分裂を生きる中国のポートレイト  (『River!River!River!』)

福嶋亮大

 本作の演出家・臧寧貝(ザン・ニンベイ)は一九七二年生まれ。上海を拠点にしながら、これまでに数本のオリジナル作品から、ルイジ・ピランデルロの『作者を探す六人の登場人物』の上演、あるいは小泉八雲の『怪談』の翻案までを手がけ、二〇一〇年には独立演劇団体『将進場』(ランドステージング・シアター・カンパニー)を創設するなど、精力的な活動を展開している作り手である。

この『River!River!River!』(原題は『江河行』)は二〇〇九年に初演され、すでに中国内外で二〇回以上の公演を重ねている作品である。大雑把に言って、本作にはヴィデオ・ドキュメンタリーとしての側面と演劇としての側面が二重写しになっている。作品の冒頭で長江流域の三つの河川を取材し、その地で行われている水力発電およびダム建設の問題が取り上げられる。その取材内容はまず映像としてスクリーンに映写され、その後に今度は舞台の役者たちがそのスクリーンとのあいだで対話を始める。それはちょうど、ドキュメンタリーを見てそれを解釈する私たち自身の寓意でもあるようだ。

本作の思想は、さしあたり開発のマイナス面を訴えるものだと言ってよいだろう。ダム建設によって住処を追い出されたひとびと、あるいは自然破壊によってやはり住処を失われた魚が、その根拠として掲げられる。ただ、本作はたんに環境保護を訴えるだけの作品でもない。本作を語るキーワードは、むしろ「分裂」だと思われる。たとえば、立ち退きの補助金で生活が楽になり、新しい家電や消費財を買えたという男性が映像で登場するシーンには、この作品の抱える葛藤がはっきり描き出されている。確かに環境への負荷を考えれば、ダムなどつくらないほうがよい。しかし、それによってもし人間が幸せになる可能性が生まれるのだとしたら?そのとき、開発を簡単に断罪できるだろうか?

こうした「分裂」は本作の至る所で見られる(ヴィデオと演劇の二重構造も、その一つである)。たとえば、役者たちは狭い劇場を駆けめぐりながら、水力発電はクリーンだと言う、しかし誰にとってのクリーンさなのか?と問う。たとえ自然を汚さなくても、生態系は壊れるのだから。もとより、人間は自然と完璧に調和することはできない。私たちは、自然に手を加えなければならないし、しかも手を加えてはならないという矛盾した命題を生きる存在だ。こうした解消しがたい分裂をそのものとして提示すること、そこに本作の真骨頂があるのではないか。

それに、考えてみれば「河」というのは中国の文明の礎そのものであった。太古の昔から、中国人は黄河および長江との格闘において、権力と文明を生み出してきたのである。河が中国人の幸福と不幸を生み出す母胎であるならば、たんに一つの視点からその環境との付き合い方を断罪することはできないだろう。いずれにせよ、本作は、ダム建設という大規模開発によってさまざまな利害対立が一挙に噴出した、その分裂と混乱を見据えようとする作品であり、その前提の上で、環境保護という政治的テーマが掲げられるのだ。

もっとも、本作の演出にはいささか不満がないわけでもない。たとえば、そこでは生態系の破壊、特に魚に対するダメージが繰り返し危惧されている。だが、現実に魚たちが河川でどう生きているのかは、本作からはまったく伝わってこない。せっかく取材をしたのだから、その成果をもう少し生かすことはできなかったのか。深刻な環境破壊があるというならば、せめてそれが具体的に分かる光景を何らかのやり方で示して欲しかった(むろん、中国の事情を考えれば、あまり政治的に過激なことはできないのも理解できるが......)。本作においては、作り手の政治的メッセージのほうがややもすれば先走り、事実の検証が置き去りにされた印象も否めない。さらに、環境保護を訴えるならば、多少はセンセーショナルなドキュメンタリー映像を組み込まなければ、おそらく現実的な効果は薄いだろう。本作の映像/演技には、受け手にショックを与え、物事の見方を劇的に変えさせる力が弱かったと言わざるを得ない。

とはいえ、F/Tの公募プログラムにおける日本の劇団に慣れた目からすると、本作のようにジャーナリスティックで、また社会に対する作り手の姿勢がはっきり見える作品がかえって新鮮に映ったことも確かである。たとえば、今回の公募プログラムでは、日本のコンビニ店員なり介護職なりの低賃金労働者の実存をそのままほとんど手を加えず露出させる、いわばロスジェネ系の演劇が目立った。確かに、それはそれで日本の実像であるには違いないし、低賃金労働者が今日の先進国一般における格差問題に繋がっていることも否定はしない。だが、そうした実態を表現に変える――つまりは社会化する――ときにはもっと工夫が要るのではないか。率直に言って、私には韓国や中国の劇団が総じて「大人の演劇」をやっているのに対して、日本はどうも表現への緊張感を欠き、演出もあまりに感覚的に(あるいは無防備に)すぎる「子どもの演劇」をやっているように見えて仕方がない。隣国の劇作家の姿勢から、私たちは多くを学ばねばならないのではないだろうか。