雲南省生まれ。13歳より雲南芸術学校でダンスの専門教育を4年間受ける。
ダンサーおよびダンス教師として数年活動した後、1985年から北京舞踏学院で振付を学び、1989年に卒業。その後、当時の総理、周恩来の提唱により1962年に設立された中国芸術家集団の名門・北京の東方歌舞団で振付師として活動。中国政府文化部直轄の大舞踊団での活動をしながら、自分の表現世界をより深く探求する欲求が高まる中、1994年、NYに6ヶ月間滞在する機会を得て、初めてモダンダンス、コンテンポラリーダンスのカンパニーや劇場と出会う。帰国後、自分たちの日常生活を反映した作品創作を発展すべく、同志であるウー・ウェングアン(呉文光)とともにインディペンデントのカンパニー"生活舞踏工作室(Living Dance Studio:LDS)"を結成。LDS第一作目『100Verbos』を初演以来、実験的かつ前衛的なすべての作品の振付を行う。主な作品に、女性を取り巻く環境や役割についての考察を取り上げた『出産(生育)報告』(1999)、中国社会の変動を描いた『身体報告』(2003)等の『報告』シリーズなど。
2005年、ウー・ウェングアンとともにインディペンデントな創作・発表の拠点として北京の草地場という村に「草地場(ツァオチャンディー)ワークステーション(CCD)」を設立。
国内外のアーティストとの交流の場としても機能するCCDでは、2005年より北京初のコンテンポラリーダンスとフィジカルシアターのフェスティバル「Crossing Festival(交叉芸術祭:秋開催)」や、「May Festival(5月祭)」の芸術監督を務める。
1956年、雲南省生まれ。中国インディペンデント・ドキュメンタリーフィルムの第一人者。1974年、昆明の高校を卒業後4年間、農村へ下放、農業に従事する。1978年に雲南大学入学、1982年に卒業。その後、85年まで昆明の高校教師の職を経て、昆明テレビ局(昆明電視台)にジャーナリストとして入局。1988年、北京に移り、中国中央電視台(中央テレビ;CCTV)の仕事をしながらテレビ局の機材を利用してインディペンデントの映像作家およびフリーランス・ライターとして活動を始める。翌89年にはフリーランスの映像作家として独立。初作品『流浪北京:最後の夢想家たち』(1990)は、中国における新ドキュメンタリー運動の最初の作品とみなされている。以降、当時の公的な国内メディアでは発表の機会のないような、個人の生活や生々しい声が映る映像作品を精力的に製作。主な作品に『最後の夢想家たち』の続編『四海我家』(1985)、『私の紅衛兵時代』(1993)、流れ者の歌舞団を描いた『江湖』(1999)、パフォーマンス・アートを記録した『出稼ぎ労働者と踊る』(2001)等。映像製作のみならず、海外の映画祭なので得た知識や情報を出版物により発信、ワークショップや上映会の企画も行っている。日本では山形国際ドキュメンタリーフィルム映画祭(YDIFF)で1991年以降、いくつかの作品が紹介され、『私の紅衛兵時代』は1993年YDIFF小川紳介賞を受賞、2009年はYDIFFインターナショナル・コンペティション審査員を務めている。
1994年、ウェン・ホイとともに生活舞踏工作室 (Living Dance Studio)を結成し、コンセプトメイキング、作品構成、出演、映像製作、プロデューサーとしてLDSの活動を推進。
2005年、ウェン・ホイとともにインディペンデントな創作・発表の拠点として、草地場ワークステーションを設立。国内外の若い世代のアーティストが滞在し、ともに創作できる環境で、彼等との共同制作や、若者、農民らのビデオ制作を支援する活動に専念している。
すでにそれぞれの活動分野で高い評価と注目を得ていたウェン・ホイとウー・ウェングアンがインディペンデントな表現行為とその作品を発表するために自分たちの活動を"生活舞踏工作室"と称したのが原点。1994年11月にLDSとして『100 Verbos』初演以降、北京を拠点として活動している。演劇やダンスといった既成概念にとらわれない身体表現と言語や音楽等、様々な要素が融合した総合芸術を探求。
中国政府から公的支援を一切得ずに活動を継続している意味で極めてインディペンデントであり、ダンス、映像、ストーリー、舞台美術、照明、音楽、そして現代中国の日常を切り取るドキュメントを織り交ぜた表現形態は非常にユニークである。また、中国のコンテンポラリー・シアター界を活性化させるために、作品ごとにダンサー、俳優、作家、音楽家、美術家、映像作家等、様々な分野のアーティストを招き、共同制作を行っている。創作の過程も重視し、ドキュメンタリーの視点を活用しながら中国の日常的な生活を切り取るインディペンデントな作品を発表し続けている。 ウェン・ホイは語る「私たちは今、何を感じ、何が起きているのか、といった、ありのままの日常に目を向けたい。だから"生活舞踏工作室"と名づけた。私たちは答えを提示しようとしているのではなく、疑問や問題を人々と共有したい」と。
生活舞踏工作室(Living Dance Studio)作品歴
100 Verbs (1994), Living Together / Toilet (1995), Breathe with the Earth (1996), Dining with 1997 (1996), Skirt/Video (1997), 『出産報告』(1999), 『出稼ぎ労働者と踊る』(2001),『身体報告』(2003), Time/Space (2004), 『37.8℃報告』(2005), Outlands (2006), Skirt (2007), メモリー(2008), Treament (2009)
草地場(ツァオチャンディー)ワークステーション(CCD)とは?
インディペンデントな作品創作、発表を続ける生活舞踏工作室(LDS)を支持する会社経営者の> 友人が北京郊外の草場地という村の土地をLDSの活動拠点として提供。2005年にその土地を「草場地ワークステーション」と名づけた。同じくインディペンデントな活動を行うアーティストたちへ滞在製作の場や発表の場も提供している。施設には、映像上映、公演上演のスペース、図書室、小さい食堂も整備。国内外の多種多様な分野のアーティストを招き、ワークショップやシンポジウム、フェスティバル等も開催している。
ウー・ウェングアン監督ドキュメンタリー映像作品 (『メモリー』投影作品)
『私の紅衛兵時代』(『我的1966』) 文化大革命に青春時代を送り、今は学者やエンジニア、ビジネスマンや映画監督(『青い凧』のティエン・チュアンチュアン(田壮壮)になっている元紅衛兵たちが、詳細に当時のその体験を語る。官製映画とは違うインディペンデント映画ならでの生々しい本音を映し出す。 1993年山形国際ドキュメンタリーフィルム映画祭小川紳介賞(アジアプログラム最優秀賞)受賞。カラー・134分。