戯曲を書き、稽古をし、上演する。ごく普通の演劇創造の時間、空間を、松田正隆とマレビトの会は、何食わぬ顔で、なぞりつつ、分解、再構築しようとしている。被曝都市・福島に取材した複数の戯曲の上演を通じ、福島と私たちの過去、現在に思いを馳せる新作『福島を上演する』。4日間4公演、それぞれ異なる上演が繰り広げ、積み上げる、新しい演劇の眺めとは──。ゼロ年代後期からマレビトの会の活動に着目、前作『長崎を上演する』を試演から追い続けてきた音楽家・批評家の桜井圭介と共に、その新しさと真っ当さを紐解こう。
司会・構成:鈴木理映子
ズレながら重なる、言葉・身体・現実
──本作『福島を上演する』は、マレビトの会が2013年から3年間にわたって取り組んだ『長崎を上演する』とコンセプトを同じくする作品です。一つの都市を複数の作家が取材、執筆した戯曲を、何もない空間で上演するという非常にシンプルな取り組みですが、桜井さんはその長崎版を、それをどうご覧になりましたか。
桜井 あれは非常に不思議な、特殊な試みでしたね。コップで水を飲んだり、ステーキを切ったりするんだけど、テーブルもお皿も食べ物もない、完全な無対象。お話はむしろわかりやすいので、語られている内容に比して異様な行為をしているというような感じがして、すごく面白かった。
松田 いわゆる物語があって、俳優がその登場人物を演じる「ドラマ演劇」に対して、いわゆる「ポストドラマ演劇」というか、俳優という「身体」と「語り」とがどんどん離れて、ずれきってしまったのが、2012年のフェスティバル/トーキョーで上演した『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』*でした。俳優たちがただ、立ったまま、かつて演じた劇を想起していて、観客はその姿を眺めるだけ、という。私たちはそこで、見えるもの(身体)と語られること(テキスト、内容)を完全に分離させてしまった。だから今度は、その二つを改めて上演のレベルで統合するにはどうしたらいいのか、私たちなりの方法を模索しようと思ったんです。それで「ドラマ演劇の再考」として『長崎を上演する』というプロジェクトを始めました。「ドラマ演劇」ってもともと、演劇をやる空間と、テキストが描く空間を二重写しにしているようなところがありますよね。例えば、ギリシャ悲劇に出てくるコロスは、登場人物でもありつつ、現実の時間にも軸足をおき、観客に直接語りかけたりもする。その辺りのことを踏まえつつ、僕らが今やろうとしてるのは、空間上の収まり方としては、確かに俳優たちは登場人物としてふるまっている。でも、それと同時に「ここは劇場である」と感じさせるようなものなんだと思います。
マレビトの会 『福島を上演する』
11/17 (木) ─ 11/20 (日)
──たとえば、広島と、そこでの被爆者が多く住む韓国・ハプチョンを扱った『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』(2010)での俳優は、取材やそこで聞き取った過去の出来事の「報告者/コロス」として立っていましたよね。そこから、ふたたび「登場人物」へ回帰したのはなぜですか。
松田 やっぱり、空間と共に俳優を見ようとするとそうなったんだと思います。報告者だと、観客に対して直接的すぎる。言葉でイメージするだけじゃなく、空間と俳優と共にイメージが醸し出されるようにしたい。だから会話劇にこだわったというのもあります。
桜井 『マレビトライブ N市民―緑下家の物語』(2011)や『アンティゴネーへの〜』の第一の上演だって同じ会話劇だったけど、民家や市街地で上演してましたよね。そういうサイトスペシフィックなところから、劇場の、抽象的な空間へ志向を変えていったのはどうしてなんですか。
松田 『長崎を上演する』のときも、最初は「スナックで上演しましょう」みたいなアイデアも出ました。でも、ブラックボックスじゃないとダメなんですよね。要するに、サイトスペシフィックだと、登場人物と空間がうまく分離しないと思ったのかもしれない。収まりがつきすぎてしまう。
桜井 俳優としての立ち方が弱くなる。
松田 そうです。ただ、いろんな工夫の方法はあって、たとえば、そこにはいない人をつくることで、空間をずらすことだってできるかもしれない。
桜井 今回の台本でも天使=非実在の存在が出てきましたね。で、どうやら天使と話している人物も、実はその時間そこにはいないらしい。だから、結局、俳優の存在ってなんなのか、ってことが浮かび上がってくる。
松田 そう。あの話は、結構踏み込んで書きました。だから、「いったいなんなんだ、この人は」っていうふうに見せる装置、上演方法を探しているのかもしれない。今度は、にしすがも創造舎でやるんですけど、僕らはこの前から「にしすがもスラム」ってことを言ってて。要するにあそこは一種の荒廃空間ですよね。元体育館なんだけど、体育館じゃない。といって劇場っぽくもない、中途半端な場所なんです。でもそこに、僕はすごく魅力を感じる。床にはバスケットコートかなにかの線が引いてあるんだけど、それだって隠さずにやりたい。それこそあの場所は、テキストが要請する場所とは違うけど、にもかかわらずそこに俳優たちが立ち、テキストの中を生きようとしているという、相反する事態を起こせるところなんじゃないかと期待しています。
桜井 今回も客席は舞台と相対するんですか。
松田 そうです。僕らの作品の場合は、バーっと奥が見えるように、客席は薄い方がいいと思っていて。4、5列とか。もちろん、そこは、いろんなせめぎ合いのあるところなんですけど(笑)。舞台までの距離、さらにその奥までの遠近感をつくる感じ。遠くでこそこそ喋ってる人がいるな、みたいな見え方が好きなんですよね。
桜井 映画でも?
松田 そう。アンゲロプロスみたいなね。ずーっと向こうのほうで何かやってる。「この人たち何やってんの?」って、見てるとだんだんわかってきたり、またわからなくなったりするのがいいんです。
*『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』は、架空の劇団のメンバーがSNS上および市街地で繰り広げる「第一の上演」と、その上演の記憶を想起する俳優の身体を展示した「第二の上演」で構成された。
「お話」の魅力、テキストの実験
──俳優の立ち方、空間のあり方を探求することは、戯曲の書き方、内容とも、当然関わってきますよね。
桜井 立教で上演した時、演劇部の話でナイフでお腹を切るような場面があったでしょ。無対象演技だからもちろん、ナイフはないんだけど、観客はそこで殺戮が行われていると了解する。ところが、そのくだりがひと段落すると、倒れて、殺されていたはずの人が急に立ち上がって「じゃ、私帰るから」と去っていったんです。あれはビックリしたな-(笑)。結局、その「殺戮」がなんだったのか、無対象演技ゆえに、劇の中の現実で何があったのかよく分からない。あれは宙吊りにされた気分ですごく面白かった。
で、今回の台本も読ませてもらったんですけど、すごく場面が変わるんですよね。それこそ映画的な感じ。これだけの場面転換を、何もない劇場空間でやるのは、結構新しいなと思った。
松田 積極的にそれをやろうってことではなかったんですけどね。
桜井 それとやっぱり、震災や震災後の状況が、ちらほら出てきますね。『長崎を上演する』にも『追悼施設にて』って作品がありましたけど、それだって実際の原爆投下とは時間的にも距離を保っていた。だけど今回は、素材自体が現在進行形の問題だからか、もっとストレートに描かれているように思えます。舞台上のシチュエーションをつくるために題材があるというよりは、題材がドラマの核になっちゃった感じもあった。
松田 「会話劇」を意識すること、それから「福島市内」に身をおくこと。戯曲を書く時の条件はこれだけだったんです。とりあえず福島市を入り口に、そこから第一原発を見る。その距離感をつかむ必要はあると思った。やっぱり、南相馬までいくと近すぎるんです。『長崎を〜』でもそうだったけど、書き手なりの距離感を持つことは重要だと思います。でも、だからといって、必ずしも「さりげなく」描かなくてもいいかなとは思うんですけどね。桜井さんのいうような生々しさがあるとして、それがどのように上演にたどりつくかもまだ分かりませんし。
──確かに今回の戯曲には、『長崎を〜』に比べてドラマティックに書かれたものが多いと感じました。そうしたテキストのたくらみ、書き手のモチベーションは、従来とは異なるテキストと身体の関係を探るこの作品において、どういう意味を持つのでしょう。
桜井 戯曲っていうのはある種の口実で、それを上演することによって立ち現れる身体、空間を観るのが演劇です。ただ、そうはいっても、そこに俳優が立ち、なにがしかの存在を立ち上げた後には、話している内容も観客に届いていくんですよね。今回なら「あぁ、福島の話をしているな」とか、いろいろ考えさせるわけです。僕は、マレビトの会が求めているのは、この二重性だと思う。話されていることと、俳優の身体はあくまでも別々。だけれど、重なってもいるという状態。これは、なかなかないですよね。ドラマ演劇だとやっぱりお話ばかりが頭に入ってくるし、かといってポストドラマ的なアプローチの上演だと、俳優の身体はしっかり見えるけど、「お話関係ないよね?」「ダンスじゃん」ってなる。そういう意味ではやっぱりね、「お話」は大事なんです、最終的には。
──というと、桜井さんは、「お話」の観点からも、マレビトの会の芝居を楽しんでいる?
桜井 僕はむしろ、マレビトを観ながら、「お話」とか、「フリをする」ことが、演劇のいちばんの要かなって考えるようになったのかもしれないとも思います。特に震災前のある時期、チェルフィッチュ的なポストドラマの演劇が、ガーッと増えましたよね。でも、松井周さんのような「お話」のある芝居も面白い。もともと僕が観てきた演劇って、岩松了さんとか宮沢章夫さん、もう少し遡ると唐(十郎)さんだったんですよ。映画でも、ゴダールもいいけどダグラス・サークみたいな昔のメロドラマや小津安二郎が好き。でも、実際にそういう「お話」を舞台にしたものはやっぱり古くさかったり、リアルな身体を感じさせなかったりもする。だから、(戯曲、物語の再現にとどまらない)ポストドラマ的な思考は大事だなと思いつつ、同時に「ドラマ演劇」を再考していくことが必要だ、とある時気がついたんです。その意味でも、『マレビト・ライブ』や『アンティゴネーへの〜』の市街劇は面白かった。「お話」もあって、サイトスペシフィックで。
松田 戯曲「を」上演するんじゃなく、戯曲「と共に」上演すると考えた方がいいと思うんですよね。読めば済むような上演じゃなくて。といって、自分たちでもそういう上演に陥っている時もあって難しいんだけど……。
──ただ、これはそれを引きとどめるようなテキストにもなっていますから。先ほど桜井さんも触れられた、舞台上には登場しない人物の存在、場面転換の多さは、演劇が現実を模倣しきれないこと、テキストの再現とも異なる場であることを如実に物語ると思います。
松田 そうですね。
桜井 松田さんの書いた話に映画を観るシーンが出てくるでしょう。あれって台本には映画館で上映されてる、その架空の映画のセリフが全部書かれてますが、どうするんですか? 音声を流すの?
松田 いやいや。やりますよ。
桜井 『女スパイ危機一髪』、やるんだ!(笑)
松田 まぁ、実際に観たら「あれ、なんだ、これ?」って感じだと思いますけどね。
マレビトの会 『福島を上演する』 作・演出: マレビトの会
複数のドラマが立ち上げる、福島の「いま」に映るのは──
作家・松田正隆の故郷・長崎に取材した『声紋都市-父への手紙』(F/T09春)、韓国人被爆者への取材を題材にした『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』(F/T10)など、未曾有の体験を経た都市の過去と現在を複眼的に捉え、再構築してきたマレビトの会。F/T12で上演された『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』に続き、福島に向き合う本作は、2013年から3年間にわたって、長崎を対象に展開したプロジェクトの延長線上にある。複数の作家が一つの都市を取材し、執筆した戯曲群を、ごくシンプルな空間で上演するその試みは、何気ない日常の風景を「ドラマ」として切り取り、それらの集積を通じて、対象とする都市に固有の時間/歴史を探り出そうとする。震災から5年。4日間4公演にわたる複層的な上演がかたちづくる、福島の「いま」に映し出されるのは──。現実を前にした「ドラマ」の意義をも究める実験が、ふたたび始動する。 →詳細はこちら
会場:にしすがも創造舎
日程:11/17(木) 19:00、11/18(金) 19:00、11/19(土) 15:00、 11/20(日) 15:00 →チケットはこちら
松田正隆(まつだまさたか)
マレビトの会代表。1962年長崎県生まれ。96年『海と日傘』で岸田國士戯曲賞、97年『月の岬』で読売演劇大賞作品賞、98年『夏の砂の上』で読売文学賞受賞。2003年より演劇の可能性を模索する集団「マレビトの会」を結成。主な作品に『cryptograph』(07)、『声紋都市—父への手紙』(09)、写真家笹岡啓子との共同作品『PARK CITY』(09)、『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』(10)、『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』(12)、『長崎を上演する』(13〜16) などがある。立教大学現代心理学部映像身体学科教授。
桜井圭介(さくらいけいすけ)
音楽家・ダンス批評。「吾妻橋ダンスクロッシング」オーガナイザー。
地点の新作『ブレヒト売り』に音楽監督として参加。12月4日〜6日、京都アンダースローにて公演。
鈴木理映子(すずきりえこ)
編集者、ライター。演劇情報誌「シアターガイド」編集長を経て、2009年よりフリー。演劇専門誌、広報誌、公演プログラムでの取材・執筆のほか、『F/Tドキュメント』(F/T09—13)、『ポストドラマ時代の創造力』(白水社)、『<現代演劇>のレッスン』(フィルムアート社)などの編集を担当。青山学院大学「ACL現代演劇批評アーカイブ」(acl-ctca.net)の開設に携わる。