「生」と「存在」の思索、その問い
劇作家が演出を兼ねることが多い日本の現代演劇において、演出家=三浦基の演劇的思考による実験を繰り返してきた地点。その作品は、多様なテクストを用い、言葉や身体、物の質感、光・音などさまざまな要素が重層的に関連させ、綿密な解釈を基に意味を再構築していく。2007年〜09年には「チェーホフ四大戯曲連続上演」を実施、第3部『桜の園』では三浦基が2007年度文化庁芸術祭新人賞を受賞し、その成果を確かなものとした。
F/T初登場の新作では、詩人で、演劇や映画活動にも関わり、「残酷演劇」の提唱者として知られるアントナン・アルトーのテクストを再構成、舞台化を試みる。アルトーは三浦が08年『チェンチー一族』(「演劇計画2008」 京都芸術センター)、09年『追伸―A.アルトーによるテクストから』(「演劇計画2009」同センター)と二つのリーディング公演でも取り上げた題材。
彼は晩年、西欧文明との対立を深める中で心身を病み、約9年間を精神病院で過ごす中で敬虔なクリスチャンへと回帰していったという。今作では、自我と言語を破壊し、自らの身体を通して人間の根源的な「生」と「存在」に迫った彼の後期テクストを中心に、アルト―自身が書き残した演劇とその演劇論から、人間と神、芸術と宗教の深淵に迫っていく。
「演劇とは何か?」という問いを常に根底に抱えながら、あらゆるテクスト=過去に書かれた言葉の数々を、俳優の独特の発話と演出法によって現代に蘇らせてきた三浦基。ジャック・デリタをはじめとしたフランス現代思想やピーターブルックなどの現代演劇を中心に、後に続く多くの思想家、アーティストへ影響を与えた20世紀の巨星のひとりであるアルトー。
まさしく自身を切り刻み、蝕みながら人間の存在、そして演劇を問うたアルトーの言葉の最深部まで、三浦はどのように到達し、その神格性をはぎ取りながら、どのような「声」を生み出していくのか。
そこに、わたしたちの「生」、そして演劇の存在自体が三浦によって問われることは間違いないだろう。
創作ノート
晩年のアルトーは復活した。しかしそれは宗教の話ではない。単に助かったのである。例えば電気ショックという今では考えられない治療という名の拷問から。助かった者は、もちろん図太く、ますます身勝手でもあるが、とにかく強いのである。そして私の関心は、その強さの裏側にあるしたたかさと、むしろ今度は弱さとでも呼ぶべきかもしれない神経の正体についてである。だからこれは、アルトー救済の劇ではない。もう一度、彼を拷問してみようという私の意地悪だけがまずある。
三浦 基(演出)
「残酷の演劇」を提唱したあとも、これについて注釈するアルトーのはりつめた語調から始まる。その後、終末論的錯乱へと踏み込んだが、残酷、演劇、身体に関する壮絶な思索はとだえることがなかった。肉を失ったアルトーは、新しい肉をえて復活する。9年間にわたる錯乱の工房からは、いくつかの傑作が生まれた。残酷の演劇は、アルトー自身がまさに錯乱を経て復活するというもうひとつの演劇として生きながら実践された。いくつかの手紙と『神の裁きと訣別するため』を合わせて、アルトーのたどった数奇な時間に踏み込む。かつてアルトーの演劇は、世界の演劇を揺さぶったが、アルトーの真実はまだ闇に埋もれたままである。いま改めてアルトーという火山のマグマに触れることは、演劇にとって、いくつもの険しい山を越えなければならない試練となる。
宇野邦一(翻訳・構成)
アントナン・アルトーについて
1896年マルセイユ生まれ。詩人、映画俳優、演劇人。
幼少時患った骨髄膜炎の後遺症で生涯頭痛に悩まされ、麻薬を常用。その解毒治療にも苦しんだ。1924年シュルレアリスム運動に参加し、シュルレアリスト研究所の所長となるなど積極的な活動をするが、後にその活動を批判され除名される。「アルフレッド・ジャリ劇場」を設立し、演劇活動を行う一方、映画俳優としても活躍。『裁かるるジャンヌ・ダルク』(カール・ドライヤー/27年)など、多くの映画に出演した。
植民地博覧会のオランダ領植民地館で「バリ島の演劇と舞踏」を見て衝撃を受け<残酷演劇>を提唱。その理論は後に「演劇とその分身」にまとめられる。36年、メキシコへ向かいタラウマラ・インディアンのもとに滞在。翌年アイルランド旅行中、持っていた杖に端を発するトラブルから狂人として本国に強制送還され、以後9年にわたり精神科医院で過ごすこととなる。48年3月4日、直腸癌のため死去。享年51。
(参考:ペヨトル工房刊『神の裁きと訣別するため』)