フェスティバル/トーキョー トーキョー発、舞台芸術の祭典
1981年より創作活動を開始、86年に海外で衝撃的なデビューを果たし、以後、他の追随を許さない美意識で日本のみならず、世界のダンス/アートシーンを牽引し続ける勅使川原三郎。独自の表現を追及し続ける勅使川原は、毎年国内外のフェスティバルや劇場でダンス作品を発表するだけではなく、パリ・オペラ座バレエ団やフランクフルト・バレエ、ネザーランド・ダンス・シアターⅠなど、著名なバレエ団やダンスカンパニーからの委嘱作品も多数創作している。また、その研ぎ澄まされた美的感覚により、欧米各地のオペラハウスやフェスティバルからオペラ演出の依頼も殺到している。昨今では、クラシックの演奏家とのコラボレーションにも積極的に取り組み、近年ではラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンでの、バイオリニストの庄司紗矢香との共演は記憶に新しい。
勅使川原は自らのダンス作品でも美術や照明を手がけ、独自の作品世界を造形しているが、今やダンスという枠を超えて、演出家、造形美術家、映像作家としても欧米で第一級の評価を得ている。
今回は、宮澤賢治の詩集『春と修羅』に収録されている『原体剣舞連(はらたいけんばいれん』からインスパイアーされた『DAH-DAH-SKO-DAH-DAH』(1991年初演)を、新たにクリエーションした改作を発表する。
『原体剣舞連』は、宮沢賢治が北上山地の山合いの集落・岩手県江刺市原体で100年以上も踊り継がれてきた剣舞をテーマにした長編詩であり、『春と修羅」に収録されている。生涯に約20曲の歌を作り、自らの文学的世界観の底流に音楽が流れていると生前語っていた宮沢賢治。若い頃はベートーヴェンやドヴォルザークなどのクラシック音楽に傾倒し、晩年は郷土・岩手の音楽に目覚めて作曲したという。ゆえに、賢治の音楽作品には、西洋的なものと東洋的な(日本の土俗的な)要素が混在した、グローバルな視点を感じることができる。
勅使川原も、賢治の音楽的な詩に魅了された一人である。『原体剣舞連』から触発された作品『DAH-DAH-SKO-DAH-DAH」(1991年初演、1994年改訂版上演)のタイトルは、詩の一節である剣舞の太鼓の連打、風の音、心臓の鼓動のオノマトペからとられたものである。音楽以前の音の粒、音の塊、音が引き裂かれた状態のノイズに満ちた空気の中で、宮澤賢治の鉱物的な精神を通り抜けた勅使川原は、ダンサーとオブジェと照明、そして身体をも含めた空間全体を質的に変化させながら、作品を構成した。初演後、ネクスト・ウェーブ・フェスティバル(92年、ニューヨーク)、UKジャパン・フェスティバル(91年、ロンドン他)など、世界9カ国18都市で上演。モントリオール・ヌーベルダンス・フェスティバル(91年)では、フェスティバルの最優秀賞を受賞。
初演から21年経た今、西洋と東洋の垣根無く精力的に活動を続ける勅使川原が、本作をどのように蘇らせるのか、注目されるところだ。
勅使川原三郎(「ユリイカ」1994年4月号より)
賢治の詩には音楽を感じる。そもそも詩には音楽との結びつきがあるのだと云われているのだろうが、賢治の詩の中に、音楽がやってくる楽器が見えてくるようである。その楽器とは、通常の演奏会で使われる類ではないものも含まれている。目に見えない空気と空気によって作られた打楽器や弦楽器。聞こえない様々な音を採集して作曲した未来派の交響曲。大気に昇っていった馬の嘶きがフィードバックする宇宙の地鳴り。そして無数の溶けた言葉の手風琴。
また賢治の詩において、言葉の発音は、ある意味では楽器から振るえ出る音と同じ役割を果たしているように見える。発声して歌う詩。
その音楽とは、賢治がよくいう大気や空気と親密な関係にあり、僕にとっては、空気と音楽が密接であるというよりむしろ、より強く溶け合っているのであり、否それ以上にそれらは同一のものであると云ってもよいものだと思うのである。
そこにある詩は大気と身体とが音楽的に融合、化合するための試薬である。
賢治の丸い坊主頭は、雪解け季節の湿った溶けた土でできた地球儀であり、タルホの坊主頭のような金属的に無意味を反射させる円さとは異なり、人の住む地から望む意義の稜線を指している。
振動が生まれる。振動によって生まれる。空気によって伝わる振るえが世界観。視線もまた心と大気の振動によって、土に触れた爪先から星座が回転する声の届かない遠方のまた向こうに飛んでいく。
詩的空間内に配置される文字。それらは陳腐な詩に有りがちな空想的数ではなく、具体的な数字がもつ、存在するための数字というか、数の質的力についての直感を感じる。数字に対する音楽的意識。
「見えるもの」は「見えないもの」によって支えられているという僕の考えに対して、賢治の言葉の中から全てではないが、霧の中からの懐中電灯のような直感的な光を感じることがある。それはだまし絵や夢とは全く無関係の、現実の現象や心象の周りに溶けている質的世界を照らすための言葉なのではないだろうか。
勇気の詩というのか、常にそこにはなんらかのエネルギーが詩になっている。あるいは、詩がエネルギーを放射している。それらは、ある時は呼吸器的距離から光学的遠距離へ、青天から鼻水へ、原子から仏へと透明な物質的視線を送っているように見える。