいは、和田進太郎はどのような漫画を描いているのか? (『モチベーション代行』)

江口正登

 芸術家とは、芸術作品を作る者のことである。これは間違ってはいない定義であるだろうが、一見して思わされる通り、あまりに単純ではある。ここにはたとえば時間の問いが欠けている。芸術作品を作る者である芸術家は、常に芸術家なのか。そうでないとするならば、制作とあまりにかけ離れた営為に携わっているときの彼/女は誰なのか。芸術家と名乗ることがはばかられるほどに、芸術以外の事柄に時間を取られている彼/女は誰なのか。

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匿名的なものたちの饗宴――「引用」の問題を中心に (『常夏』)

江口正登

 ロロについての判断を下すことには、独特の困難がつきまとう。それは彼らの作品が、ある種の共感を、したがって同様にそれを裏返した反感を強く喚起する類のものであると思われるからである。共感や反感は、作品に対する我々の態度を根底的に動機づけるという意味で、決して意義のないものではないのは確かだが、批評にとってはしばしば躓きの石である。
 以上のような判断から、本稿では、ひとまずレジュメ的なスタイルを採用することとする。衒いのないレジュメとして、『常夏』の構造と、そこに観られるロロの作風・手法・特徴を整理し、これに対する基本的な批評的理解を確保することをまず第一の課題とし、その上で、より批判的な角度からいくつかのコメントを行いたい。

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〈パフォーマンス〉の手前で――不動の身体を体験する (『ツァイトゲーバー』)

江口正登

 村川拓也の『ツァイトゲーバー』は、障害者の介助労働を描いた作品である(ひとまずこのようにいってよいだろう)。ここでは、舞台芸術と障害(者)の関係という、きわめて肝要な問いが、きわめて肝要な仕方で扱われていると思われた。本作の問いの射程を明らかにするために、最初に、舞台芸術と障害(者)の関係を巡っての一般的な考察を導入したい。

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出会いを果たした異文化  (『アウェイク』『ジョーカーズ・ブルース』)

高橋彩子

 キム・ジェドク率いるモダン・テーブル『アウェイク』『ジョーカーズ・ブルース』への観客の反応は、礼賛か拒絶かの二極に分かれがちだったように思う。これは、どういうことなのか。この文章は上演カンパニーへのフィードバックとしても使われるそうなので、以下に、日本の観客の反応についても言及しながら、全体的な考察を試みたい。

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ユーモアあふれるハッタリに、敢えて物申す  (『ノーション:ダンス・フィクション』)

高橋彩子

    フェスティバル/トーキョーのウェブサイトで「人間の筋肉の動きをデジタルで記憶させることにより、ダンス界のアイコンともいえるピナ・バウシュや土方巽などの振りを再現するデモンストレーション・パフォーマンス」「最先端のテクノロジーと身体言語としてのダンスとの化学反応」という触れ込みだった『ノーション・ダンス・フィクション』。筆者が事前に抱いた漠たるイメージは、舞台を観るうち、裏切られていった。

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分裂を生きる中国のポートレイト  (『River!River!River!』)

福嶋亮大

 本作の演出家・臧寧貝(ザン・ニンベイ)は一九七二年生まれ。上海を拠点にしながら、これまでに数本のオリジナル作品から、ルイジ・ピランデルロの『作者を探す六人の登場人物』の上演、あるいは小泉八雲の『怪談』の翻案までを手がけ、二〇一〇年には独立演劇団体『将進場』(ランドステージング・シアター・カンパニー)を創設するなど、精力的な活動を展開している作り手である。

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