フェスティバル/トーキョー16から発行を開始したF/T Focusは、プログラムをめぐるさまざまなトピックスを発行してきた。つくり手と観客をつなぐメディアとして、その魅力を発信することを目指してきたが、その役目は果たせたのか?また、そもそも、現在の舞台芸術を取りまくメディアは、どのような環境にあるのか?第10回となる次回を迎えるにあたって、F/T16を軸に、舞台芸術のメディアや批評、言論の巡る批評とドキュメントについて、改めて考えてみた。

 

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島貫泰介・山崎健太対談

― 昨年のF/T16で、お二人の印象に残った作品は?

島貫 僕はパク・グニョンさんの『哀れ、兵士』です。ご本人にインタビューする機会があったことも大きいのですが、日本と韓国が共有する歴史の問題と、先進国と呼ばれる国々で起こりつつある経済格差やグローバリゼーションに対する大衆的な反動という普遍的な問題を同時に扱っていることに好感を持ちました。

山崎 俺もすごく面白かったです。でもF/Tの「先端的な芸術作品を見せる」というイメージとは、けっこうかけ離れた作品でしたよね。そのせいか、自分が観た回はけっこう空席が目立ちました。

島貫 『哀れ、兵士』は、助成金申請時に政府機関から検閲的な介入があったことで話題になった作品で、韓国では全公演ソールドアウト。追加公演も緊急で決まったぐらい反響があったようなので、日本での反応はちょっと寂しい感じですね。
作品自体はド直球な演劇で、F/Tの先進的なイメージからするとかなりオーセンティックにも見えました。そういう意味でF/T内での立ち位置の難しい作品だったかもしれないですが、お隣の韓国で、現在進行形で起きている状況を日本国内で共有できる機会を提供したという意味で、とても意義のある作品だったと思っています。

 

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F/T16 パク・グニョン×南山芸術センター『哀れ、兵士』
作・演出: パク・グニョン (劇団コルモッキル)

山崎 周辺状況については当日パンフレットでも情報が提供されていましたが、会場に足を運ぶことができなかった「観客」のことを考えると、『F/Tドキュメント』が刊行されなくなってしまったのはやはり残念です。

島貫 相馬千秋さんがディレクターだった頃って、フェスティバルを運営・制作する側が、自ら批評も発信するんだという気概がありましたよね。言ってみればそれは自作自演のようなものではあるのだけれど、例えばリミニ・プロトコルの『100%トーキョー』に対する、東浩紀さんの批判的なレビューもきちんと掲載していて素晴らしいなと思いました。どのジャンルでも「批評を書く場所がない」と嘆かれてますが、結局それは意識的な誰かが場を作って、書くしかない。一定の良識と矜持があれば自作自演もアリだと思うんですよね。

山崎 あの分量で読ませる媒体は貴重ですよね。面白かった。

島貫 話がずれてしまうんですが、僕はもともと現代美術のライター/編集者として仕事を始めて、いろんな縁に導かれるように舞台芸術についてもインタビューしたり文章を書くようになりました。それは偶然ではなく意識的な選択で、率直に言うと「人」が理由なんですよ。現代美術の世界では、アーティスト、キュレーター、批評家などの総体がシーンを形成していると思われがちですが、深い交流は必ずしも多くなく、基本的にアーティストは孤独です。
しかし舞台芸術の現場では、アーティストに相当する演出家が他のスタッフと意思を共有して、時間的な制約、経済的な制約なんかも共有して、作品を作っていきます。その現場では、構造的にほぼ誰もが渦中に飲み込まれざるをえないから、結果的にみんなが当事者になる。当事者性を感じられるから演劇やダンスに関わっているところがある。

山崎 俺の立場は基本的に島貫さんと真逆かもしれない。批評を書く倫理として、内部にコミットするべきではないという思いがかなり強くある。もちろん、年々演劇関係の知り合いが増えていくなかで否応なく内部に取り込まれている現実はあるんですけど、それでもやはり人間関係から切り離されたところで批評は担保されるべきです。

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ー お二人は誰に向けて批評を発信するイメージをお持ちですか?

山崎 基本的には観客です。2005年から演劇に興味を持つようになって、こまばアゴラ劇場でやっていたチェルフィッチュの『目的地』を観に行ったんですよ。ちょうど『三月の5日間』が岸田戯曲賞をとって話題になっていたから観に行ったんですけど、自分にはわからなかった。それで批評を読んでみたんだけど、漠然と褒めているだけのものが大半でムカつきました。俺にも面白がらせろ!って(笑) それが批評を始めるきっかけだったから、基本的に常に観客に向けて書きたいんです。

島貫 もちろん僕も未知の読者に向けているところはあるんですが、ライター、ジャーナリストという職業上、それは基本的な前提です。じゃあ「それ以外の誰に向けて?」となると、究極的には自分自身に対して書いているんだと思います。作品を見て、自分の中で引っかかったものを考えて、明らかにしていくのが動力源になっている。

山崎 たしかに書いている最中は、書くこと自体が面白くなりますよね。あと、付け加えると、作品を見て「面白い」と思った人に向けて書いてはいないです。むしろ見たけど面白くなかった人、そもそも作品を見られなかった人に、批評を介して何らかの回路を開くことが批評の働きだと思っています。
もちろん前提として、文章を読む習慣がない人も存在します。本当に届けたい、届けるべきなのはそこだったりするから難しい。言葉だけでどう広げていけるかは、常々考えていることです。

島貫 山崎さんが昨年のF/Tで気になった作品はどれですか?

山崎 ダントツで、マレビトの会『福島を上演する』です。演劇の研究者としてはベケットの研究をしてるんですが、ベケットの短編演劇の多くでは「語られるフィクション」と「舞台上の現実」の類似や対比が重要な役割を果たします。『福島を上演する』でも、表象される「現実」、つまりはフィクションと、観客の目の前にある現実との間に生じるあからさまなズレが面白かった。
これは演劇にも、演劇以外にも関わる根底的な問いですが、人は絶対に自分以外の人にはなれないですよね。しかしそれを演劇でやってみることによって何が起きるのか、想像力をどのように働かせることが可能かをこの作品は問おうとしている。限りない遠さこそがまずは前提としてあります。
島貫 マレビトの会や松田正隆さんの作品をそんなに観てないので、他はどうなのかわからないんですけど、福島が主題になっていることよりも、やたら色っぽい話が出てくるのが気になりました(笑)。旅館の女将さんが浮気しているとか、たまたま日帰り温泉で出会った男女がいい感じになるとか。

山崎 福島を取材して、その内容に基づいて書いた戯曲を上演するということだけが前提として用意されていて、だからそこにはもちろん、東京の人が考える福島とは別のイメージも立ち上がってくる。その意味でタイトルはややミスリーディングにも思えます。2016年に「福島」と言われると、やはりどうしても震災後の話として受け取ってしまう。だからこそあえてなのかもしれませんが、そのことで誤解を招いた部分も大きいと感じました。

島貫 プロジェクトに写真家の笹岡啓子さんが関わっていますが、作品自体も、写真的だと思いました。写真行為は、あるテーマに沿って撮り進めていくことですが、必ずしも一直線に進むわけではなく、複数の小テーマや意図せず撮れてしまったものが常に並列していて、そこから選択・編集することである文脈が際立ってくるんですね。『福島を上演する』に漂う、ある意味での素っ気なさは、行為としての写真の佇まいに近い。

山崎 観客は様々なレベルで「文脈」を補うことを要請されます。演目内で場面が移り変わるところはモーフィングみたいな感触があって、それは観客の想像力の中でしか出現しえないものだと思うんです。オムニバス形式の上演ですが、作品間の移り変わりが明示されないのも面白かった。

島貫 観客受容の多様さ、読みの可能性の観客への移譲がキーになっている。それは『哀れ、兵士』と真逆に感じます。あらゆる演出、あらゆる演技に意味があり、それ以外の答えの余地がないような、声の強さが『哀れ〜』にはあった。一方、『福島を〜』は、いろんな陥没が随所にあり、空疎な構造体であることをあえて選んでいる。

山崎 先日、今年秋の上演に向けての試演会を観に行ったのですが、直接的な震災への言及も多く、2016年の上演とはずいぶん印象が違いました。取材対象の地域が違っているということだったらしいですが、そのことがどういう違いをもたらすのかについてはもう少し考えたい。
現時点での自分の『福島を上演する』への最大の関心は、やはり「ずらし」のテクニックで、あらゆる「ずらし」のバリエーションが試されていたことに興奮しました。例えば、人だと思ったら自動販売機だった、とか。

島貫 俳優の一人がペッパー(Softbankのロボット)を演じたりしてましたよね。しかも巧い。あれはインパクトありました(笑)。

山崎 それは技巧上の問題であると同時に『福島を上演する』ことの核となる問題意識でもあると思います。試演会ではそういった技巧上の実験がそれほど前景化していなかったので、今後どうなっていくのか注目しています。

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F/T16 マレビトの会 『福島を上演する』
作・演出: マレビトの会

島貫 山崎さんは岸田國士戯曲賞の発表時期に合わせて、戯曲を読んで受賞作を予測するイベントをやってるじゃないですか。僕は戯曲を熟読するという習慣がないのですが、今観れるどの作品を観ても思うのは、戯曲だけを切り取って何かを論じたりジャッジすることは無理だろう、ということです。もちろん、前回受賞した植田誠さんの『来てけつかるべき新世界』は戯曲を読むだけでも面白いし、その前年のタニノクロウさんの『地獄谷温泉 無明ノ宿』は、地方と都市の非対称な関係を反転させるような、過去が未来を糾弾するような、ある種の禍々しい意志の力が戯曲に既に記されている。でも、そういった作品はかなり稀なんじゃないかと思います。つまり、一種の譜面として記された戯曲、それを執り行う場の関係は切り離せない。演劇における「作品」の定義から考えるべき状況が、現に目の前にあると思うんです。もちろんそれは古代からずっと行われてきたことでしょうけれど。

山崎 戯曲を作品として読むときはそう割り切って読んでいますが、基本的には「上演として提供されたもの」を作品だと思っています。

島貫 つまり作品ごとに、可塑的に作品の定義が変動する。

山崎 そうです。便宜上、作品が実現していることを固有名を使って作者の意図として説明することもありますけど、それも本来的には架空のものです。

島貫 山崎さんは、最近批評誌の『紙背』を刊行しましたね。批評そのものや、取り巻く環境への問題意識があるんでしょうか?

山崎 「批評を書く場がない」ことが最大の不満で、それで自分のメディアとして一年間出してみようと思ったんです。演劇は後から作品そのものを見ることは不可能だから、批評に加えて、せめて戯曲を一緒に載せることで検証可能性を広げたかったということもある。「書く場がない」と言いましたが、そもそもちゃんと批評を書ける人がわずかしかいないという問題もあって、その一因に演劇批評は妥当性が検討しづらいということがあると思っています。Twitterの評判だけが残るような状況を変えていきたい。ある程度まとまった文章を通して、作品それ自体についての言説を丁寧に残していきたいと思っています。最終的には、作品を「ちゃんと」観て、建設的な議論ができる環境が生まれる、というか、普通になるといい。「面白かった、はい次」ではなくて。

島貫 現在の演劇に批評はないんでしょうか? 佐々木敦さんは紙媒体、Twitterも含めて継続的に批評を書いているし、どちからというとジャーナリズム寄りですが、徳永京子さんや藤原ちからさんが積極的に書いてますよね。内野儀さん、鴻英良さん、桜井圭介さん、岩城京子さんと、30代より上の書き手はかなり充実しているような。椹木野衣さん、松井みどりさんのように、アートの側から演劇について論じる書き手も少なからずいます。

山崎 俺がはじめて「ここに批評があった」と思ったのは佐々木さんの『即興の解体』です。チェルフィッチュについてあのボリュームで書いた人は他にいなかった。でも、徳永さんと藤原さんを含めてその3人しかいないじゃん、というのも正直なところで。アカデミズムの方々の仕事はもちろん尊敬はしていますが、もっと普通の観客に届く言葉があってほしいし、作り手側のことを言えば、若手の方が言葉を必要とする度合いは高いように思います。

島貫 たしかに、3人とも出自としてはライター・編集者色が強いです。でも、それも演劇を巡る言葉の環境として豊かだと思うんですよ。アートの場合だと、アーティストになりたいか、批評家になりたいかの二者択一が強くて、ライターやジャーナリスト志望の書き手は少ないし、売文的な書き仕事のトレーニングをしたくないって人が多い。でも、シーンを形成していくためには、書き手ごとの言葉に対する姿勢はもっと多様であるべきだし、広くあるべきです。そういう意味では、ここ10年くらいの演劇における言説は僕にとってはまぶしく見えました。

shimayama3山崎 昨年度、アーツカウンシルの調査員をしていたんですが、年度末に調査員としての経験をもとになんらかの提案をすることが求められるんです。そこでは、批評と舞台映像をセットにしたアーカイブの設置を公共劇場に義務づける、という提案をしました。公的に、上方向から言説を活性化させる流れがあれば、それに対抗する周辺の言説が生まれる余地も出てくる。もちろん本当は、それが自然発生的に起こるのがいいと思いますが、特に舞台芸術は、そもそもチケットが高くて頻繁には買えないわけですよ。そして観ないと批評は書けない。だから若い書き手が出て来ない。

島貫 作品と出会う機会がなければ、知見も、批評したいという欲望も起きないですからね。そういう意味では、TPAMなんかは、Webサイトで登録すれば主催公演を格安で観れるのがありがたい。作品傾向もアジアの若いアーティストを積極的に紹介するから、出会いの場としても優れている。

山崎 F/Tも「学生だったら1万円で見放題」という限定チケットがありましたよね。復活してほしい。

島貫 そうやって、出会いのチャンスや回路が多くあればあるほど、新しい作家や批評が芽生えると思うんです。「批評がない」という話に並置するような内容ですが、「演劇関係の本は売れない」っていうジンクスがどうも出版界にはあるんですよ。たしかに純粋に演劇の読者だけを対象にしても厳しいでしょうけれど、現代美術だとか社会学だとか、いろんな切り口で演劇を見ることはできるし、その内にある発展性を考えることは刺激的だと思うんですね。実際、チェルフィッチュやPort Bの高山明さんのように、演劇外の問題意識と通底する作家は多くいる。僕が、基本的にアートの側の書き手として振舞いつつ、同じくらいの量で舞台芸術の仕事に携わっているのは、その2つの領域を行き来して作品を見ることが、両方の観客にとっても作家にとっても意味のあること、そして何より楽しいことだという確信があるから。もちろん自分自身も大いに刺激されますし。

山崎 演劇とアートとの大きな違いはやはり、後から作品に触れられないことだと思います。それを補うためにも、作品の動画はどんどん公開してほしい。同時に、ヨーロッパ的なレパートリー制度が整備されれば、作る側の負担も減って、見る側も作品を見る機会に恵まれる。日本にそのまま導入するのが難しいのはわかっているんですけど、日替わりとまではいかなくても、数年に一度単位でも再演するようになってくれたら。実際、制作体制がある程度整っている劇団では積極的に再演を劇団の活動に組み込んでいるところも多いです。

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島貫 観客を育てることにもなるし、僕らのような書き手や、アーティスト自身が学ぶ機会にもなりますからね。シーンを持続するためには、持続的な経済活動が必要で、それは演劇に関わる全員で取り組むべき大きな課題です。しかし、日本の芸術文化に残された時間は限られているという予感がどうしても払拭できない。今はとにかく2020年の東京オリンピックに向けてすべてが進んでいますが、オリンピックは明確な時代の切断点で、その後により豊かな日本がやって来るとは誰も思ってないですよね。「すべてが総崩れする」とまでネガティブなことは言わないけれど、プラザ合意の影響で起こったバブルの隆盛と崩壊以降、ずっと緩やかな停滞を日本は辿っている。それを緩和する、あるいは違う価値観、経済圏を立ち上げようと思うなら、この数年の間の種まきは本当に大切。それは「オリンピック以降の、2030年を見据えて文化行政を考える」的なものとは、まったく違う、決別的な性質のものだと思います。

山崎 作品が物として売買できる美術は、大なり小なり景気の影響を受けやすいと思うのですが、演劇ではそういう意味でのバブルは起きないでしょう。もちろん助成金の問題はありますが。

島貫 それは感じますね。すぐに社会状況に狂乱する美術に対して、演劇はどこかで正気を保つことができるというか。もちろん表現として狂っているものはたくさんありますけど、メタ概念としての演劇は常に正気、というか(笑)。
ー F/T、ひいては広義のフェスティバルに期待することはなんでしょうか?

島貫 演劇祭、あるいは芸術祭って、それ自体がひとつのメディアだと思います。作品だけではなくて、シンポジウム、パンフレット、あるいは飲食できる出店まで含めて、全体がかたちづくられる。時間感覚的にも、劇場に行って、作品を見て帰る、ではなくて、1〜2ヶ月くらいの中期的な帯のなかで、様々な作品、様々な体験が連続性を持つことができる。言い換えると、ある文脈によって、場と時間が長期的に支配される性質を持つということ。例えばF/T13の『東京ヘテロトピア』は、チケット制ではあったけれど、開催期間中はほぼいつでもアクセスすることができましたよね。仕事をしていても、眠っていても、そういった個人的な時間の外で作品は今も続いているのだという感覚は、僕にとってかなり新鮮でした。そうやって作品以外の要素によって人の体験を活性化できるのはフェスティバルならではです。

山崎 相馬千秋さん体制のF/Tは、ディレクションを強く感じました。今のF/Tでも優れた作品は多く見れるけれど、体験としては「いい作品をいっぱい見たな」という感じで、フェスティバルとしての体感は薄い。

島貫 そうなんですよね。前回のF/T16はなんとなく方向性を感じましたが、その前はかなり曖昧でした。現状、国際演劇祭の性質は、どの国のアーティスト、演目を呼んでくるかによって規定される傾向が強いと思うのですが、それは未だに自身の文脈形成を外国に委ねているということだと思います。極論すれば、すべて日本の団体・劇団・アーティストで編成してもらっても構わない。そこに明確な意思がありさえすれば。

山崎 東京芸術祭という枠組みもできたので、2.5次元とか歌舞伎とか、商業的に成立している演劇を批評的に組み込む方向性もありえるかもしれない。相互交流が起こるようなかたちで提供する。

島貫 個人的な想いを言うと、今年3月に亡くなった危口(統之)さんのことをすごく考えてしまいます。本人が建築学科の出身だったこともあって、表現が立ち上がるときの社会性や公共性、土地や場の問題、ある非対称的な関係の生起をずっと考えてきた人だったと僕は思っていて、その問題意識は、社会構造の機軸が大きく変動しつつある、これからの時代にこそ意味を持つ予感がありました。
演劇の枠組みや演劇的手法を使うけれども、実際にそこでやろうとしているのは「物語を語る」ことではなく、思想・概念に関する、変種の社会実験であったのではないか。それは、これまで話してきたようなフェスティバルの意義とも強く関連するものだったと思います。本人は「最後までちゃんとした演劇を作れなかった」と言ってたみたいですが、絶対にそんなことはない、とやっぱり今でも思うんですよね。

 

 

_D3A0216山崎健太(やまざき・けんた)
演劇研究・批評
演劇研究・批評。演劇批評誌『紙背』編集長。「CoRich舞台芸術まつり!2017春」審査員。SFマガジンで『現代日本演劇のSF的諸相』連載。早稲田大学文学研究科表象・メディア論コース博士後期課程在籍。

 

 

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島貫泰介(しまぬき・たいすけ)

美術ライター/編集者。1980年生まれ。『CINRA.NET』、『美術手帖』などで現代美術、演劇などアート&カルチャーの記事執筆・企画編集を行う。

 

 


 

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フェスティバル/トーキョー17開催決定

10回目の開催となるフェスティバル/トーキョー(以下F/T)は、同時代の舞台作品の魅力を多角的に紹介し、舞台芸術の新たな可能性を追求する国内最大級の国際舞台芸術祭です。F/Tでしか出会えない国際共同製作プログラムをはじめ、まちなかで舞台芸術を鑑賞できる作品、若手アーティストと協働する事業、市民参加型イベントなど、多彩なプロジェクトを展開していきます。

【開催概要】

名 称: フェスティバル/トーキョー17   Festival/Tokyo 2017
会 期: 平成29年(2017年)9月30日(土)~11月19日(日)(予定)51日間
会 場: 東京芸術劇場、あうるすぽっと、PARADISE AIRほか

フェスティバル/トーキョー17の情報はこちら→http://www.festival-tokyo.jp/