演出ノート
・沼のような澱んだ水場がある。集落のようなものが形成されているが、そこにはまだ名前がない。
・そこにはなぜか女しかいない。しかし女たちは子供を育てている。「誰の子供」ということもなく、子供たちはおおらかに共有されている。
・彼女たちは水場で食べ物を、食器を、自分の体を、下着を、洗う。
・そこに、一人のよそものの男がやってくる----。
今作では、「作家の書いた言葉を俳優が発語する」という演劇の形式について、もう一度考えてみたい。
ある出来事について、「当事者/本人」の語ることだけが「本当」で、そこに他の何者も踏み込むことのできない価値があり、
演劇にできるのはせいぜいそれを模倣・再現することでしかないとしたら、作品は、最高でも現実のミニチュアどまりに
なってしまう。
けれど、演劇には別の回路があるはずだ。
と、思いたい。
俳優と〈役〉の距離はなくならない。同化はできない。しかし俳優は、〈役〉と〈私〉との距離においてこそ発語する。
〈役〉と〈私〉の狭間で宙吊りになり、引き裂かれる。その揺らぎを無化せずに、むしろ積極的に提出したい。
西尾佳織