フェスティバル/トーキョー トーキョー発、舞台芸術の祭典
昨年、F/T主催プログラムに初登場し『レッドと黒の膨張する半球体』を上演した神里雄大率いる岡崎藝術座。震災後の日本人の姿を「自らを進んで見下して笑う」(当日配布パンフレット・神里コメントより)という態度で捉えようとした同作は、多くの波紋と議論を呼んだ。移民問題、アメリカと日本の関係、そして原発事故などの社会問題が、時にデタラメにさえ感じるような大胆不敵さで散りばめられたテクスト。東日本大震災以後に発表された作品で神里が取ったこの姿勢は、思考を揺さぶる場として演劇が社会と結びつく本来の関係を率直に体現し、大きなインパクトと成果を残した。 そして今年、神里雄大、岡崎藝術座はふたたびF/T主催プログラムに登場する。今回神里がキーワードとするのは「隣り」だ。 今春、ドイツ・ベルリンビエンナーレで用意されたディスカッションプログラムに参加した神里は、その足でベルギーのクンステンフェスティバルを観劇、その後モロッコへ旅行するなど、三週間にわたって初めてのヨーロッパ・アフリカを体験する。他者との出会いが連続する旅の過程、経験から、神里が次なる創作のヒントとしたのが「隣り」なのだ。
「隣にいる/あるもののことをどれだけ知っているのだろうか。知らないままに評価していないだろうか」彼の投げかける問いは直感的なようだがシンプルで鋭い。そして「隣に誰もいなければ、評価したり反省したり、ましてや自己を認識することさえできないだろう」と語る神里が今回選んだ方法は、なんと韓国に自らの身体を一定期間移し、創作することだ。歴史、文化、政治、経済、地理、どこを切り取っても日本にとって密接な隣国であることは間違いない韓国の地で、神里は再び自身の姿、日本という国の姿をかたどろうとする。 隣から隣を見ること、隣から自分を見ること、見られること、自分から隣を見ること――われわれの関係性を形作る原理とも言える「見る/見られる」の往復作業から、今歴史の転換点に立っているはずの私たち日本人の自画像が照射されることになるだろう。その姿に目を背けるのか――その問いは鋭く、客席に迫る。
隣の芝は青い、というのはそのとおりで、隣のほうがよさそうとか隣のあれはなんだろう自分もほしいとか、それが反転して隣のようにはなりたくない、とかやってきた。隣はいつでも「自分ではないもの」だった。そしてそれは本当だろうか。
つまり、このように隣というとき、それはもう隣の人が何者か理解しているのだと僕は思っている。隣の芝が青いだなんて、だってそれが黄色かったり赤かったり、自分が芝の色はこうあるべきだと思っているものからはるかに逸脱していたら、気味が悪くてうらやましがったり優越感を感じたりなんてできないだろうと思うから。だから隣は、「自分ではないけど、なんかわかる」ものであると思われる。
それが悪いとか言っているわけではない、最近なんでも問題意識を持ってしまうのも考えもので、少しは肯定的になろうよと思うこともある。とにかくそれは悪いことではないし、そうじゃなかったら、気味が悪くて生活どころじゃない。隣の芝は......、なんて悠長なこと言っている場合ではない。
それに加えて、知る努力もしないで気味が悪いだの悪口を言うのはだめだと思う。だから努力をしなければいけない。もしも隣がいなかったら、と考えるとぞっとする。もしも隣がいなかったら、自分はどうして自分を評価したり反省したりそもそも認識したりできるのだろうか。そんなことできるのは世界中でアメリカ人だけである。そんな話になるかなと思う。
余談だが、最近僕は隣国の言葉くらいしゃべれてもいいだろうと思って、韓国語を勉強し始めた。韓国語は日本語と文法も似ているし、思いのほか習得が簡単だと聞いてのことである。この作品が、韓国のことを(主にそれだけを)扱ったものになるとは考えていないけど、せっかく安く行けるので、稽古の一部を韓国でやってみようと思う。僕は韓国のことをなにもしらない。隣国韓国との間には、隣の地域、都や県、市、町、マンションの隣の部屋とか、たくさん隣があるけど、そういうものを知る努力やもっと言えば、理解できない苦しみ恐怖みたいなものをもっと知りたい。あらかじめわかっていることなんか、ないと思うけど、あったとしたらそんなもの興味もない。