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その一手が? 120日間の勝負、対話の「分かれ目」を探す

キメラガール アンセム/120日間将棋

The end of company ジエン社 [日本]

作・演出:作者本介
11月7日(水)~ 11月11日(日) シアターグリーン BASE THEATER

本プログラムについて

創作ノート


 パソコンによる将棋プログラムが、将棋のプロに勝利したニュースを聞き、負けた棋士(将棋のプロプレーヤーは「棋士」と表記される)が敗戦の記者会見を開いていたのを動画で見た。
 その時記者から、「棋は対話なり、とよく言われるが、コンピュータの指す手に人格を感じたか?」という質問があり、その答えが面白かったのが覚えている。
 その棋士は、ある著名な将棋棋士の名を出し、まるでその人と対戦したかのようだったと語った。
 また、コンピュータと対戦して敗戦した女流棋士は、「一手一手よく研究されていて、私の事をよく考えていくれているようだった」とも語っていた記事を読んだ事がある。
 彼らのやっている事は「木片を、ある規則に沿って升目から升目に移動させて勝敗を競う」行為だ。決して大きくはない木の板の上で行われるそれは、将棋についてなんの知識もない知的生命体が見たならば、邪術的なふるまいにも似てることだろう。
 彼らのやっている事は、「木片の移動」である。
 木片の移動をしているさなかに、コンピュータという、人格を持たない無機物に、なんらかの感情を抱くのは奇妙だ。
 それらはしかし「木片動かし屋」であるなら、抱くかもしれない共通の感覚なのかもしれない。将棋の「身内」になれば、私にも彼らのやっている事は共感できるのだろうか?
 彼らは驚異的な事に、「木片動かしの記録」(棋譜と呼ばれる、将棋のプレイ記録)を参照に、木片を動かした軌跡をたどれば、死んだ棋士の感情すら、読みとったり、感じ取ったりする事がある。
『村山聖名局譜』という書物は、村山という死んだ棋士の残した棋譜を肴に、二人の棋士がその棋譜通りに駒を並べながら語るという構成のものだが、彼らは村山の何かを、その過程で感じてはおおいに語るのだ。
 私にはまだ、ちんぷんかんぷんな書物である。読んでも、よくわからない。
 どこまで将棋を知れば、どこまで将棋の"身内"になれば、人は何を知れば"身内"になるのか、身内になりさえすれば死者や無機物へも、共感が出来るのか――。

・・・・・・

 120、という数は、将棋の平均的な決着の手数であると言われていると同時に、私が公演を打つときに、本格的な準備に入ってから上演するまでの平均的な日数でもあったりする。
 120日間は、私は死ねないなあと思うのだけれど、将棋棋士もきっと、将棋を指している間は、死ねないなあと思うんじゃないだろうか。
 その、死ねない感というのも、ちょっと気にはなっている。将棋を指そうが、演劇を企画しようが、死ぬ時は死ぬのだろうけれど。
 現時点では、大体こんな事を考えている。

作者本介