【ネタばれ注意!】宮沢章夫×岡室美奈子(早稲田大学教授)トークの模様

『トータル・リビング 1986-2011』、10月16日の終演後のポスト・パフォーマンストークの模様です。

宮沢章夫 × 岡室美奈子

※お読みになる前に:
本ブログは、このトークでの岡室さんの細かい分析をそのまま書き起こしておりますので、具体的なシーンについて触れており、また、分析的なお話をされています。

ご観劇前に"ネタバレ"を避けたい方は、ご観劇後のご高覧をおすすめいたします。

↓以下。

宮沢:
岡室さんは90年代から色んな作品を観ていただいていると思うのですが、
それも踏まえて今回どう感じてらっしゃるか、というところから入っていこうと思うのですが

岡室:
すごいよかったです。
よくわからなかった方は、2回観ていただきたいです。
2回観たのですが、1回目に漫然とみていたわけではなくて、
家に帰ってから良く考えたことを今日持って来て、観たら、するするとよくわかった気がするんです。
正解があるわけじゃないんだけど、私なりに筋が通った。

宮沢さんの作品は94年からかなり拝見していますが、
今回のはすごくよくできてると思う。

1986という時間と2011というふたつの時間の対比があるわけですよね、
宮沢さんが2011と対比させるなら1995かと思っていたんです。
オウムと阪神淡路大震災。
その年について、切断ということを宮沢はおっしゃっているので。
そうじゃなくて1986と対比されたことの意味が何か、という時に、
震災じゃなくて、チェルノブイリ。
チェルノブイリと、福島。

そして、ふたつの自殺。
岡田有希子っていうトップアイドルだった歌手が1986年に四ツ谷のサンミュージックから飛び降り、後追いが多発し、
2011年には上原美優が自殺した、その2点が対比点としてあるわけですよね。
そこからの展開というのがすごくて!

バブル前夜、ビンゴ大会、花火、景品......が出てくるわけですけど、
全然2011と関係なさそうな場面なんだけれども、
花火というのが原発の爆発と重ねられていると私は思ったんです。

(宮沢さんの様子をみて)この際、書いた人の「つもり」は関係ないです!
意図はどうでもいい!

宮沢:
正しい研究者の態度ですね

岡室:
書いた人も気づかないことを教えてあげてる!
ビンゴというのは、偶然ですよね、偶然選ばれて、景品がもらえる。
それで、くだらないものをいっぱいもらうわけですよね。
当時はそういうものにオシャレ感があったというか、
昨日いとうせいこうさんが「キッチュ」とおっしゃっていたけど、
そのキッチュなものに価値があったわけだけど、
今それは欠落したものにしかみえない。
で。
実は最初に「もの」がいっぱい置かれていて、最後に、その「もの」が何なのか分かる仕掛けになっている。

私の理解では、それは津波によって流されてしまって残ったもの。
だから、部分として欠落したもの、それは、欠落せざるをえなかったもの。

オープニングで、「ただのもの」だった「ものたち」が、エンディングで物凄く、大きな意味を持つ。
同じように「欠落したもの」なんだけど、見事な対比が出てくる。

リモコンがはたしてどっちなのかってわからなかった
リモコンも最後に並ぶのかと思ったけど並ばなかった。

宮沢:
注釈を入れると、
wiiリモコンがあったんですけど、白(い舞台)に白(いリモコン)で「見づらい」ってことで、割愛。

岡室:
最後にこの、ものが並んで、声が読まれるときに、涙出ちゃって。
昨日はそこまで感情がついていかなかったんですけど、すごい涙でちゃった

偶然だと思うことがあるんですけど、象牙ってなんで象牙だったんですか

宮沢:
なんででしょうね

岡室:
すごい話なんですけど、
ある方が、被災地で食品の加工業者をやってらして、ぜんぶ流されちゃったんです。
家も、工場も、その工場で働いていたかたで見つかっていないかたもいて。
すべて流されたあとを車で見に行ったら、家宝の象牙が残ってたっていうんですよ!

宮沢:
.........あ......、そうですか......へえ...。

岡室:
いろいろなものが収奪にあっていたなかで、なぜか象牙が残ってた。

宮沢:
ワシントン条約制定以降、象牙の価値がよくわからなくなってるっていう。

岡室:
(あっさりと)あ、そうですか、だから象牙が個人的に二重の意味を帯びてしまいました。

宮沢:
アッー、
そうですか、その話びっっくりしました。

岡室:
この話まさか宮沢さん知らないだろうなあと。

宮沢:
知ってたら、びっくりですね。

岡室:
そんな偶然もあり。
単なる欠落だったものと、せざるを得なくなったものの対比が私によりクリアに見えたんですけど。

対比と言ったけれど、大事なのは1986と2011の間にある「-」(ハイフン)なんですよ。
単にその2点が対比されてるんじゃなくて、連続してみることが大事なんだろうという風に考えた。
台詞としては2つの時間を繋ぐのに編集で何とかすればいいんだという......、
そのことも話したいことがあるんだけど、それはまあ置いといて......。

(笑)

すみませんねえ、なんか、ひとりで喋ってて。
ごめんなさい、宮沢さんの話を聞きに来た人も多いと思うので
後で喋ってもらいますので。

今は宮沢さん終演直後でお疲れだと思うので。

宮沢:
いや、そんなことない(笑)勝手だなあ!(笑)

ちなみに、おなじ授業を、5人の教員が担当していて。

岡室:
メディア論1です

宮沢:
2回受け持つのですが、第1回は全員集まって10分くらいずつ、メディアについて語るんですね。
僕は町でみかけたグラフィティをメディアだと取り上げたのですが、
岡室さんは......僕、爆笑したんだけど、自分が出たテレビ番組を出したんです。
しかも普通を装って芝居してるっていう。「休日はどこ行くー?」って旦那さんに喋っているっていう。
爆笑しましたけどね。

岡室:
一生の恥なんですけど、一生の恥のビデオすら、出すっていう。
でもあれちょっと今日の話とも関わってくるんですけどね。

宮沢:
!? あ。そうですか。

岡室:
ま、その話はまたちょっとあとで。。

宮沢:
あ。はい、わかりました

岡室:
何を言ってたか忘れちゃったじゃないですか!

あ、そうそう、ハイフンね。

そうそうそうそう、ハイフンの意味がどこにあるか。

最後の方で、みんな死んでるんじゃないかっていう話がでてきて、
いや、死んでいるのはドキュメンタリー監督さんじゃないかっていう話になるんですけど、
やっぱりみんな死んでると思ったんですよ。

ドキュメンタリー監督さんは、震災で死んだということですよね、
だけど
たとえば忘却の灯台守とか欠落の女は震災で死んだ人だけど
ほかの人は
1986年以来、死に続けている人という感じがした。
チェルノブイリの事故のとき、大騒ぎになったけど、
どこかのんきだったし。
たとえば3ヶ月後に屋上でパーティやっちゃうとかね。

そういうことのなかで私たちはすごく鈍感だった。

そうして私たちは死に続けてきて、
2011年ていう年に私たちは死に直してるんじゃないかという感じを、すごく受けたんですね。

だからハイフンにそういう意味があるんじゃないか、ということを感じました
今日、2回目観て私はその思いを強くしたんですけどね。

衣装がすごく素敵だと思ったんだけど
なんか、非現実的な衣装じゃないですか、ずっと。
もともと死の世界みたいなものを感じた舞台でした。

宮沢:
巧まずしてそうなったという感じはするんですけどね。
美術がこう真っ白である、というようなことは、
戯曲を書いている段階では想定していなくて
林巻子さんに依頼したときは、僕はもうほとんど口を出さないで、ほとんど林さんにおまかせするんですね、
で、まあそのなかでちょっと芝居しづらいところは、こうしていただけますか、とか、飛び降りるから高さを出してほしい、というようなお願いはするんですけど、プランは林さん。
真っ白でしかもあの衣装ですから、ある意味やっぱり死の世界ということはあるし、
そのことから、能の舞台にちかい。
死の世界に入っていく。
最初たとえばザジという少女が歩いていくというのは、かなり意識してはいましたけどね

岡室:
なるほど林さんの舞台っていつも素晴らしいと思うんですけど今回もすごいカッコいいですよね。

ただのスクリーンじゃなくて看板にもなってる。
よくできてるなーと思って。

宮沢:
そうです
それと同時に最近、街では不況のせいで広告が入らない看板も多いじゃないですか、それも意識したんです。
そういうのが最初に出てくるのは、2011年の屋上じゃないか、と考えられる。

岡室:
ザジというと「地下鉄のザジ」しか思い浮かばないのですが。

宮沢:
そこからきているとしかいいようがないです。
響きですね。

岡室:
なるほど、そうですか。

もうひとつちょっと分からなかったのは

「プラスチック射出成形」って最後に言うじゃないですか。
あれ何だろうと思って調べて、プラスチック射出成形のプロセスのアニメまでwebでみてしまったんですけど。
あれは何なんですかね。

宮沢:
あれはまあ、そうさせたいっていう。
みんなが調べるだろうっていう。
てゆうか、射出成形って好きなんですよね、しゃしツ......射出成形スゲーなー、て。

宮沢:
ちょと真面目にこたえちゃうと、
屋上で外見ていたらそういう文字が見えてた。
それで「××かあ」と言っている、ということです。

岡室:
看板の文字読んでるのかなーとは思ったんんですが。

・・・
二点の対比と継続という話をしたのですが、
3つ、このお芝居を観ていてポイントを考えたのですが......あ、3つじゃないかも、もっとあるかもしれないんですが。

1つはまず、
震災のあと、どう向き合えばいいかわからない感覚ってすごくあったと思うんですね、
そこから話の展開がふたつあって。

ひとつは今日のテーマにも深く関わると思うのだけど、
監督は撮らなきゃいけないのか。
作家は書かなきゃいけないのか。

86年で、画家なんだけど絵を描いているのかどうかよくわからない人が出てくる。

震災があって、原発があって、
作家は書かなきゃいけないのか、監督は撮らなきゃいけないのかという風な問いがある。

でもその書くとか撮るとかってどういうことなのか。
東北行けばいいのかっていう問いもあって。

で、とにかく「忘れてはいけないんだ」っていうことがすごく打ち出されていて。
記述者というのが出てきますよね。

宮沢さんは劇作家で作家で、
だから書かなきゃいけないんだ、書くんだっていう静かな決意みたいなものをすごく感じたのですね。

で、その記述することっていうのが、
小説家でもあり劇作家でもあるから、
文字であり身体でもある、ということをすごく感じたんですね。
そこに一番感動したかな。

宮沢:
かなり意識はしていたと思いますね。

これまでも話しましたが、
3.11以後いったい、どうしたらいいか分からなかったときに、
若者がくったくなく芝居をつくっている、その屈託なさが政治性を帯びているように僕にはみえた。
そういう人とは違うアプローチの仕方で僕が何ができるかっていったとき、
僕は、「書かなければいけない」という。

で、それは、
「どんな風にして書くのか」って言う。
そこでは今までの方法を使ってもしょうがない。
別の方法をそこに刻むことができないだろうか、と意識しました。

書き方や記述の方法が、まだ他にも色々あるのではないかと。
今回それが全部成功したとは思わないけど、
ひとつ、こういう風に記録していくっていう。
言葉を、街の声を記録していくっていうのはあったかなと。

で。

たまたまそれは、3月に「春式」というワークショップで、
街に出て人の声を記述していく、テープに記録するという課題を出し、
そこから短い劇をつくることを考えてたんですね、
それをやっているとき、きわめて不幸な偶然なんですけど3.11が来た。
もしかしたらその前後の時期に記述された言葉は、
この劇で使わなければいけないんじゃないか、
という風に思わされたところがあった。

岡室:
あの言葉が凄く力を持っていたと思うんですね、この劇の中で。
最後に一枚一枚読まれた時は涙がでてしまって、
すごいと思った。

宮沢さんはプロの書き手だから、
記述するっていうことに拘られるけど、
声にすること自体がすごく大事だと思っていて。

3.11の体験て、
たとえば東京の人たちもすごい非日常を体験したわけじゃないですか。
いきなり帰宅困難者になったりとかして、
東北であれだけの大変なことが起こって、
津波でたくさんの人が亡くなって......、
そういう現実の前に、
自分の体験て取るに足りないものだから、それは語っちゃいけない。
というような抑圧が働いていたんじゃないか、と感じた。

何故感じたかというと
ゼミでオープニングトークをするのですが、
震災の話をはじめたら止まらなくなり、
その日のメニューはやめて震災の話をみんなでしたんですけど、
何かこう、語れてない、語り足りないんだな、ということを凄く感じたんですね。

みんなが同じような体験してるからだとか、
東北で起こったことに比べて取るに足りないことだ。
とか、そういうことを色々考えちゃったりするのかもしれないけど、
東京に住んでいる人にとってはすごく非日常的な体験だったわけですよね、
自分たちの日常がいきなり違うものになってしまうっていう。

そういう体験のこともきちっと語っていかなきゃいけないんじゃないかとすごく感じた。

で、今日の「声」のなかで、すごく濃淡があった。
普通に帰宅困難者になってしまったとか、色んなレベルの声が拾われていて、
記述するって、すごいことだけを記述していくんじゃなくて、もっと細やかな作業だなって
思わされたんですね、
そういう意味でも、声はよかったなと

宮沢:
それはやっぱり、演劇の課題でもあったような気がするんですね。
戯曲に書くときに、戯曲に書かれるべき言葉は、ある演劇的な強度を持っていなければいけないという風に考えられてた時代。
そうすると、それをおのずとそれを発する身体が生まれてくるじゃないですか。
そのための俳優というものがあったんだけど、そうではない言葉を僕たちが書き始めたという。
90年代は、まあどうでもいいようなことを突然書き始めたっていう。
僕が岸田戯曲賞を取ったときの別役さんの評って、
「これだけ無駄なことを書けるのはひと筋縄ではいかない」という、
喜んでいいのかわからないようなお話だったんですけど、
そういうことを僕は書きたかったというのがかなりあったんですね。
むしろ、そっちの劇とは関係ないかもしれない。
劇のドラマトゥルギーに関わらないような、劇をちっとも動かさないようなどうでもいい言葉のなかに、またべつの劇性があるんじゃないかと。

岡室:
それは今日の劇でもすごく思いましたね。
合理的な考え方からするとノイズでしかないようなものに凄く劇的なものがあるっていうか、
舞台の上で起きていることもすごくメタ化されているというか、
横に俳優さんが並んでいて、演じてますということがうち出されていて、
そのなかでまた86年を演じるとか、
すごくメタ化されてるんだけど、さらにそれを映像に撮って、ここ(スクリーン)に映るわけですよね。

たとえばここに洗濯物があってスクリーンになって
最初に洗濯物のタグが映されるじゃないですか、
すごく2011が強調されるんだけど、
そのときに、大写しになるから、映像を一生懸命観ちゃうんですよね。
舞台の上にあるのに、映像に映されたもののほうが情報として直接的な感じがして...直接的ってヘンだな、
情報として凄く見やすい。
こっちのほうがリアルとすら思ってしまって映像を観ちゃう。

だけどその一方で、
舞台の上で忘却の灯台守と欠落の女がひたすらすごい変な動きしてるんですよね。
無駄な、関係ない変な動きをしていて、それがある種のノイズなんだけど、やっぱりそれを観ちゃう。

そこで、舞台に引き戻されるみたいなことがあって、
そういう「無駄な身体性」みたいなものが...、
宮沢さんの舞台は、映像を格好良く使うんだけど、
今回は、映像と舞台が拮抗している感じがした。

その対比というか、
舞台上の無駄な身体性みたいなものに凄く強度があるというか、
おもしろいなーと思って観ていました。


現実とフィクションで二項対立で考えていいことでもないですけど、
津波とか、映像で見ている現実に圧倒されたという話を、うっかりしてしまうわけだけど、
こういうときだからフィクションの力ってすごく大事な気がするんですね

どう向き合えばいいかわからないときに、
頑張ろう日本ていっとくと一言で済む......と言うとバカにしているみたいだけど、
そうじゃなくて、
さまざまな思いを抱えたりとか、感情の濃淡を抱えながら、
自分なりにどう向き合うかってことを考えるわけですよね、
そういう細やかなものっていうのを、
フィクションだと何か表現できるんじゃないかって
今日もそうだったんじゃないか。

大きなことが起こったとき、
現実の力に圧倒されるって思っちゃうんだけど、
そうじゃなくて、フィクションの力によって乗り越えることの可能性を感じるんです。

震災後、演劇とかって不謹慎という雰囲気があったけど間違ってるし、
現実逃避とかではなくて、そういうフィクションの力で、
私たちは支えられたり乗り越えたりすることができるんじゃないかなってことは感じますね

宮沢:
現実もそうなんだろうけど、フィクションは誰かの手がかかっている、人の手によって何か動かされてるということはあって、
尚且つそのものを観ることによって想像させる力が、
自然を見るのと違う意味で想像する力が働くのではないかと。
実はここ(舞台)に色々なものを並べることによって、
人によってまた違った姿を......

ある人は墓標だはないか、と言った。
多くの人は震災で流された瓦礫のものをもってきたと考えた。

それは受け止める人によって全く違うものとしてどう解釈してくれてもん僕は問題ないと思ってる。

岡室:
私もそう思っていて。
たとえばここに置かれているものに泥とかついていると駄目だと思うんですよ。
想像力をそこで止めちゃうっていうか。
そうじゃなくて、このものたちが、色んな形で解釈されていくことが大事。

宮沢:
そうするとやっぱり震災の瓦礫に埋まった町を見ることによって僕たちに起こることって、
様々で違うんだけど、
「見てしまった、事実を知ってしまった我々」というのがいますから、
逆に色んなものが違った姿に見えてしまうことはあるかもしれないですね。

岡室:
そうなんですよね。
震災以前は絶対これはただのものだったけど、
泥のついていない綺麗なものに、想像力で泥をくっつけちゃうわけですよね、
そんな風に私たちは変わってしまっているけど、
変わってしまっているのに、そのことをすぐ忘れちゃう。
だから記述しなきゃいけないということですよね。

記述者が沢山出てきて、
ひとりで記述するんじゃないんだっていうのがまたよかったですね。

宮沢:
なるほどそうですね。
やりたかったことではありますけど、ただまあ作家ですからね、
いい加減なところはいっぱいあるっていう。
思いつきだよっていう。
ザジについては本当に思いつきですからね。
何か、パッと思いついたのがザジだとしか言いようがないっていう
その意味はって問われると困るときがありますね

岡室:
受け取る側も「意味の病」にとり憑かれてはいけないっていうか、
全部の意味を探してはいけないですよね。
むしろ意味がないってことが大事な場合もたくさんあるし。

宮沢:
かなり意味がないですよ僕がやっていることは。
本当にあの、国立西洋美術館でやってるギリシャの美術展についての話なんて本当に意味ないですからね、たまたま書いていたエッセイそのままですからねあれ。
それもちょっと台本書くのこまってエッセイそのまま突っ込んだっていうことなんですけれども。

岡室:
あれ自体の意味はないんだけど、劇のなかでの機能みたいなことは生じてくるわけですよね。
だからまあ、私なんか、わりと作品分析をずっとやってるんだけど、そこは大事。
いちいち意味を探るような見方はつまらないし間違っていると思っていて、
でも何か機能を持っていて、ひとつの作品になっていく感じはすごくあるし、
そういうのを探っていくのはおもしろいと思いますけどね。

宮沢:
それは時として、きわめて......、
僕なんかが想像していなかったことを解釈してもらったときに、
それはもう僕から離れてしまった作品解釈じゃないですか、それがおもしろいですよね、
それとしての、また別の解釈という作品となっているときに、
読者として普通に楽しめるな。とは思いますよね。

岡室:
過剰に解釈してしまうこともあると思うんだけど、作品のなかに根拠があればいいと思ってるんですね、
まったく勝手にこっちの解釈を押し付けちゃうっていうんじゃなくて、
作品のここがこうだから、こういう風にとれるんだっていう根拠が作品のなかにあれば、
それは作家が意図したことじゃなくても、豊かに読めたほうが良いと思うんですね

宮沢:
そうであると同時に、研究者と作家とは、読み方が違うんだなってことをしばしば感じますね。
ぼくたちは、これはどういう手法、手つきで書かれているのかな。
と、戯曲を読んでも作品を観ても考えるんですね。
それは解釈とは違う手続き、読み解く方法だと思うんですよ。

岡室:
作家がある作品を発表していて、
その強度みたいなものに感動して批評なり研究なりするわけだけど、
やっぱり拮抗しなきゃいけないと思っていて、
ただ作家が言っていることに追随するんじゃなくて、
そこに拮抗するくらいの解釈をしないといけない、というつもりではやってるんですよね

宮沢:
批評というのはそれ自体がクリエイティブですよね、発見があるからおもしろいと思っています。

岡室:
探偵みたいなところもあって。
発見の仕方に芸があるっていうか。


・・・

宮沢:
授業受けてるみたいです。

岡室:
すみませんー
私、授業大好きなんですよ

宮沢:
ぼくも好きですよ

岡室:
ですよね。
宮沢さんの授業に時々もぐるんですけど、すごいおもしろくて!

宮沢:
すぐわかるんですよ。

岡室:
気配消してるつもりなんですけど、絶対ばれますよね

宮沢:
「今、いるよ」って、「わかってるよ」って言いたくなります。

岡室:
完全にいちファンというかミーハーなので時々授業も もぐらせていただいては凄くおもしろいんですけど、


・・・

【客席とのQ&A】


Q1:
最後のシーンで涙が出そうになったのですが、
言葉を記述していく方法で作っていったと仰っていたと思うのですが、
ほかのところから言葉を持ってくるときに、
まったく違う意味合いになる可能性が少しありますよね、
たとえば色々な物語から引用してひとつのものにしていくということだと、
ストーリーとして変わっていってしまうことがあると思うのですが、
この記述はすごく自然に馴染んだものとして観ることができたので、
どうやって外の言葉と関わっていったのでしょうか。

宮沢:
技術ですよね。
いきなりあれやりはじめると、なんだろうというのがあるだろうから、
読み上げる人たちはどういう人たちなんだろうか、ということで、
「記述者」という名前を与えたんですね。
いきなり出てくるとおかしいから、劇の冒頭から登場させる。

リーディングにはなかったんだけど、書き足した部分なんです。
分かりづらいかもしれないと。
なぜ急に読み出されるのか、劇のなかに馴染むだろうか...、それはカードっていうものとセットで記述者の身体をどうやって出現させたらいいかを、演劇的に書くって言う、テクニックというか技術をそこに使った。
と、僕は考えています


Q2
一般的な感覚では、あのシーンにあの曲は選ばないというところでアンビエントミュージックを使っていることについて。

宮沢:
悲しい場面には悲しいメロディ、となりがちじゃないですか
それをどう避けたらいいか。
音楽はかけたいんですよ、それが何故かっていうと僕が好きだから。
でも、そうならない方法をどう考えていくかっていうことで、
今回はノイジーなものを流そうということはありました。

Q2
ギャップを逆利用したのでしょうか?

宮沢:
もっと直接的なことをいうと、
いい音楽流すと、役者が気持ちよくてバカになる。
いい調子になってしまう。
それをさせない、ということもあります。

・・・
Q&A以上。