出会いを果たした異文化  (『アウェイク』『ジョーカーズ・ブルース』)

高橋彩子

 キム・ジェドク率いるモダン・テーブル『アウェイク』『ジョーカーズ・ブルース』への観客の反応は、礼賛か拒絶かの二極に分かれがちだったように思う。これは、どういうことなのか。この文章は上演カンパニーへのフィードバックとしても使われるそうなので、以下に、日本の観客の反応についても言及しながら、全体的な考察を試みたい。

日本と韓国、その距離


 『アウェイク』は、マイクの前に座る2人の男性が歌うロック風の歌で始まる(作曲は振付を手がけるキム・ジェドク)。彼らは次に、ほぼシンクロして踊り始め、抜きつ抜かれつ追いかけ合ったり体重をあずけ合ったりといった動きも展開する。両者の動きに見入っていると不意に客電が点き、一人がもう一人の分身であることが言葉で説明されたのち、再び、歌と踊りが繰り広げられる。一方、初めは踊りがメインの『ジョーカーズ・ブルース』も、1/3ほどが過ぎた辺りで突然、客席の通路にパンソリ歌手ユン・ソッギが立ち、舞台のほうを向いてパンソリを歌い出す。やがて舞台上にはドラムセットが現れ、あたかもショーかコンサートのような賑やかな様相を呈し出す。最後、ダンサーたちは、一人また一人と舞台を降りていく――。
 モダン・テーブルの舞台は、パフォーマーたちによる踊り、歌・音楽、台詞などから成る。その構成は荒削りで、集約・統合された世界には見えず、混沌とした雰囲気や唐突・稚拙な印象を与える。筋骨隆々としたダンサーたちの勢いある動きや、朗々と響くロック風・ブルース風の歌やパンソリは、強いインパクトを残すが、これがまた、ある種の舞台ファンには、苦手意識を抱く材料となりかねない。以下に説明していこう。
 あくまで一般論として、日本にも韓国にも、歌や踊りへの愛好は共通するものの、韓国のほうがその表出のしかたがストレートであるように思う。もちろん、階級や地域によっても多様なので一概に断定するのははばかれるのだが、試しに日本舞踊と韓国舞踊、パンソリと説教節・義太夫節・浪曲を比べても、違いは歴然としている。「侘び寂び」と「恨<ハン>」の比較をしてもいいだろう。どちらも説明の難しい独特の感覚ながら、感情の表れ方で言うと、前者のほうが一見おとなしく、後者のほうが激しい。これらは演じ手の素質としてだけでなく、観客側の態度・雰囲気にも当てはまる。近年、韓国の劇場では、観客が熱狂した際には「ヒューヒュー」と声が飛んだり手拍子が起きたりと盛り上がるのに対し、日本の観客は楽しむにしてももう少し静かに見守る傾向にあり、ものによって斜に構えて鑑賞する人も多い。
 日本では、「ミュージカルやショーが苦手」という層が舞台ファンの一定数を占める。理由を問えば、食わず嫌いのほか、「いきなり歌い踊るのが不自然」「全身で臆面もなく謳歌する感じが苦手」「大仰でダサい」といった答えが返って来るだろう。是非はともかく、これも先に述べたような風土と無縁ではないように思う。そして、因果関係はさておき、日本のコンテンポラリー・ダンスでは少なくともある時期、ミュージカルやショーとは異なる客層が楽しむような、敢えて常道をハズす脱力系や非ダンス系、もしくは、微細な動きに目を凝らすもの、または、抽象的でクールな印象を与えるものなどが(全てではないにしても)好まれる傾向にあった。ダンスとミュージカルの融合=「ダンスカル」を標榜するモダン・テーブルは、コンテンポラリー・ダンスの動きの技術を用い、照明や衣裳などもある程度それに準じたイメージであるにもかかわらず、全体としては、多少粗っぽくなることも厭わず、てらいなく直球の表現を行っている雰囲気で、コンテンポラリー・ダンスを観るという心づもりで足を運んだ日本の観客に、苦手意識を喚起した可能性がある。そうした観客が一様にミュージカルを敬遠するということではないが、日本的な精神風土として通底するのではないだろうか。


もう一つの異文化~コンテンポラリー・ダンスとパンソリ~


 ただし、キム・ジェドクの振付は、前述したようなてらいない表現が直結しがちな"ダサさ"を免れる強みを持っていることも、指摘しておきたい。『アウェイク』『ジョーカーズ・ブルース』の動き自体は、コンタクトやリリースといったコンテンポラリー・ダンスのテクニックと、ストリート・ダンスや武術的な要素の組み合わせによるもので、まだ絶対的な独創性を獲得するには至っていないものの、振りとリズムの関係を作るのがうまい。一つの振りが一つのリズムに単純に呼応するのではなく、リズムをわずかに先取りし、振りの終わりがリズムのクライマックスに来るよう、素早く繰り出される。リズムが刻まれるか刻まれないかのタイミングで、身体は次の動きのスタートを切っている。その連続が、ダイナミックで洗練された雰囲気を生み出すのだ。これは高い身体能力を持つダンサーたちでこそ実現可能だろう。
 とはいえ、幾つか残念な点もあった。例えば、2人単位での動きが多い。『アウェイク』は全体がデュオ作品である訳だが、『ジョーカーズ・ブルース』もまず2人、次にさらに2人登場し、総勢6人となってからも、1人がもう1人の肩に手を置いたり片方を持ち上げたりと、2人1組のパターンがほとんどだ。それが単調さを生んだことは否めない。『ジョーカーズ・ブルース』では1対5などの組み合わせも見られたが、充分に広がらぬまま終わった。また、パンソリが響く時、踊る身体はそれまでとは自ずと変化するはずだが、その辺りの音との関係性には、まだまだ探求の余地があるように感じられた。
 テーマ性においても、物足りなさは残る。「分裂する自我」(『アウェイク』)、現代人の滑稽さ(『ジョーカーズ・ブルース』)といったことが描かれはするものの、深く掘り下げるというより、雰囲気の醸成にとどまっているように見えた。それすら、突如パンソリやドラムセットが登場すると、その圧倒的な迫力の前に、相乗効果というより、塗りつぶされてしまったかに思われた。
 振付家キム・ジェドクとパンソリ歌手ユン・ソッギ、ダンサーのイ・ピルスンで設立されたモダン・テーブル。この「テーブル」にはパンソリの「パン」の意味が込められているという。パンとは、人々が集まる場所のことであるから、つまりこのカンパニーそのものが、現代的なものと伝統的なものの出会う場所でもあるわけだ。ここでは前者は西洋的文脈、後者は東洋的文脈から生まれている。そんな両者が果たす出会いは、かなりの力技でなされる。アフタートークでのユン・ソッギの発言によれば、キム・ジェドクは、ユン・ソッギと出会ってモダン・テーブルを設立するまで、パンソリをじっくりと聴いた事はなかったという。つまり、モダン・テーブルにおけるダンスとパンソリの関係は、異質なもの同士、いわば異文化としてスタートした。
 異文化度が高いものの出会いは、衝撃的でアンバランスに見えるものだ。しかもそのどちらもが、日本の観客にとって異文化であったと考えれば、尚更だろう。現時点で、このいささか突飛な組み合わせを楽しめることのできた観客は肯定的にとらえるが、苦手意識を抱き、圧倒されて終わった観客は否定的に受け止める。
 今のところ、こうした特徴は、このカンパニーの良さであると同時に、弱点にもなっている。"現代"と"伝統"、"西洋"と"東洋"の文化交流は、衝撃的な出会いを経て今後、どう発展していくことができるだろうか。ユン・ソッギは「ダンスをダンスだけで、音楽を音楽だけで集中してみるより、一つの作品の調和を見てほしい」「ヴォーカルの後ろにダンサーじゃなくて、ダンサーが前でヴォーカルが後ろにいるという(略)いわゆる今どきの大衆芸術の逆」(※)と説明するが、客席のやや前方に立ってパンソリを歌った彼が、ダンサーたちよりも近い位置にいたことも手伝い、多くの観客の意識は、ダンスと音楽に分断され、挙げ句、音楽に吸収されてしまいがちだった。もっとダンスもパンソリも主張し合い、拮抗した挙げ句、渾然一体化する構造にしたほうが、ユン・ソッギの語る「調和」はより効果的に実現できるように思う。
 パンソリがコンテンポラリー・ダンスに登場することの新奇さを乗り越えて、ギターやドラムなどの音・音楽とより複雑に絡み合い、一方、振付やそれをこなすダンサーたちも、そうした音楽により先鋭に反応して動きを展開していくことができたら、ひときわ興味深い表現が立ち上がるだろう。ダンサーが歌えることを生かし、パンソリとともに歌う部分は非常に興味深かったので、追求していってほしい。幾つもの要素それぞれがユニークなだけに難しいだろうが、多様な交感が考えられるはずだ。諸要素が相克し、浸食し、あるいは混じり合いながら、固有の表現を確立した時こそ、モダン・テーブルは、カンパニー名や結成理由に相応しい、唯一無二の表現団体として、その存在を強固なものにするのではないだろうか。




※げきぴあ フェスティバル/トーキョー11 vol.25 Modern Table 副代表 ユン・ソッギ
http://community.pia.jp/stage_pia/2011/11/festival-tokyo11-25.html より