〈パフォーマンス〉の手前で――不動の身体を体験する (『ツァイトゲーバー』)

江口正登

 村川拓也の『ツァイトゲーバー』は、障害者の介助労働を描いた作品である(ひとまずこのようにいってよいだろう)。ここでは、舞台芸術と障害(者)の関係という、きわめて肝要な問いが、きわめて肝要な仕方で扱われていると思われた。本作の問いの射程を明らかにするために、最初に、舞台芸術と障害(者)の関係を巡っての一般的な考察を導入したい。

 まず、とっくに無効となっているであろう考え:「舞台芸術とは、常人には獲得しがたい、卓越した技量の持ち主が、それを舞台上で誇示するものである」。ここに述べられるような「卓越した技量」といったものを一般的に同定しうるという発想は、もはやとうに自明性を失っているであろう。かつ、その「卓越」が、暗黙裡のうちに「規範的な身体」――それは、「普遍」を僭称しつつその実さまざまに特定化されたもの、すなわち、西洋的、近代的、男性的、異性愛主義的...等々といった仕方で特定化されたものである――を想定しているとするならば、そのことの政治的な不適切さも批判されねばならない。こうした認識は、メインストリームのものではないかも知れないが、批判的な言説の内ではすでに行き渡ったものであるといってよい。
 こうして、「規範」の虚構性ということが認識されるならば、その名の下に排除されてきた様々な形象をどのように再評価するかということが大きな課題となる。このとき、障害(者)という形象をどう考えるかは、とりわけ肝要な問いとなるだろう。規範(=norm)の観念と健常(者)(=normal)の観念との結びつきは、西洋や近代や男性や異性愛主義などとのそれに較べ、より根本的に「自然化」されていると思われるからである。むしろ、健常者の身体は、西洋や近代といった諸規範がその上に書き込まれるべき基底をなすものであるともいえる。舞台芸術でいうならば、バレエにおけるようなシンメトリーを是とする美意識は、そもそも左右対称的に「五体満足」な身体の状態を前提としなければ成立しないものではないだろうか。であるからこそ、障害(者)と舞台との関わりを考えることの賭金は一際大きい。
 「規範的な身体による卓越した技量」といった発想を解除して考えるならば、障害(者)の身体、障害(者)の生は、ある意味においてパフォーマンスそのものであるともいえる。歩行や食事といった、健常者においては自然化されており、無意識化されている日常の些細な振舞いの一つ一つが、彼/女らにとってはまさしく「卓越した技量」をもって遂行すべきものとなり、実際――舞台上の表現がそうであるのと同様に――人々の「好奇の目」を引き付けうるものとなる。障害パフォーマンスの研究者かつアーティストであるペトラ・クッパーズは次のように述べている。

障害のあるパフォーマーは、文化的活動の中心的領域からはるかに外れた境界地帯へと、医学の言説によって追いやられ、周縁化されており、不可視である。同時に、身体障害を抱えた人々はまた、彼/女らの身体的特徴によって即時的に規定されるものであり、きわめて可視的でもある。身体障害を持つパフォーマーは、したがって、文化的意味の二つの領域と交渉せねばならない。すなわち、公的領域のアクティヴな成員としての不可視性と、ポピュラーな想像力の多くにおける受動的な消費者及び犠牲者としての高度の可視性と即座のカテゴリー化の二つの領域とである。 1

 以上を踏まえるならば、障害(者)の提示や表象に関わる問いは、一方における不可視性と、他方における高度の可視性とそれに伴う安直なカテゴリー化の双方に抗して、いかに多様かつ脱安定的な仕方で、その可視性を実現していくか、という風にひとまずは定式化できるだろう。しかし、果たしてそれだけであろうか?
 障害(者)の身体が、パフォーマンスとして機能しうるのは、規範=健常とは異なるものであっても、それが固有の仕方でパフォームしうるものであるからに他ならない。しかしながら、そうした行為の可能性が根本的に失われた身体の場合にはどうか。たとえば、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病がある。全身の筋肉が萎縮し、体を動かすことがまったく出来なくなってしまいつつも、意識だけは明晰である、という病である。こうした身体は、表象の対象としてであれ現前の主体としてであれ、舞台やパフォーマンスというものの領域の決定的な外部にあるものではないのか2 。「パフォーマンス」という言葉が、「行為の遂行」や「性能」といった意味を示すものである限り、ALS的な不動の身体は、その対象であることも、主体であることも、不可能なものであらざるを得ないのではないか。こうした身体に対して、舞台芸術はどう関わることができるのか。私が『ツァイトゲーバー』について考えたいのは、こうした問いの文脈においてである3

 最初に述べた通り、『ツァイトゲーバー』は、障害者の介助労働を描いた作品である。障害者介助の現実を、丁寧に、忠実に、一つ一つ舞台上で再現すること、『ツァイトゲーバー』において行われるのはほとんどそれが全てである。特異であるのは、その提示の仕方だ。舞台上に実際の障害者=被介助者が現れることはない。しかし、だからといって、介助者を演じるパフォーマーが、不在の被介助者を相手に、一人芝居的に介助労働を再現するわけでもない。すなわち、そこには介助者役のパフォーマーが実際に召還されることとなるのだが、その役を務める者は、観客の中から選出されるのである。上演のはじまる前に――あるいは、上演がはじまると、というべきかもしれない。どこからが作品の「上演」であるかは、それ自体考察すべき問題である――演出家の村川本人が舞台の前に現れる。本作品が身体障害者介護を題材としていること、作品制作にあたり、介護の現場での取材を行ったこと、その対象となったのが「藤井さん」という方であり、彼は、体をほとんど動かすことが出来ず、人とのコミュニケーションは目で行っているということ、出演者の男は実際に介護の仕事に携わっている者であること...といったことを前口上として述べた上で、村川は、唐突に「いまから上演をはじめたいのだが、実はメンバーが一人足りない」ということを言い出す。そして、具体的に何をするかの内容を伏せたままに、上演に協力してくれる女性を一人、客席から募るのである。
 客席から名乗りが挙げられると、彼女は舞台へと召喚され、村川から指示が与えられる。目を開けておくこと、顔を上げておくこと、体を楽にしておく(もう一人のパフォーマーからの身体的な交渉に身を委ねる)こと。この三つに加えて、彼女はさらに「台詞」を与えられる。村川が、現実に彼女が抱いている願い事を尋ね、その願望を台詞として設定する(私は11月6日20時と11月8日14時の二つの回を観劇したが、この二回で願い事として設定された台詞はそれぞれ、「お給料のもらえる仕事がしたいなあ」と「背中の痛みが取れますように」であった)。そして、上演中、どこでもよいので彼女が言えると思ったタイミングでそれを三度口にすることが課せられるのである。こうして、舞台衣装としてピンクのパーカーを着せられ、指定された位置に仰向けの姿勢で寝かしつけられる彼女は、いつの間にか「藤井さん」役の俳優として舞台上に横たわることとなる4
 「藤井さん」を相手に、いや、「藤井さん」と共に、介助者役のパフォーマーは、介助労働の様々な場面を再現する。「藤井さん」に話しかける際に、介助者のパフォーマーは必ずマイクを用いる。このことは、舞台上で行われることが、単なるナマな再現ではなく、虚構的な組織性を帯びたものであることを観客に意識させるよう作用する。しかしながら、介助労働の具体的な再現行為自体は、一つ一つ、実に丁寧に行われる。車椅子代わりのパイプ椅子以外に、舞台装置は一切なく、したがってそれらは基本的にマイムによって行われるのだが、フレンチトーストを作ったり、CDをかけたり、洗濯物をたたんだり、といったこまごまとした作業を、パフォーマーは、一つ一つ丹念に行っていく。とりわけ、(私自身を含む)こうした労働の実際に馴染みのない観客にとって印象的であるのは、彼と「藤井さん」の意思疎通の仕方であるだろう。イエスやノーのような、目の運動のみで伝えうる単純な意思表示を超えた情報を「藤井さん」とやり取りする必要のあるとき、介助者のパフォーマーは、五十音図を読み上げるような仕方で藤井さんの言おうとすることを一文字ずつ確認していくのだ。すなわち、まず「あ、か、さ、た、な...」と五十音各行の冒頭の文字を一定の間隔で発声していき、「藤井さん」の目がそれと示したところでストップする。これで行が確定される。次に、確定された行のそれぞれの各文字を同じくひとつずつ読み上げていく(たとえば、か行であったならば、「か、き、く、け、こ」と)。そしてやはり、「藤井さん」の目の動きから、彼が言おうとしていたのがどの文字であるかを読み取る。これを繰り返し、「藤井さん」が言おうとすることを、発語として構成していくのである。たとえば「藤井さん」に食べたいものの希望を尋ね、「フレンチトースト」という回答を得るためのやり取りは次のようになる。

介助者:藤井さん何か食べたいものありますか?
あ、か、さ、た、な、は、(「藤井さん」、目で合図)...は、ひ、ふ(合図)...ふ。
あ、か、さ、た、な、は、ま、や、ら(合図)...ら、り、る、れ(合図)...れ、ふれ。
あ、か、さ、た、な、は、ま、や、ら、わ(合図)...わ、を、ん(合図)...ん、ふれん?
あ、か、さ、た(合図)...た、ち(合図)...ち、ふれんち。
...藤井さん、フレンチトースト食べたいんですか?

 敢えて省略抜きに記したのは、こうしたコミュニケーションの与える「迂遠さ」の印象を多少なりと再現したかったためである。しかしながら、いかに迂遠なものに思えようとも、これはまさに介助者と「藤井さん」が日常的に行っているコミュニケーションであり、こうしたプロセスを省略して、彼らは意思の疎通を行うことは出来ない。『ツァイトゲーバー』の全編を満たす再現行為の丹念さとは、こうした省略不可能性に真摯に応対しようとした結果であるといえる5

 ここで、先の問いに戻ろう。先に私は、たとえばALSの身体がそれであるような、行為の可能性を根本的に失われ、舞台やパフォーマンスの領域の決定的な外部に置かれた身体とどう関わるか、という風に問題を提起した。「藤井さん」の症状がALSに当たるのかどうかは分からないが、ほとんど体を動かすことが出来ず、辛うじて目の動きによってのみ他人とコミュニケートできるといった状態は、上で私が述べた「パフォーマンスの外」ということと重なるものであるだろう。
 こうした身体に対しては、それを表象しようとすることも、現前させようとすることも、共に問題をはらんだ行為とならざるを得ない。前者、すなわち表象的なアプローチの場合に関しては、他者に成り代わるという行為一般に含まれる破廉恥さの問題が、この場合通常以上に強く現れることになるであろうし、後者、現前的なアプローチを取るとすれば、それは、他者を文字通り強制的に可視化するという極めて暴力的な行為とならざるを得ない(ごく端的に、ALS患者は、「自力」のみでは舞台上にまで移動することすら出来ないということを思い起こそう)6
 ここで、表象でも現前でもない第三のアプローチとして、『ツァイトゲーバー』が提出していたのは、「体験」というあり方である。前もってのリハーサルを伴わないことはおろか、自発的に参加を表明したとはいえ、具体的な内容すらも明確には知らされることなく、その場で突如「藤井さん」とされてしまった彼女に、積極的にそれを表象しようとすることはできない。「藤井さん」役として舞台に乗せられる女性は、「藤井さん」を表象するというよりも、むしろ体験するのである。
 そもそも、それを表象しようとするほどに、「藤井さん」的な受動性の極にある不動の身体について、我々は何を知っているというのだろうか。『ツァイトゲーバー』のような介助の劇を前にしたときにも、恐らく、特段意識させられることがなければ、我々はごく自然と介助者の側にアイデンティファイしてしまうことだろう。しかし、介助という経験を真に理解するために必要なのは、介助者と被介助者、その双方の身体の交渉の中に――というよりもむしろ、その交渉それ自体として――構成される、ある共同的な身体について知ることではないだろうか。被介助者の立場に身を置いてみることは、それを知るための道筋の一つだ。
 こうした意味では、この作品は、本来観客全員が「藤井さん」の立場を体験してみることが望ましいのかもしれない。そこで注目したいのが、「藤井さん」役のパフォーマーに与えられた「台詞」の機能だ。任意の、好適と思われたタイミングで三度それを言うようにと、選ばれた女性が指示を受けるのを共に聞いた他の観客たちは、自らもそのタイミングを計る作業に自然と促されるだろう。このタイミングへの配慮を通して、客席に座る我々は、舞台上の「藤井さん」役の女性へと同一化することとなり、これを通じ、彼女の経験、そして、彼女が同一化する「藤井さん」の経験に、いくばくかの接近が可能になると思われるのである(こうしたタイミングの配慮へと観客を駆り立てることに関して、「三回」という回数の設定も絶妙であったと思われる)7。上演の最後に、村川が女性に感想を尋ねることも、同様の効果を狙ったものと考えてよい。こうした仕掛けを通して、客席の観客たちもまた、体験の代補を得るのである。

 障害者介助という、極めてシリアスな問題を扱うにあたって、『ツァイトゲーバー』は上述のように、知的かつ倫理的に考え抜かれた手法を用いていた。その緻密で繊細な手法は、もしかすると他方で、やや穏当すぎるという印象を抱かせるものでもあるかもしれない。たとえば、上演の中で、「藤井さん」の両親に対する愛憎の入り混じった感情が窺い知れる場面や、「藤井さん」が介助者に対して、やや無理な注文を出して一瞬不穏な空気の生まれる場面がある。しかしながら、それらはいずれも深く掘り下げられることはない。両親に対するアンビヴァレンスを綴った「藤井さん」の手記を読まされコメントを求められた介助者は「いいんじゃないですか」と実にあっけらかんとしたソフトな肯定をそれに与えるのみ――これはもちろん、被介助者のプライヴェートで内面的な部分に対して介助者が取ろうとする精妙な距離感の現われでもあるだろうが――であり、ベランダの段差を埋めたいという無茶な頼みに、「今日は無理なので勘弁してください」と介助者が申し出れば、「藤井さん」も特段の固執を見せず要求を引っ込める。こうした何も起こらなさを、穏当すぎるとし、それを作品としての踏み込みの足りなさと解する立場もありうるだろう。しかしながら、そうした「問題」を求める態度が、本稿の最初で述べたような、「即座のカテゴリー化」の暴力にしばしば結びつきうるものであることにも留意すべきだろう。『ツァイトゲーバー』の穏当さは、そうした隘路をくぐり抜けようとする真摯な思慮に満ちた選択であり、この意味でも、それは「顕示的な振舞い」としての〈パフォーマンス〉の手前に、注意深く留まり続けようとするものだったのである。

 「ツァイトゲーバー」とは、ドイツ語で「時を与えるもの」を意味し、生物が体内時計を調整するために用いる環境からの刺激――光や温度など――のことを指すという。村川がなぜこの言葉を本作のタイトルに選んだのかは推測するしかない。素朴に考えた場合には、受動性の極にあるような「藤井さん」の身体においても、絶えず作動し続ける体内時計、つまり、生物の還元不可能な能動性――これはまた、三回の台詞の発語のタイミングを計りつづける彼女の意識の運動とも重なるものである――を想起させるようなものとして、この語が選ばれたのではないかという気がする。しかし、さらに考えるならば、むしろ「藤井さん」と介助者の双方が互いにとってのツァイトゲーバーである、と捉えるべきなのではないかという風にも思える。互いが互いにとってのツァイトゲーバーであるとは、すなわち、それぞれの個体が固有のリズムを刻みながら、それらが常に環境との相互作用の中にあるというあり方のことだ。私はあなたの環境であり、あなたは私の環境である。そして、私もあなたも環境と共にしか生きていくことはできない。環境から離れたものとしての、私の身体や、私の時間というものは、ない。そうした根源的な共生のヴィジョンを、ツァイトゲーバーという言葉は微かに伝えていたのではないだろうか。


1 Petra Kuppers, Disability and Contemporary Performance: Bodies on Edge (New York, N.Y.; London: Routledge, 2003) 49.

2 構成主義的な発想をとるならば、障害とは、そもそも社会的に構成されるものであり、それ自体として存在する事実ではない。車椅子利用者が障害者として構成されるのは、バリアフリーの配慮を欠いた階段が彼/女の前に立ちはだかる場合のことである。すなわち、「健常者」を基準としての社会設計が、「障害者」をそれとして構成するのだ。これは、障害を考える上で極めて重要な視点である。これを踏まえるならば、ある種の身体が「舞台やパフォーマンスの決定的な外部にある」などということは、障害を本質化する危険をはらんだものとして忌避されるべきかもしれない。だが、それでもやはり、ある基底的な尺度――それを基底として、障害が構成されるもの――としての、身体の無‐能力の度合いというものはあるのではないか。そうした観点に基づき、ここではALS的な身体を、ひとまず「舞台やパフォーマンスの外」にあるものとして捉えている。

3 障害(者)と芸術の関わりを探究する試みとして、日本ではNPO法人エイブル・アート・ジャパンが取り組んでいる、エイブル・アートの活動があることを紹介しておきたい。この一環として、舞台芸術の領域においても、エイブルアート・オンステージというプロジェクトが2004年度から2008年度にかけて行われた。詳しくは以下を参照。エイブル・アート・ジャパン+フィルムアート社編『生きるための試行――エイブル・アートの実験』(フィルムアート社,2010)。

4 「藤井さん」役を女性と限定したことについては、議論の余地もあるだろう。多くの身体的な接触――しかも一方は決定的に受動的な状態におけるそれ――を伴うこの作品において、二人のパフォーマーが異性であることが喚起する性的な緊張感は、作品の文脈を良くも悪くも複雑なものとする。村川自身と私的に交わした会話では、彼は、男性である「藤井さん」を想起させるような外見的特徴をなるべく欠いた存在に演じてもらいたいという意味で、女性を指定した――すなわち、自然的な類似性を切断する異化効果を狙った――と説明していた。本稿では基本的にこの説明をそのまま受け取り、この問題については深くは論じない。

5 そもそも、上述のような口頭五十音表的なコミュニケーションにおいて、介助者が、「藤井さん」の言おうとしていることに関して、決して先読み的な推測によるやり取りの省略を行おうとしないことに注意すべきである。上の例で、「ふれんち」まで分かった時点で「フレンチトースト」と解しているのはむしろ例外的である。同様の省略はもう一度だけ、ホームセンターの「コーナン」に関して、「こおな」まで確認した時点で行われる。こうした先行的な了解による省略の回避には、「藤井さん」の発話行為に対する介助者の敬意を読み取ることができる(上の二つの例外が、いずれも名詞単体に関わるものであり、「文」として「藤井さん」という主体に固有に結びつく度合いが弱いものであることに注目してほしい)。

6 もちろん、そうした行為可能性の絶対的な外においてさえ、人は舞台に立とうと意志することはできるであろうし、そうした身体にも固有の運動があり、それはまた固有に見られることの権利を備えたものであるはずではある。ともあれ、ここでは、そうした身体の持ち主それ自身ではない者が、そうした身体に対して舞台芸術としてどのように関わりうるかということを問題にしている。なお、いうまでもなく、「そうした身体の持ち主それ自身ではない者」とは、「そうした身体に対する当事者ではない者」とイコールではない。

7 さらにいえば、この台詞の発語はまた、不動の身体と化した彼女にとって唯一可能な能動性の行使であり、それはまた却って彼女及び観客たちに、「藤井さん」の受動性をあらためて意識化するよう促すものでもあるだろう。