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福島へ。境界線へ。見えない風景、聞こえない言葉を探す旅の記録

アンティゴネーへの旅の記録とその上演

マレビトの会 [ 日本 ]

11月15日(木)~11月18日(日) にしすがも創造舎

本プログラムについて

アンティゴネー→東京→福島
都市と物語の古層へ、マレビトの会の上演の旅

2009年『声紋都市―父への手紙』(F/T09春)、10年『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』(F/T10)と、未曾有の出来事を体験した都市と新たな視点で向き合う「ヒロシマ―ナガサキ」シリーズに取り組んできたマレビトの会。東日本大震災とそれに続いた原発問題という第二次大戦後かつてない危機と直面するこの国の状況下で発表する新作『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』はギリシア悲劇『アンティゴネー』と、松田の書き下ろす戯曲を手掛かりに、アンティゴネー、東京、福島を巡る、「旅」の公演だ。

旅の記憶・記録を可視化する、2つの上演のかたち

 本作ではF/Tでの公演前に、もう一つの上演の期間を設け、新しい観劇の場を創作する。
 まず、松田正隆が書き上げた戯曲をもとに、東京から福島へと向かう旅についての上演が7月から始まる。Facebook、Twitter、ブログ、ウェブサイト、インターネット上に現れる登場人物たちの痕跡。観客は複数のメディアを介し、現実に侵入したフィクションの世界に触れていく。そしてF/Tでの公演では、『HIROSHIMA-HAPCHEON』で用いた展覧会形式と、現実の都市に突如フィクションの世界が現れる市街劇『マレビト・ライブ』、そして近年マレビトの会が描いてきた「報告する演劇」の形式を交差させる。夏から続いてきた上演の旅を俳優が「再現」し、観客が初めてそこで物語の全容を体験するというプロセスを作り出すのである。
 2つの上演から立ち現れる本作は、戯曲と共に旅をし、メディアとリアル両方向からの経験を通して上演の現場に出会う観客が、この作品をどのように受容していくのかを考える試みともなる。
 本作は、このような仕組みを用い、震災後私たちが突き付けられた、メディアと人間の関係を擬似的に可視化しようとする。際限なくメディアが発信し続ける、虚構と現実、記憶と記録のレイヤーを通りぬけ、観客は演劇によってその実態といかに対峙することができるのか。そしてその実態を前にして、いかに現在を語る言葉を生み出していくのか。これはその可能性を探るマレビトの会の経過報告である。

語りえない出来事を語るための、もう一つの言葉

 法の掟と身内の死との間で揺れ動き、王と対立した王女・アンティゴネー。権力によって禁じられた埋葬と許諾された埋葬の差異、そしてその圧倒的に理不尽な出来事に直面した一人の人間の選択という主題を扱うこの物語は、これまでも人間の倫理を問う作品として、哲学、精神学などの分析の対象となってきた。このアンティゴネーの物語が、福島で起きた原発事故を経た今ほど、現実の世界と否応なく重なり合い、リアリティを持って大きく我々に問いかけてくることはないだろう。
 また、インターネットを中心とする情報メディアの発達に伴い、鮮明なビジュアルと交錯するさまざまな情報がリアルタイムでことの次第を伝え、その巨大で強大なイメージに反応し囚われ続けているとも言える現在。その中で演劇はどのようにしてそのイメージを語り、共有することができるのか。
 このような視点から本作は、いつかアンティゴネーがそうであったように、国民と国家、過去と未来、男性と女性など、その狭間の世界の中に、もう一つの言葉を生み出そうと試みる。
 私たちは、何を知り得たのだろうか?そこから何を語り得るのだろうか?

【アンティゴネ-とは】

 ソポクレスの悲劇『アンティゴネー』に登場するテーバイの王女。父はオイディプス、母はその妃で母親のイオカステ。
 父オイディプスの死後、アンティゴネーの二人の兄は王位をめぐって争い、最後には相打ちとなって二人とも戦死してしまう。その後王位についたクレオンは、長兄を手厚く葬り、次兄を反逆者として、その埋葬を法によって禁じた。これに怒りを覚えたアンティゴネーは、法を犯すことも顧みず、自ら敵陣に乗り込み兄の死骸に砂をかけ埋葬を行った。その結果彼女は死刑を宣告され、最後には幽閉された洞窟で自ら命を絶つことになる。
 倫理と法、個人と集団の対立をテーマとするものとして、現在もさまざまな観点から議論されている。

創作ノート

 
「アンティゴネーへの旅の記録とその上演」

 私たちマレビトの会はこの夏から秋にかけて『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』という演劇作品の上演をおこなおうとしている。これは、その上演に先立ち、作品創作の指針となるべく書かれた創作ノートである。

 この作品は、これまでのマレビトの会のヒロシマ・ナガサキシリーズ(演劇作品『声紋都市-父への手紙』『PARK CITY』『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』)と2011年京都、東京にて上演された習作マレビトライブ『N市民』の延長線上にある作品として企画され、昨年の三月十一日の大きな出来事とその記憶(東日本大震災とそれにともなう福島第一原発の事故の影響下にある場所と時間)を主なモチーフとしている。

 死んでこの世にはいない人々の言葉は私たちには理解できない言葉だろう。それを私たちの言葉へと翻訳するときには、私たちのなじみ深い母なる言葉は壊され、まるで見覚えも聞き覚えもない異国の言葉のように響くだろう。それゆえ「死者の言語」から「生きている者の言語」への翻訳は私たちに共有可能な意味の伝達ではなく、そのどちらでもない言葉の生成となるであろう。

 もうひとつの言葉を生み出すこと。これが私たちの演劇作品『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』の主題である。

 なにものかが「なにかの出来事」を知り語るときに、知り語る側は、語られる側に対して暴力的なふるまいにならざるをえない。語る側は、知り語ることによって、知られ語られる側との差異を表明する。わたしはあなたとともにある、だからあなたの言葉を、そして声を聞かせてください、という内容の発言をしながらも、「私たち」は「彼ら彼女ら」とは違うのだ、という二つの位相の差異の提示を暗黙のうちに(行為遂行)するのである。

 また、その「なにかの出来事」が、知り語る側のまったく想像力の及ばないものであれば、それは「私たち人間」には理解できないものとして、どのように語るかさえも思い至らないであろう。そのとき、その語りえない出来事は、人知の及ばない「崇高なもの」として対処されることになる。そのとき「崇高なもの」をめぐる神話が語られるのである。その神話によって、それを理解できるものとそうでないものが選別される。

 アンティゴネーの行動は常規を逸している。しかし、その行動は、理性的でもある。兄と兄に繫がる大勢の死者たちと結婚しようとし、自殺する。すべきことをし、その自らのなした行為について語るべきことを語り、坦々と死んだのである。

 圧倒されるような理不尽な出来事の前で、このアンティゴネーの冷静な狂気はなにかをもたらすに違いない。それは、言葉を失いかけている私たちがやさしげで安逸な言葉で物語をつくることに流されるのをおしとどめ、戸惑いのうちにあることに踏みとどまらせ思案させる処方箋かもしれない。アンティゴネーが主張する言葉には、打算がなく、粉飾がない。純粋でもなく、とくに美しくもない。クレオンとの政治的な言葉のかけひきを、ただ死者たちのためにのみするのである。私たち生きているものの使う言葉で死者たちのほうへ逝こうとしたのである。

 私たちは、彼女へ向けて旅をすることにした。彼女の言葉を身体で読むために。

 この演劇は、その旅の記録とその上演である。

 この作品では二つの種類の上演が行われる。

 第一の上演では、8月から10月にかけて現実の都市において出来事が起こる。上演を提供する側からすれば、あらかじめ書いておいたシナリオによる出来事を起こすのである。それは、ある意味、旅をする上演である。東京から福島市・飯舘村を経て南相馬市へといたる「移動する演劇」のための上演となるであろう。

 しかし、この上演の場には基本的には観客はいない。観客(受容者)は、ある複数のメディア(YouTubeなどの映像記録・ウェブ上のツイッターやFacebook・音声情報・独自の紙媒体等)を通してその上演の記録を知ることになる。(もちろん、その上演の起こる場所へ行くことも可能である)

 第二の上演は、11月ににしすがも創造舎において行われる。基本的に、第一の上演記録(移動演劇における出来事/エピソード)の「再現ドラマ」を上演するのである。この上演で観客ははじめてこの作品にライブで立ち会うことになる。

 これは、この二つの上演の関わりの上で成立する演劇作品である。

 この演劇においては、上演は、おこなわれてはいるのだが、よくは見えない。この上演は読まれる。観るのではなく読むこと。第一の上演では主に出演者によって書かれた上演の記録(報告)を読むのであり、第二の上演では観客の眼前に出現する出演者の顔を読むのである。

 この作品では、今日のインターネットやマスメディアによって共有可能になる公衆の意識、あるいはこの世界の現実の与えるさまざまなイメージと、常に出来事はすでにどこかで起きており私たちはそれに事後的に付き合わざるを得ないという場合の、その過去の取り返しのつかない出来事との関わりようを問いかけたいのである。

 あの盲目の予言者テイレシアスが述べたように、私たちはいま見えることでいまだに見えないでいることに気付いていない。見えるものによって、過去の出来事を見失っている。

 あらゆることはもうすでにあったことである。それゆえ、これからもそれがないとは限らないのだ。だが、私たちは、その「はざま」にあるゆえに生きている。もうすでにあったことは見えないし、これからあるかもしれないこともほんとうは見えない。しかし、それら「不在の像」は、私たちのいる場所にイメージ(映像や想像、そしてイメージを喚起する言葉)として紛れ込みほとんど見分けがつかない。

 私たちの身体はそれら「不在の像」とのつきあいかたを多様化する必要に迫られている。

松田正隆 マレビトの会