フェスティバル/トーキョー トーキョー発、舞台芸術の祭典
2009年6月以降テヘランで起こったイラン大統領選挙をめぐる抗議運動と激しい弾圧の応酬。それを留学先の英国で知ったコヘスタニは、自身が体験しなかったその事件の真実を、大統領選挙後のテヘランを見つめることを通して探り出す。揺らぐ社会正義、他者の犠牲の上に成り立つ正当性、潜在的な言葉の暴力、女性の社会参加――。一つの疑惑をめぐる男女6人の携帯での会話と出来事の断片は、彼の見たイラン社会の世相、テヘランの抑圧された真実を伝える。シンボリズムとリアリズムの狭間、検閲の網を掻い潜りながら、コヘスタニの作品は、彼の生きる社会を映し出す鏡のように観客の面前に立ち現れる。
舞台は、1月8日、雪が降る真夜中のテヘランの郊外から始まる。4人の若い女性ファーティ、サラ、サゴール、シーデーがジャン・ジュネの『女中たち』を稽古していた。ファーティの婚約者アリが稽古を見に来ていた。彼は兵士として警察署に勤めている。本来ならば、その場にいるべきではないのだが、ファーティが強く言い張ったのだ。イランの法律では兵士が武器を個人の家に持ち込むことが禁止されている。そのため、アリは持ち出した銃とともに、夜明け前に警察署に戻ることを上官に約束していた。しかし雪に足止めされ、そこに居合わせたアブディとともに、その家で一晩を過ごさねばならなくなった。
翌日、アリが目覚めた時、銃が消え、彼一人が家に取り残されていた。
『1月8日、君はどこにいたのか?』はその晩稽古に参加していた6人の若者たちが繰り広げる携帯での会話からなる。誰が銃を奪ったのか? 何のために? 隠語や嘘が飛び交う思わせぶりな言葉――そこに浮かび上がるのは、検閲に脅かされ、疑惑と焦燥に苛まれる現代のイランに生きる若者の現実だ。
経済問題と外交問題を焦点に、既存の保守派政権と規制緩和や言論の自由を訴える改革派が争った。選挙前の世論調査から改革派有利が伝えられる中、保守派が勝利。選挙開始直後から不正が指摘されるなど選挙をめぐる混乱が広まる。テヘランでは学生を中心とした改革派がイラン革命後最大といわれる数十万人規模の抗議デモを起こし、その波紋は地方都市にまで広がった。対して、政府は改革派の拘束などの弾圧により事態の沈静化を図り、現在に至るまで厳しい取締りを行っている。
去年の夏、2年間のイラン不在の後、イランの選挙に伴う事件の1ヵ月後、私はマンチェスター大学で書いていた博士論文を一時中断した。そして、ティム・クラウチ作の『イングランド』という戯曲の翻訳を持ってテヘランに帰国した。私は当時のイランで起こった出来事を下敷きに、この作品を書き直したかったのだ。
私はこの作品をテヘランのイラン・アーツ・センターのギャラリーで上演しようと考えていた。その建物は10年~15年ぐらい前に兵舎だった。以前は武器庫や兵士のドミトリーとして使われていた空間。そこで、この戯曲を上演することで、拡大し続けるイラン社会の圧力に対する批判を試みようと思っていた。そして、上演にあたってこれ以上の説明は不要だろうと考えていた。
だが驚いたことに、上演テキストの読み合わせ後、友達の多くが「なぜ今この作品を?」と私に尋ねてきた。彼らの大半は、私が西洋のメディアやYouTubeの映像を通して見た、2009年6月にテヘランの路上で起こった事件の報道には興味がなかった。私と違って、彼らはその事件をむしろ個人的に経験していた。彼らの問いに対し、私はイランの特殊な状況において、なぜこのテーマを選んだのか、イランの歴史において、今なぜこの作品の上演が必要で自分がどんな変化を起こしたいのか、を説明した。私が話すほどに、彼らはいよいよ沈黙した。
「君は何もわかっていない。選挙中実際に起こったことは、ただ『武器を下ろせ』と言ったり、全ての兵舎をアートギャラリーに変えることで解決するなんていうレベルの話ではなかった」
では、彼らの言う真実とは何か? 夜中まで続いた議論の最中、友達の一人が言い当てた。「この作品は私たちが経験したこととなんの関係もない。君はその時にここにいなかったのが真実だ。選挙の前であろうと後であろうと、その時その路上にいた人の話をどれだけ聞いたとしても、インターネット上で携帯電話から撮られた映像をどれだけ見たとしても、君が――例えば何百万人もの無言のデモの最中――私たちが経験したことを、演劇や他のメディアを使って表現することは不可能だ。演劇は、24時間映像だけ流して事件を伝えるニュースチャンネルとは違う。だからこそ、君自身が本当に経験したことをテーマにしたほうが良いと思う」
事実、イギリスでの生活は私の自分の国に対する見方を変えた。多くの西洋人と同様、私は自分の国を24時間流れるニュースチャネルが提供する映像、そのジャーナリスティックな目を通じて見るようになっていた。問題を一般的に分かりやすくするため、各事件に独特な形容詞をつけることにしていた。例えば「平和的」、「暴力的」、「支配的」、「見捨てられた」、このような単語を利用し、それぞれの出来事について私の判断を読者/観客/聴衆に押し付けていたことに気づいた。
「平和的デモ」
「暴力的衝突」
「政府の支配的視点」
「見捨てられた国民」
こうした自分の感覚の変化に気づいてから、新しい上演台本を書き始める前に、最近の人々の態度の変化を詳しく観察してみようと決めた。
数カ月間テヘランの通りを歩きながら、2009年のテヘランの真実の姿を覆い隠すあらゆる制約について考えた。そして、私は『1月8日、君はどこにいたのか?』を純粋にある種のルポタージュとして発表し、そこに解決策を提示しないことにした。だから、この作品は少し複雑に見えるかもしれない。なぜなら、私が2年間に経験できなかったあらゆる出来事への応答をコラージュにした作品だからだ。むしろコラージュにしたこと自体が、舞台上で起こっていることを少し追いにくくしているかもしれない。本音を言えば、私はこの作品を書いている間(社会の公正さについて考えながら)法や規律についてはあまり考えていなかった。私はむしろこの作品を、自分の国のある時期のある記録、どんな歴史の教科書にも載らないような、この歴史的な時代に生きる人々が置かれた人間の条件についての記録として著したのである。
舞台上の役者の身体は近接しながらも、相手との底知れない距離感によって引き裂かれているようだ。その距離は携帯の電話で話される言葉によってのみ埋められる。イランでは電話は盗聴されうる――イスラム共和国における偏執的な厳格さ。コヘスタニの演劇は決して直接的な暗示はしない。電話から明らかになるのは、2009年6月の大統領選挙に続く血生臭い事件である。――一つひとつのサインがコヘスタニの演劇においては重要なのである。話されないこと、規制されていることを示すことで、この作品が持つ暗示の力はいっそう強くなっている。
Hugucs Le Tanncur(Les inrocks)
おかしな状況である。冬空のもと、美しいペルシア語でイラン人たちが話している。彼らはただ居場所について探りあっている。何の誇張もなく、叫びんだり大声で話しているわけでもない。集団心理の病のようなものが、といってもヒステリーではなく、その空気から感じられる。素晴らしい話法演出の成果である。この作品では公正さと嘘に関する問い、独裁政権では決して明らかにされない問いを取り上げている。イラン人劇作家・演出家のアミール・レザ・コヘスタニは失敗に終わってしまったテヘラン市民の抗議運動に直接加わらなかった自身に批判的である。しかし、私たち西洋の観客には、この毒された空気を強いメタファーとして、イラン市民を疑いの時代へと陥れた独裁政治体制を肌身に感じることができる。濃密で、シンプル。ビジュアル的にも美しい、素晴らしい作品である。
Christian Jade(www.rthf.de)
今日『1月8日、君はどこにいたのか?』は近年の大統領選挙戦以来イランが直面している社会的停滞感を再現するどんなドキュメンタリーにも勝る"スリラー"である。
決して感情的な批判に陥ることなく、コヘスタニはアヤトラ(イスラム教の高僧の尊称)のコントロール下にあるイラン社会に存在するフラストレーションや非合法な暴力を観客の前に提示してみせる。誰もが誰もに疑いを持つ。中でも、警察や司法に対して。もはやモラルは存在しない。誰もが自分のためにだけ動く。テヘランを舞台にしたこの作品にみられるただひとつの希望は、男性的権威社会において、逆説的に、頭を覆い隠すスカーフにもかかわらず、女性の存在が明確に際立っていることである。
Catherine Makereel(Le Soir)