<江口正登>
芸術家とは、芸術作品を作る者のことである。これは間違ってはいない定義であるだろうが、一見して思わされる通り、あまりに単純ではある。ここにはたとえば時間の問いが欠けている。芸術作品を作る者である芸術家は、常に芸術家なのか。そうでないとするならば、制作とあまりにかけ離れた営為に携わっているときの彼/女は誰なのか。芸術家と名乗ることがはばかられるほどに、芸術以外の事柄に時間を取られている彼/女は誰なのか。
朝9時~夕方17時まで、ファミリーマート丸萬清瀬店で働いて、 夕方18時~夜23時30分までTOMONY練馬店で働きます。 [中略] アルバイトをしながら作品をつくっています。 アーティストがアルバイトで生活しているのではなく、 ファミマのアルバイト店員が作品をつくっているのだということに気が付きました。 今年、31歳になりました。1
しかしながら、それでは、すべての時間を芸術に割くことのできる状況が実現すれば問題は解決するのか。「アルバイト」ではなく、作品によって生活をすることができるようになることが問題の解決なのであるだろうか。むしろ、問題は芸術と非芸術との間の分割ではないのか。そうした分割を保存したままで、芸術によって「食える」ようになることに、どれほどの意味があるのか。『モチベーション代行』(以下、web上の一部などで流通していたチャーミングな略称を借りて、『モチ代』と表記する)が提起しているのは、こうした問いであると思われる。
ここであらためて、作品の内容を具体的に見てみよう。舞台上に現れるのは、捩子ぴじん、征矢かおる、和田進太郎の三人。征矢は文学座に所属する俳優であり、和田は捩子がアルバイトとして勤務するコンビニエンスストアの同僚アルバイトである。それぞれダンサー及び俳優である捩子と征矢に対し、和田は特に舞台と関わりのある人間ではない(ただし、「漫画家志望」であるという点に、「表現」ということに関して捩子や征矢との接点も求めうる。これについては最後に述べる)。すなわち、征矢と和田とは、いわば芸術と非芸術という、二つの異質な審級をそれぞれ代表するものとしてここに召喚されている 2。
ジャンルの区分自体は重要な問題ではないが、ともあれ『モチ代』はいわゆる演劇でもダンスでもない。明確に虚構のものと位置づけうるような物語や状況、人物を再現することを旨とした演技――マイケル・カービィのいう「マトリックス化されたパフォーマンス」3 ――が行われるわけではないという意味で、いわゆる演劇ではないし、身体とその動作が、明確にそれと分かるような仕方で組織的に提示されているわけではないという意味で、いわゆるダンスでもない。代わりに、『モチ代』のパフォーマーたちは彼/女ら自身の現実の属性(と仮定することが妥当なもの)を負ったままに舞台上に出現し、自身の現実の状況に対して言及を行う。4 その言及の対象は、コンビニのアルバイトで生計を立てながら作品制作を続けていること(捩子)であったり、母の自死と夫との離婚という重大事を伴いながら人生の半分を俳優業に費やしてきたこと(征矢)であったり、漫画家を志しつつ重大な決断を留保しながら日々をすごしていること(和田)であったり、あるいはまた、youtubeに動画がアップされ、インターネット上などで話題となった、福島第一原発の「指差し作業員」によるパフォーマンスのことなどであり、また、その言及行為は、パフォーマーとしての技術的な熟練を必ずしも必須としてはいないと思われる仕方――もちろん、舞台に立つことを常としている捩子・征矢と「素人」である和田の間には、その洗練の度合いにおいて実際のところ大きな隔たりがありはするのだが――でなされるのである。
こうした明確な虚構性の排除と、パフォーマーとしての技術的熟練の不必要とは、一見したところ、たとえば「ドキュメンタリー演劇」の名で知られるリミニ・プロトコル(以下、RPと略記)のようなカンパニーの作風と近似しているようにも思われる。これらを比較してみることは、『モチ代』の企図を明らかにする上で有益だろう。
RPの作品には、確かに職業的な俳優としての訓練を受けたことのないパフォーマー達が出演する。しかしながら、彼/女らは「素人」なのではない。むしろその逆に、彼/女らは「専門家」なのである。
早くから、RPは彼/女らの作品のパフォーマーたちのために「専門家experts」という言葉を作り出してきた。特定の経験、知識の分野、技術の専門家ということである。「専門家」は、アマチュア演劇という観念に対し、自覚的に敵対している。舞台に乗せられる人々は、彼/女らができないこと(すなわち、演技)によってではなく、むしろ、特別な能力と素養によって判断されるべきであり、それらが、彼/女らの舞台上における存在を正当化するのである。[中略]パフォーマーたちが、舞台に持ち込むための大変な物語を経験していることすらも、必ずしも重要ではない。パフォーマーをプロジェクトにとって価値あるものとするのは、しばしば、比較的ぱっとしない伝記的あるいは職業的な知識の一部、専門家の社会的機能、あるいは、彼もしくは彼女が持っていた特定の関係といったものなのである。5
RPのパフォーマーたちは、技術を否定するために舞台にいるのではない。RPの作品における舞台は、依然として技術が提示されるための場所である。ただ、それが伝統的・慣習的に求められてきたそれ――すなわち、演技の技術――から、別種の技術へと変容しているというわけである。
だが、『モチ代』における非職業俳優=和田は、そうした専門家として舞台にいるわけではない。もちろん、彼は一定のキャリアを持つコンビニ・スタッフであるし、コンビニエンス・ストア業が、(そうした誤解がしばしば見られると思うが)専門的熟練というものが――必須かどうかはともかく――全く発生する余地のない仕事であるというわけでもないだろう。しかし、いずれにせよ、『モチ代』におけるコンビニ業務は、それによって観客の関心を引き付けうる、顕示すべき主題として舞台に召喚されているわけではないのだ。コンビニ業務の事実としての専門性とは別に、『モチ代』の舞台に乗せられるのはたとえば、店頭で販売するためのポテトやチキンをフライヤーと呼ばれる調理具で揚げるといった行為である。パフォーマー=コンビニ店員に要求されるのはただ、冷凍された食材を、油をたたえたフライヤーの中に放り込み、タイマーをセットすること、そして、出来上がったポテトやチキンを引き上げて販売用の容器へと移し変えることだけである。これは、およそ専門的技能というには及ばないものであるし、また、情報価値を備えた専門的知識に属することでもない(フライヤーの作業は、コンビニ店員だけしか知ることのできないプロセスではないだろう)。つまり、『モチ代』における和田とコンビニ業務とは、RPの方法とは異なり、「舞台に乗せるに足る」とされる正当性を根本的に欠いているのだ。というよりも、そもそも、「舞台に乗せるに足る/足らない」といった価値判断を宙吊りにするためにこそ彼らはそこにある。そして、そうした宙吊りを行うことによって『モチ代』は、芸術/非芸術という分割自体の再審を試みているのである。
しかしながら、芸術/非芸術の分割を再審に付す、ということは、その分割を排するということと同義ではない。『モチ代』の最後近くの場面において、捩子は、日々の労働に追われる中で、ささやかな慰安によって作品制作のモチベーションが拡散されてしまうことについて語っている。当初の目的としては、コンビニについての作品をつくるためのリサーチとして、勤務時間を一日13時間半にまで拡充したのだが、その結果、当然のことながら作品制作に充てる余裕をまったく失ってしまい、しかしながら「帰宅したら、深夜一時ぐらいで、それからビール飲んだり、ツイッターのチェックしたり、それで、次は朝起きたらまた仕事で、その繰り返し。休みの日はずーっと寝ている」というその生活に不思議と満足してしまったと捩子は語りつつ、同時にそれを、満足してしまえるからこそ、危険だと思ったとも述べる。非芸術への従事の中で拡散されてしまうにしても、芸術へのモチベーションがそれで完全に代行しつくされることはない。では、そこでの芸術と非芸術の差異を、あらためてどのように定位すればよいのか。
上述の捩子の述懐に続く『モチ代』の最後の場面では、捩子、征矢、和田の三人が、コンビニ業務で定型句として発される「いらっしゃいませ、こんにちはー」、「Tポイントカードはお持ちですか?」といったフレーズを、舞台上にて実演してみせる。これは、毎日9時間をリハーサルに費やすというとある舞踊団の話を友人から聞いた捩子が、自らが毎日従事している13時間半のコンビニ労働をリハーサルと看做すならば、自分の方がよほど稽古しているだろうと思い当たった、ということからなされている。ここでの捩子の論理を細かく検討してみよう。
まずここでは、ある意味において、行為の質的な差異が消去されてしまっている。コンビニ労働と舞踊のリハーサルとの質的な差異が消去されることにより、それは、単なる量的な多寡の問題として把握し直される(ここにはたとえば、時間給アルバイトという労働形式自体を支える論理でもある、労働価値説のアプロプリエーションという批評を読み込むことも可能であるだろう)。しかしながら、こうした質の量への還元という操作が、実際のところ何によって可能になっているのかということを問わなければならない。13時間半の労働がそのまま稽古であったというためには、その稽古の成果の発表の場――この『モチ代』の最終場面がまさにそれであるわけなのだが――というものが要請される。つまり、「成果の発表」という行為を通して、遡及的に、日々の労働が稽古のプロセスとして再定位されるのであり、それがなされなければ、労働は、単に労働のままであるはずである。であるならば、結局のところここでは、「成果の発表」=「上演の場」という美的なフレームの内に回収することによって、日々の労働の救済がなされている――またその意味で、芸術/非芸術の分割が維持され、しかも前者によって後者が救済されるという位階的な構造すらも維持されていることになるのではないか。
しかし、問題はさらに入り組んでもいる。美的なフレームの適用は、自動的に成功の保証された作業ではない。つまり、コンビニ業務を舞台において提示してみせることは、決してその美的な効果が保証された振舞いではないし、そうすることの必然性も、いうまでもなく、所与のものではない。所与のものではない必然性を、自らの内部において調達するということに、確かに『モチ代』という作品は成功しているといえる。もちろん、これではいまだ問題提起に留まるものではないのかという批判はありうるだろうが、回答の提出によって決着をつけてしまわずに、問いを開き続けるという作品のあり方を示しているということまで含めて、『モチ代』という作品は評価されるべきではないだろうか6。
最後にもう一点触れておきたい問題がある。和田の漫画にまつわるものである。先に私は、征矢と和田とが、芸術と非芸術という審級をそれぞれに代表していると書いた。しかしながら、そのようにみなすならば、和田が漫画家志望であるという事実をどう考えるか、という問題が出てくる。漫画に携わっているという点で、舞台芸術とはジャンルは異なれど、和田は捩子や征矢と同じく表現に関心を持った存在である。「征矢‐芸術/和田‐非芸術」といった定式は実は、和田の漫画に対する関心をネグレクトしなければ成り立たない。
もちろん、この定式自体はここで私が読解のために設定したものであり、作品の中に直接的に書き込まれているものではない。しかしながら、実際のところ『モチ代』の作中においても、和田の漫画に対する関心は、ネグレクトされているとまではいわずとも、大きな顧慮を与えられていない、ある種の「余技」のようなものと看做されているのではないか、という印象を受けるのである。たとえば、現在26歳である和田に対し、捩子が、「31歳の和田」の立場からダメ出しを行う、という場面がある。この場面を通じて浮かび上がる和田の人物像は、漫画家になることを志しつつも、それに対して本気で切迫して取り組むことなく、日々のアルバイトに漠然と埋没しつつ時を過ごしてしまう、いわば典型的なモラトリアム青年といったものである。もちろん、これが実際の和田の人物像と一致している可能性もあるだろうし、そうした和田のモラトリアム性に対して捩子が、息苦しくなりすぎないかたちで、しかしシビアさを失わずにダメ出しを発するところは、それ自体この作品の上品さと誠実さの最も美しい現われの一つ――決断や作業を先延ばしにする和田に対し、捩子=31歳の和田が、すべて「明日やって」と諭す様はすばらしく微笑ましい――として評価できる。それでもなお、こうした構図の内に和田の漫画志向を押し込めてしまうことによって、それ(和田の漫画)に対して喚起されうる観客及び捩子自身の関心を『モチ代』は巧妙に消去してしまっているのではないかという疑念は残る。
しかしながら、和田の漫画志向を正面から取り沙汰し、是であれ非であれそれに対する捩子の態度を明確にすることが問題であったとも言い切れない。『モチ代』という作品の根底には、ある友情があると私は感じる。少なくとも舞台に関しては全くの「素人」である和田に出演を許諾してもらえたこともそうであるし、本公演のパブリシティのために、事前にweb上で発表された告知映像に(和田とはまた別の)捩子のバイト先の同僚や、その店長が出演していることもそうだ。そこでは、芸術の論理と非芸術の論理といったものが、正面から突き合わされるのではなく、むしろ、捩子と同僚たち双方のパーソナリティの折り合わせから生じる友情によって、両者が架橋されている。こうした架橋の仕方は、決して単に「曖昧」と難じられるべきものではないだろう。告知動画の中で、舞踏のイメージをめぐって交わされる、捩子と同僚との微妙に、しかし決定的な食い違いを感じさせるやり取り。この食い違いを浮き立たせることに、恐らく技術は要されないし、それが取り立てて生産的なものとなることもないだろう。むしろ、この齟齬を、芸術にも非芸術にも回収しきれない――というより、属しきれない――人格的な交流によって、論理の貫徹という視点からすれば曖昧ともされる仕方で、その都度縫合していくこと、また縫合し損ねること。和田の漫画業に対する相対的な軽視も、そうした交渉の中で選び取られたものと解すべきなのかもしれない。したがって、そうした交渉や縫合が都度のものでしかあり得ないという意味において、『モチ代』という作品もまた、決定的に暫時的なものである。ささやかな縫合と、その失敗による齟齬のささやかな拡大とを繰り返しながら、芸術/非芸術の了解と軋轢の無数の様態を丁寧に描き出し続けること。そうした継続的なプロジェクトとしてのあり方を、『モチ代』という作品は提示していたのではないだろうか。
1 捩子ぴじん氏より提供していただいた『モチベーション代行』上演台本から引用。以下も、作中の台詞の引用は同テキストに拠る。
2 ここでは踏み込んで論じることはできないが、こうした構造は、先日東池袋あうるすぽっとにて上演された、あうるすぽっとプロデュース『家電のように解り合えない』(作・演出/岡田利規)とも通じるものがある。劇作家・演出家である岡田と、ダンサーの森山開次、美術家の金氏徹平がコラボレートした同作においては、演劇とダンス、あるいは岡田のカンパニーであるチェルフィッチュに特徴的な「ゆるい身体」と、森山のソリッドに鍛え抜かれた身体という、二つの異質なジャンル/身体が批評的に併置されていた。もちろん、二つの芸術形式、二つの芸術的な身体の「解り合えなさ」を扱った同作と、芸術と非芸術の関係を問う『モチ代』とでは、問題の設定の仕方に違いはある。しかしながら、異質なものの間の了解の(不)可能性に関わる問いを扱っているということ、また、そうした問いが芸術の自己反省性に関係付けられているということ、さらに、そうした内省のプロセスそれ自体が上演されているということについて、両者の間には強い類似があると思われる。
3 マイケル・カービィ「新しい演劇」『表象』第四号,木村覚訳,2010.115‐137.;Michael Kirby, "Acting and Not-Acting," A Formalist Theatre (Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1987) 3-20.
4 とはいえ、彼らはいわゆる「素」の状態で舞台に立っているわけでもない。そこで語られる言葉は、基本的には、ごく大まかな枠組みだけ与えられており、実際に発語される文言はその場の裁量に任されているだろうと思われるものが多い――中には、明確に暗記され、リハーサルを伴っているだろうと思われるものもある――が、いずれにせよ、完全な即興に任せられている部分はほぼないと思われる。
5 Florian Malzacher, "The Scripted Realities of Rimini Protokoll," Dramaturgy of the Real on the World Stage, Carol Martin Ed. (Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2010) 81.
6 事実、ラストの場面はほぼ毎回変更が加えられたという。私自身が目にしたのは、10月27日19時半の回と10月29日18時の回のニ公演であるが、この両者の間にも既に差異がある。本稿中の記述は、基本的に、前者の方の演出に拠っている。後者においては、「いらっしゃいませ、こんにちはー」の実演に被せて、あらかじめ録音された捩子のモノローグが流された。モノローグの内容は、翌年別府に移住する予定の捩子が、「別府に行ったら温泉を掘ろうと思うので、うまく掘り当てることができればみんなに遊びに来てほしい」といったものである。さらに、最終日である10月30日15時の回の上演では、より決定的な変更が加えられたということも、捩子本人を含め複数の人から聞いた。作品解釈の根本的なポイントにまで関わりうる、こうした演出の可変性は、ある意味「決定版」として作品を完結させることの回避とも考えざるを得ないが、むしろここでは、そうした開かれを捩子が積極的に希求したものとして肯定的に評価したい。この点に関していえば、twitter上での感想などを、捩子自身がwebサービスを利用して積極的に集約したり、本作の劇評執筆を希望する者に対して、自ら積極的に資料の提供を名乗り出ていたことなども指摘しておくべきだろう。