昨年に続き、フェスティバル/トーキョー17で『福島を上演する』を上演する松田正隆(マレビトの会)。29個のエピソードをたった一度だけ上演し、福島の「出来事」を劇場に立ち上げようとするこの試みと並行して、今回、松田は新プロジェクト『実験と対話の劇場 -新しい人/出来事の演劇-』をキュレーションする。 4組の若手演出家・カンパニーが作品を上演し、その直後に公開ディスカッションを行う「実験」と「対話」が並立する同プロジェクトは、いかなる問題意識から立ち上がったものだろうか? 本対談では、松田と旧知の間柄でもある劇作家・平田オリザ(青年団)を招き、両者が考え、実践してきた「演劇」について語り合っていただいた。時間、社会、歴史、対話、教育、問いを投げかけること。遠くない未来に向かう、演劇のアイデンティティーを考える。

(構成・文:鈴木理映子 編集:島貫泰介 撮影:西野正将)

「出来事の演劇」その始まり

松田 今回、平田さんとお話ししたいと思ったのは、F/Tの『福島を上演する』『実験と対話の劇場』を通して僕が提案している「出来事の演劇」と、平田さんと青年団がこれまで創作してきた作品群には、何かかかわりがあるんじゃないかと思ったからなんです。平田さんの仕事については、日本の現代演劇の中でさまざまな語られ方をしているんだけど、今日は僕が考えていることと、それとは繋がりがあるのか、あるいはずれているのか、違う語り方をしているだけなのかというようなことを、平田さん自身に問いかけながら話していけるといいなと思っています。
 まず、「出来事の演劇」とは何かということを言っておくと、それは、目の前で起こったことそのものが、観る者に影響を与える演劇です。観客と共有可能な表象を舞台で伝達するのではなく、それを観る空間や時間の経過自体が経験になっていく演劇を「出来事の演劇」と呼びたい。このことがどう、平田さんと繫がるかというと、僕は、『東京ノート』(1994)でも『S高原から』(1991)でも、青年団の舞台を観ているとすごく「時間」を感じるんです。物語の展開の中での時間ではなく、単純に、今、観ている時間の流れ。全部観るあいだには退屈な時も訪れるんだけど、それらをすべて体験してこそ感じられるものがある。で、それは、平田さんが戯曲の語りをそのまま舞台に置き換えるんじゃなく、あくまでも上演の時間と空間の中に人物を配置して作品をつくっていってたからじゃないかと思ったんです。これは簡単なようで重要なことで。つまり、戯曲に収斂するのでも、演出家の美学をスペクタクルとしてみせるのでもなく、いろんな要素を総合して作品としての「総体」つくる作業もしつつ、宇宙とか生命といったレベルの「全体」にも開いていくようなつくり方がそこでされていたんじゃないかと。

 

平田 そういえば、岸田戯曲賞の選評で、別役実さんが「平田オリザは時間を書いているんじゃないか」と書いてくださったことがありました。『東京ノート』のころ、僕が考えていたのは、まず「主体性を疑う」ということです。つまり、人間は主体的にしゃべっていると同時に、しゃべらされている存在でもあると。西洋近代の演劇は、人間の主体性を盲目的に信頼してきたわけですが、そのアンチとして出てきたアングラや小劇場演劇といったものも、結局はその主体性を肉体とか、別のものにトレースしただけなんじゃないか、個への信頼については、ほとんど変わっていなんじゃないかってことを考え続けていたんです。だから、88年から90年代にかけて、僕がやっていたのは、自分を消すこと。そのための技巧を考えることでした。

松田 自分を消すっていうと?

平田 これは太田省吾さんともよく議論したことだけど、価値観を伝えるための装置として演劇があるわけじゃないってことはみんな同意するんだよね。でも、真・善・美とある価値観のうちの「美」についても撤退できるのかっていう問題があって。真と善についてはもう、それを伝える必要はないだろう。でも、美さえ描かないことが芸術でありうるのか。それで僕は、どうにか、技巧を凝らして、マヌケな空間、ブラックホールみたいなものをつくれないかと考えていたわけです。今も、フランスでワークショップなんかをする時には、「小津安二郎の墓には「無」って書いてあるけど、それはマイナスの概念でも、ミニマリズムでもなくて、技巧を凝らした末の無なんだ、そういうことをやりたい」って話をするんですけどね。もちろん、本当に何もないってことがあり得るのか、それを、お金を払って観てもらっていいのかって問題はあるんだけど。まぁ、お客さんは、座禅を組みに来てるようなものだよね(笑)

松田 「私には美しいもの」っていう言い方は芸術的にはありえないというか、「無」を提示するにしても、普遍性を求めていく部分はありますよね。僕は平田さんの演劇は「座禅」とは違うと思うけど、ただ、表象にとどまるのではない、いったい何を観ているのかわからなくさせるような時間、それ自体に価値観を置いているんだろうと思います。

 


『実験と対話の劇場 - 新しい人 / 出来事の演劇 -』
参加アーティスト:演劇計画・ふらっと、 / シラカン / 関田育子 / 玉城大祐
キュレーション:松田正隆
11月3日(金・祝)~11月5日(日)

時間を描くということ:つくり手はどこにいるのか?

松田 平田さんが舞台をつくるときには、自分自身や観る側の経験も総合しつつ、人間はこういう時にこのくらいの音量で話すみたいなことをかなり具体的にやっていったんですよね。ただ、そういうことは、ともすれば内側に閉じたアンサンブルに回収されてしまいがちです。でも、平田さんの場合はそうはならなかった。

平田 当時は認知心理、アフォーダンスの研究者なんかとも一緒に研究をしていて、書く段階でも、演出する段階でもそのせりふが何によって導き出されているのかということをずっと考えていました。それは位置だったり、時間であったりはしたんですけど……いわゆる、従来の論理や心理とは異なるものなんですよ。

松田 ベルクソンの砂糖水の話ってあるじゃない。水と砂糖があって、それをスプーンでかき混ぜると砂糖水ができあがり、というふうに考えると、それは統合であり、できたものは「総体」でしかない。でも、水が砂糖水になるまで待つ、そこに変化の時間がある、というのはアプリオリ(超越的)なことですよね。それが「全体」というか、宇宙とつながるということだと思う。で、そういう演劇っていうのは、今、あまりないと思うんです。

平田 時間の話をするとね、今年の夏もテレビでは、七三一部隊だとかインパール作戦だとか、太平洋戦争の特集がいろいろと組まれたでしょう。もちろん、「真実を暴く」というのは大事な取り組みだし、テレビにはそういうものが向いていると思う。でも、たとえば植民地支配の悪って、もっとダラっとしているんですよね。その間にも普通の生活は営まれ、子供が生まれたりしている。『ソウル市民』(1989/日韓併合前夜のソウルに住む日本人家族を描く)を書いた時、もう自分の作劇法を確立はしてた時期だったけど、「あ、このやり方は、こういうことを書くためにあったんだ」と思いました。要するに僕は、インパクトのある事件ではなく、だらっとした時間自体が、人間や社会の構造を変えてしまうということ、また、その時間は、ずーっと後にも続いていくんだということを描きたかった。だけど、演劇って空間も時間も切り取らざるをえないじゃないですか。ましてや、ある劇場の決まった空間の中にそれを捻じ込まなくちゃいけない。それを観客の想像力で乗り越え、思っている以上に長い時間や広い空間を感じさせる方法を、そこで発見したという気がするんです。

『ソウル市民』(2006年)©青木 司

松田 劇場というのは建築物だから、そこにはむき出しの空間と時間があるはずなんだよね。平田さんはそこに注目してたんじゃないのかな。つまり、そこにはもともと「全体」に開く空間と時間があって、それが『ソウル市民』で描こうとした植民地を生成していく時間に関する考え方と親和性を持ったんだと思う。だけど、たとえば震災とか原爆とか、あるいは植民地支配の暴力を描こうとすると、どうしても一種崇高な、われわれの価値観をガラッと変えてしまうようなものに惹かれてしまうことはよくありますよね。不快なものがむしろ快になるというかさ。青年団の活動は、そういうところにも踏み込んでいると僕は思っていて、最初の真善美の話もそうだけど、快さえも見せない。で、快か不快かもわからないような状況に惹かれていくところがある。

平田 それは『東京ノート』や『S高原から』でも言えることだと思います。でね、そういう視点が、今の日本の演劇人には欠如していると思うの。松田さんも『HIROSHIMA-HAPCHEON』(2010)をつくったりしていたけど、僕も今、韓国の大学で演劇史を教えたりしているんですよね。そうすると、たとえば、丸山定夫という、築地小劇場の開演の銅鑼を鳴らした男が原爆で死んだというような話をしても、学生たちは、決してそれに同情しないし、せいぜい「別に」という感じなんです。丸山のやってた移動劇団は戦争協力のひとつなわけだから。

松田 それって、主義主張のバランスが欠けているみたいなこと?

平田 というより、能天気。たとえば植民地時代の人物を描くにしても、外国人からすれば「こういういい人だっていました」というような文脈でしか捉えられないような作品が最近増えている。なんか昔の左翼演劇に先祖返りしていて、それじゃあ演劇としてつまらないし、あらかじめそのことに賛同してくれる人しか面白いと思わないわけだから、そうじゃない人たちとの分断も生んでしまう。要するに、俯瞰する視点がないんだよ。劇作家というのは、せめて人工衛星くらいの高さから見ることができないと。

松田 僕が言ってる「全体」は、そういう視点さえない「すべて」とのつながりなんだけど(笑)。ただ、そういう人たちは要するに、「総体」の中でしか演劇をつくれていないということだよね。

社会の中の演劇:演劇教育の先にあるものは―― 

松田 僕は今、大学の中で稽古をしているし、マレビトの会の中にも学生はいるし、というふうに、創作現場と教育現場が共通した状態で活動しているんです。だから、あんまり「教育」をしているっていう感じはない。ただ、演劇ってやっぱり、ものの見え方を変換する形式を作り出すってことだから、それを創造できる環境は提案していきたいんです。平田さんのやっているこまばアゴラ劇場にも無隣館という演劇学校がありますよね。そこではどんなことをしているんですか。


『福島を上演する』 撮影:西野正将

平田 普通に、ワークショップをやって、グループ創作をやって、最終的には僕の戯曲を一本演出するっていうところまでを1年かけてやっています。俳優だけじゃなくて、演出家やドラマターグ志望の人もたくさんいます。そういうことを実践的に学べる場がほかにないということもあると思うんですけど。ただ、これは、劇場として才能を育てるということで、今の自分自身の関心は、自治体の手伝いをしたりするなかでの演劇教育の方にあります。豊岡市(兵庫県)の城崎国際アートセンターの芸術監督をしているんですが、ここでは今年度から市内の全小中学校で演劇教育が実施されています。高校でも授業が始まっていますし、大学をつくる準備もされています。かつては「演劇ではない」とさえ言われた現代口語演劇を、小学校6年生、中学校1年生が自ら当たり前のように書いて、演じている。今は限られた学年でやっていますが、今後も増やしていく予定ですから、いずれ、豊岡で育った子たちは皆、演劇の経験を持つことになる。これは革命感がありますよ。かつて寺山修司さんが、唐十郎さん、鈴木忠志さんとのてい談で、「今いちばんやりたい市街劇は、俳優を一人ずつ自治体に送り込んで、普通に働いたりして生活させるんだけど、全体としてはそれが劇になっているというようなものをやりたい」と言っていました。で、そういうことを、より現代的な方法で僕も目指しているんだなと思います。青年団の芝居がまだあまり一般的じゃなかったころ、「帰りの電車の中で自分が話してる言葉が青年団のせりふみたいに思えることがある」とよく言われました。要するに、日常生活の中で、自分が演じているのか演じていないのかがわからなくなっちゃうような状態。それがさっき松田さんが言ってた話ともつながるところで、まさに、作品と経験とが逆転する場だと思うんです。

松田 でも、ある意味ではもう、現実にそういうことになっているでしょ。国会とか見ててもそうだし……。

平田 うん。でも、あの国会議員たち自身が、自分の言説にぎこちなさを覚えるような感覚を持たなきゃいけない。

松田 それが、平田さんにとっての「社会を演劇化する」ということ?

平田 そう。

松田 そこは……面白いかもしれないけど、ちょっと、決別(笑)。僕が言ってるのは、そんな、表象と現実が混じり合うようなことではないんですよね。僕の考えでは、すでに世界はフィクションになっていて、むしろ演劇の方に現実の空間と時間が流れている。あるいは現実の時間に向けて開かれた体験がそこにある。僕らはそういう演劇をつくろうとしてるってことなんです。

実験と対話の劇場:ダイアローグを生み出すために

松田 今回のF/Tで初めてやる『実験と対話の劇場』では、若い世代の4つのカンパニー(「シラカン 」「玉城大祐 」「関田育子」「演劇計画・ふらっと、」)の作品を素材に「出来事の演劇」について、語り合いたいなと思っています。それも「演劇とは何か?」というような問いかけではなく、そのつど「どういう構造で何をテーマにしたのか?」ということをじっくりと考える。「私はこれが好きなんです」「これを伝えたかったんです」というような趣味の話ではなくてね。もちろん、答えが出てくることではないだろうけど、それによって問いが強靭になっていけばいいかなと思っているんですけどね。

平田 それを論じ合うのには、やっぱり共通言語があった方がいいんじゃない。無隣館や青年団演出部では、少なくとも一年は僕が集中的にかかわって、ある種の論理体系を身につける。たとえば、僕が『演劇入門』で書いた、空間を決め、時間を決め、降りかかる運命を決め、それから登場人物を決めて……っていう、先に物語を定めない創作方法もグループワークとして体験し、その体験を言語化する訓練もするんです。日本の演出家は、集団創作に慣れてないから、自分が書いたり、演出していることについて説明する能力が乏しい。まずはその無力感から出発してもらうんだけど、そうやってようやく、話ができるようになる。

松田 僕が教えている立教大学の映像身体学科は、まだできて10年なんです。だから確かに、身体の側からの言葉って紡がれてはいない。でも、ひとまずここを起点にして共通言語を育んでいきたいと思うんです。参加してもらう4つのカンパニーは、どれも、今日話した空間と時間のことをかなり意識していると感じます。平田さんのかかわっている無隣館出身の玉城(大祐)さんもそうです。無駄なことをしない、余計なことで空間を埋めようとしない感じ。それは、さっき平田さんが言ってた、環境が発話を誘発するみたいなこととも繋がっているかもしれません。

 

平田 ダイアローグになるのかがポイントですよね。観客も含めて、対話によって何かを生成させたいけど、たとえば60分くらいの話だと、だいたい前提が確認されたあたりで終わっちゃう。だから、延々、一晩くらい話をした方がいいんじゃないかな。それと、今、公教育の中での演劇教育に携わってると、やっぱり、日本の子たちは同調圧力が強いから、落としどころを先に決めちゃうんですよね。だから僕は何か、演劇的なフィクションをそこに入れることで、意見の違いを見せ、対話に持っていくというふうにしているんだけど。だから何かのフィクション性なり、他者性が必要なんじゃないかと思うけど。

松田 そのフィクションの部分を4つの作品が担ってくれたらいいんだろうな。試される場じゃなくて、試す場ですからね。今、現代演劇はどういうことになっているのか。「こんな新しい劇団があって」みたいなマッピングとは違う、新たなキーワードがその場から出てきたらいいんじゃないかなと思っています。

 


フェスティバル/トーキョー17主催プログラム

実験と対話の劇場 - 新しい人 / 出来事の演劇 –

参加アーティスト:演劇計画・ふらっと、 / シラカン / 関田育子 / 玉城大祐
キュレーション:松田正隆

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(c) Tadashi Ueda

いま、ここで、生まれ続ける「演劇」を捕まえる
 劇作・演出家で、立教大学でも教鞭をとる松田正隆が4組の若手アーティストに声をかけ、自身も強い関心を寄せる「出来事の演劇」をテーマにした実験と対話の場をひらく。
 参加するのはいずれも、劇や空間設計の文法そのものを自覚的に利用、解体、再構築する20代のつくり手。本企画では、それぞれが60分以内の作品を創作、2組ごとに発表し、ゲストを交えたディスカッションにものぞむ。
 目指すのは、単に戯曲の言葉を再現するのではない、その時その場で生まれる現象=「出来事」としての上演。それはまた、「戯曲を書き、上演する」という、ごく当たり前にも思える行為を解きほぐし、再検討することにもつながる。言葉、身体、空間、観客……演劇を構成するさまざまな要素、その間にある力学をいかに利用し、免れ、出来事を起こすか−−。つくり手と観客双方に新しい知覚、思考をもたらす探求と実践がここに始まる。

会場:あうるすぽっと
日程:11月3日(金・祝)~11月5日(日)
詳細は公式HPへ


マレビトの会『福島を上演する』作・演出:マレビトの会

©Keiko Sasaoka

過ぎ去っていく数々の「出来事」から、福島の「いま」を垣間見る  複数の作家が福島に取材し書いた戯曲を、いかに現在の「出来事」として劇場に立ち上げるのか。ごくシンプルな空間で、俳優の身体のみを使い、各エピソードにつき一度きりの上演に挑戦したマレビトの会『福島を上演する』が、昨年に引き続き、フェスティバル/トーキョーに登場する。続きは→

会場:シアターグリーン BASE THEATER
日程:10月7日 (土) ~ 10月15日 (日)※休演日10/10 (火)、10/11(水)
詳細は公式HPへ

 

松田正隆(マレビトの会代表)
1962年長崎県生まれ。2003年、演劇の可能性を模索する集団「マレビトの会」を結成。主な作品に『cryptograph』(2007)、『声紋都市—父への手紙』(2009)、写真家笹岡啓子との共同作品『PARK CITY』(2009)、『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』(2010)、『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』(2012)、『長崎を上演する』(2013−16) などがある。立教大学映像身体学科教授。

平田オリザ(劇作家・演出家・青年団主宰)
1962年東京生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。1995年『東京ノート』で第39回岸田國士戯曲賞受賞。1998年『月の岬』で第5回読売演劇大賞優秀演出家賞、最優秀作品賞受賞。2002年『上野動物園再々々襲撃』(脚本・構成・演出)で第9回読売演劇大賞優秀作品賞受賞。2002年『芸術立国論』(集英社新書)で、AICT評論家賞受賞。2003年『その河をこえて、五月』(2002年日韓国民交流記念事業)で、第2回朝日舞台芸術賞グランプリ受賞。2006年モンブラン国際文化賞受賞。2011年フランス国文化省より芸術文化勲章シュヴァリエ受勲。
こまばアゴラ劇場芸術総監督・城崎国際アートセンター芸術監督。


フェスティバル/トーキョー17 演劇×ダンス×美術×音楽…に出会う、国際舞台芸術祭

名称: フェスティバル/トーキョー17 Festival/Tokyo 2017
会期: 平成29年(2017年)9月30日(土)~11月12日(日)44日間
会場: 東京芸術劇場、あうるすぽっと、PARADISE AIRほか

舞台芸術の魅力を多角的に提示する国内最大級の国際舞台芸術祭。第10回となるF/T17は、「新しい人 広い場所へ」をテーマとし、国内外から集結する同時代の優れた舞台作品の上演を軸に、各作品に関連したトーク、映画上映などのプログラムを展開します。 日本の舞台芸術シーンを牽引する演出家たちによる新作公演や、国境を越えたパートナーシップに基づく共同製作作品の上演、さらに引き続き東日本大震災の経験を経て生みだされた表現にも目を向けていきます。

最新情報は公式HPへ


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ディレクター・メッセージ: フェスティバル/トーキョー17開催に向けて 「新しい人 広い場所へ」