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「オーソドックスな前衛」が語る、現代演劇、言葉、身体、空間 三浦 基 ロングインタビュー

----「作家論の演劇」であると同時に「俳優論」「身体論」を考える場にもなりそうです。

三浦  俳優はややもするとすぐに、ナチュラリズム、リアリズムの演技に流れますからね。アルトーの演劇が実際にはうまくいかなかったのも、ジャン・ジュネが『女中たち』について自ら「いつの間にか旧態依然の有様に甘んじてしまった」と否定したのも、すべてはこの問題に端を発している。欧米では舞台演出家が映画のほうに行っちゃう現象があるけど、それは演劇の身体を獲得できなかったからです。カメラという身体の方が当然、ナチュラリズムには向いているんだから。で、たぶんアルトーをやるってことはこの難しさに関係することになるんじゃないかな。だから彼は昔の世代の演劇人にも熱狂的な人気があるんだろうし。麻薬的で狂乱してるんだけど、どうも新しいことを言っているんじゃないかというね。

----感情を伴う「せりふ」ではない、それも驚異的なスピードと意味の氾濫を持った言葉を扱うことで、より明確に「身体」の問題に向き合えるわけですね。

三浦  そう。でも、もうちょっとやったら僕はもう、せりふや古典に戻る。「行くとこまで行く」というよりは、還元する方が面白いと思ってるから。それでいわゆる「演劇」のナチュラリズムやリアリズムは完全に打破したい。イプセンかなにかでそれを実現して「ざまあみろ、やったぜ」って言ってみたいね。生きているうちにそこまではなんとか到達したいと思うんだけど。

----そういった思考は、そのまま「演出」という概念を問い直す作業にもなっていると思います。

三浦  日本では僕のように劇作を伴わない演出家が少ない。じゃあ、その違いはなんなのかということは僕自身も考えるんですよ。やっぱり作家の人と話をしてると、彼らは自分の新しい主題なり文体なりが作品につながっていくというロマンを持っているんです。でも僕は演出家だから、すでにあるものの中から作品を選ぶわけで、そういうロマンは持っていない。あるとすれば、俳優とかその見え方、人間が舞台を観るとはどういうことなのかという現象の方に対するもの。だから時おり「新しい方法だ」みたいなことを言われるとなんか照れくさいというか、ピンとこないこともある。

----「前衛的」というふうにも言われますよね。それについてはどうですか。

三浦  「前衛」は自負してますよ。前衛は別に新しいものじゃなくて、歴史性を意識したうえでのものでしょ。で、今僕がジュネやアルトーを扱う時には、これまでの演劇の歴史に対しての「一歩先なんだ」という自覚があるわけ。そこに前衛性がある。この自覚がないまま上演したってダメなんです。それはただのマニアやファン。だから僕にとって「前衛」って言われることは素直にうれしくもあります。ただ、本当のところを言うと自分ほどオーソドックスな演劇を作ろうとしてる人間はいないだろうとも思ってるんだけどね。でもあんまりそのつもりで観にきてもらっちゃうと、お客さんを痛い目に合わせちゃうかもしれないから(笑)。パッケージが必要なら「前衛」でいいんじゃないかと思います。

――ところでアルトーさん、

演出:三浦 基(地点)
公演スケジュール:11月19日(金)〜23日(火・祝)
会場:東京芸術劇場小ホール1