TODO EL CIELO SOBRE LA TIERRA (EL SÍNDROME DE WENDY)
地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)
会場 | 東京芸術劇場 プレイハウス |
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日程 | 11/21(土) 18:00 11/22(日) ☆18:00 11/23(月・祝)14:00 ※受付開始は開演の1時間前、開場は30分前 ☆17:10-17:40、会場にてプレ・パフォーマンストークあり 田尻陽一(関西外国語大学名誉教授)× 横堀応彦 (ドラマトゥルク、F/T15ディレクターズコミッティ) ※開催日のチケットをお持ちの方のみ入場可 |
上演時間 | 2時間40分(休憩なし) |
上演言語 | スペイン語 (一部英語・北京語・ノルウェイ語・フランス語) 日本語・英語字幕あり |
チケット | 一般前売 全席指定 5,500円(当日+500円) |
先行発売 | ¥3,800 |
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ペア(1枚あたり) | ¥4,950 |
5演目セット | ¥4,400 |
3演目セット | ¥4,700 |
学生 ※当日券共通。当日受付で要学生証提 | ¥3,000 |
高校生以下 ※当日券共通。当日受付で要学生証または年齢確認可能な証明書の提示 |
¥1,000 |
一般前売開始:2015年9月27日(日)10:00より
先行割引販売:2015年9月23日(水・祝)10:00~26日(土)19:00 ※4日間限定で、一般前売料金から約30%OFF
【プレイガイド】 東京芸術劇場ボックスオフィス チケットぴあ[Pコード:561-087] カンフェティ
ネバーランド=ウトヤ島。ユートピアと殺戮の島をつなぐ、魂の詩(モノローグ)
性、暴力、狂気などをモチーフに、人間の魂の暗部を探求し、詩的な表現へと昇華させる鬼才アンジェリカ・リデル。過激で美しいその舞台は、アヴィニョン演劇祭を始め、ヨーロッパ各地の主要フェスティバル、劇場で上演され、多くの観客に衝撃を与えている。
今回が日本初演となる本作の主人公は『ピーターパン』のヒロイン、ウェンディ。ネバーランドと多くの若者が死んだ銃乱射事件(2011年)の現場ウトヤ島、年老いた男女が路上でワルツを踊る上海――3つの場所をめぐりつつ描かれるのは、少女でありながらピーターパンの「母親」を演じ続ける彼女の混乱と孤独だ。若さが失われる恐怖、母性神話への憎悪……それらはやがて、リデル自身が演じるウェンディの怒濤のモノローグとなり、客席を圧倒する。時に激しく、時に噛み締めるように、止めどなく吐き出される言葉の先に、私たちは何を見出すだろう。
F/T15公演 舞台写真
コメント
泥だんご状になった毎日の残酷に、リデルの圧倒的な独唱のステージが聖水となって降り注ぐ。私たちに託された試練は、残された泥水をかき分けてその《向こう岸》に行くことなのかもしれない。
毛利悠子 (美術家)
異国の地でも受け入れられる普遍的な「演劇」はある。アンジェリカ・リデルはそういった作品をつくる演出家の一人なはずだ。ハイソな演劇愛好家だけではなく、もっと一般的な客にまで、この「演劇」が日本で届くことを祈る。
三浦大輔 (ポツドール主宰・劇作家・演出家・映画監督)
演劇って地獄みたいなものね、
と おっしゃるリデルさん
地獄のようなウェンディ症候群
楽しみですね
彼女のインテリジェンス
みんなで体験しましょう
夏木マリ
ウェンディになることを拒み、奇形化したピーター・パンといまだ老婆の羊水のなかで永遠に踊り続ける私たち。
演者も観客も、みな死産したこどもたちである私たち。
鰐の剥製たちは、腐ることも高級鞄になることもできず宙づりにされたまま。
「ウトヤ島」で銃弾に当たらなかった私たち。
選ばれなかった私たち。
「中国最大の都市」と「傷口」という意味を併せ持つ「上海」。
傷口に集う蛆虫のような私たち。
永遠のこども部屋なのか、子宮なのか、地獄なのか、カード全てがジョーカーであるトランプで遊び続ける私たち。
「子供はもう出る時間よ」と言い来てくれる両親もいない私たち。
ピーターと出逢った美しい瞬間だけを反芻し続け老いる私たち。
ウェンディになることを拒み、奇形化したピーター・パンといまだ老婆の羊水のなかで永遠に踊り続ける私たち。
ヴィヴィアン佐藤(美術家/非建築家/ドラァグクイーン)
ムービー
アーティスト・プロフィール
アンジェリカ・リデル Angélica Liddell
作家、演出家、俳優
1966年スペイン生まれ。アーティストネームである「リデル」は、ルイス・キャロルの小説「不思議の国のアリス」のモデルであるアリス・リデルからとられた。1993年にグメルシンド・プチェと共にアトラ・ビリス・テアトロを設立。性、死、愛、権力、狂気、宗教などを通じ、個人の意識や魂の奥底を見つめることから人間や社会をとらえる作品を作り続けている。混沌と美が共存する詩的かつ過激な舞台は、2013年にオープニングを飾ったウィーン芸術週間をはじめ、アヴィニョン演劇祭、パリ・オデオン座などヨーロッパの主要なフェスティバルや劇場に招聘され、ヨーロッパの演劇シーンで常に高い注目を集めている。また、劇作家、演出家であると同時に、俳優としても自身の作品に出演し、強烈な印象を残している。2012年「La casa de la fuerza」で「スペイン劇文学国家賞」を受賞。また、2013年にはヴェネチア・ビエンナーレ国際演劇祭において「銀獅子賞」を受賞している。
アンジェリカ・リデル インタビュー
真実という名の禁忌を暴く「魂のポルノグラフィー」
演出家・俳優・詩人のアンジェリカ・リデルは「真理の受難者」だ。偽善と体裁が猛威をふるう、見てくればかりの現代社会で、官能と精神という眼にみえないなにかを舞台に結晶化しようとしてきたがゆえに、結果、因襲からはずれた異端者として現代社会から排斥されてきた。それゆえ、母国スペインの少なくないフェスティバルは、リデル作品の上演を控えてきた。93年に設立されたアトラ・ビリス・テアトロ(ラテン語でアトラ・ビリスは暗い感情の意)の転機は2010年に訪れる。アヴィニヨン演劇祭で『El ano de Ricardo(リチャードの年)』と『La Casa de la fuerza(力の家)』を上演し、フランスの知識人たちに衝撃を与えてから、おもにアンダーグラウンドで評価されていたリデルの活動領域は一気に世界へと広がったのだ。
「憤怒のスペイン人」(ルモンド紙)「観客を恐怖に陥れる」(リベラシオン紙)と、フランス各紙はこのカタルーニャ出身の演出家の登場をセンセーショナルに煽った。だがリデル本人は、なにも「センセーショナルなこと、前衛的なこと」をするつもりはない、とじつに淡々としている。「中世の典礼劇や神秘劇」に影響を受けているという彼女は、新しいものよりもむしろ古いものに惹かれ、例えば、ニーチェ、バフチン、バタイユ、アルトーなどを引用しつつ、まるでベッリーニの宗教画のように戦慄的な美しさを誇る「残酷な美学(Aesthetico Brutal)」の画布を舞台上に描きあげていく。
18歳まで修道院付属学校で教育を受けたというリデルの舞台は、端々まで聖像学の記号に溢れ、聖書からの引用が散りばめられている。だが彼女が崇拝するイングマール・ベルイマンの映画と同様、彼女の舞台にも、キリスト教を否定しつつ肯定を試みる、という強烈にアンヴィバレントな力学が働いている。例えば7月に東京で行ったワークショップのノートには、以下のように記されている。
「わたしのケツとわたしのアソコとわたしの口の中に神がいるのかもしれない、神は滴(したた)る精液となり、わたしは女神となる、禁忌によって聖を得て」
この痛ましいほどの引き裂かれかたは、無宗教な日本人にはなかなか理解しがたい。だが、リデルはあえて善/悪、光/影、聖/俗の対立軸を保ったまま、そのはざまの辺獄に身を置いて、矛盾撞着な板挟みを原動力に、恩寵も救いもない現実世界の腐った真実を吐きつづけていく。
「わたしは毎公演、モノローグで、自分のなかにあるもっとも忌まわしいものを吐き出そうとしています。心のなかにある糞を吐き出そうとしているんです。そういう意味で、わたしはいつも舞台上で拷問にかけられているといえるかもしれません。ただ、そこには快楽もあります。バタイユが言うように、究極の苦痛はエクスタシーにもなり得るのです」
『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』 (2013年ウィーン初演)でも、リデルは自らを恍惚的な拷問にかける。主人公に扮した彼女は終盤、ウェンディの愛らしいドレスを脱ぎ、こざっぱりとした黒い衣装に着替え、約1時間、心のなかにある糞を吐ききるべく強迫観念めいた呪詛の言葉を叫びつづける。特に本作では、ウェンディ・シンドロームという副題が示すように、他人に見捨てられたり、傷つけられたりすることを怖れるあまり、まるで過保護な母親のようにまわりの面倒を見てしまう女性に対しての、生理的な嫌悪と同情の哭声がないまぜになって放たれていく。
「わたしは自分の母に対して、痙攣的な嫌悪感を抱いています。それは死にゆく命であるわたしを産み落とした親に対しての憎しみです。またそれは子を持つことで周りに無条件の敬意を払ってもらおうとする、あらゆる母親に対しての憎しみでもあります。その憎しみを、わたしは母性の象徴であるウェンディに投影している。ただわたしはウェンディにシンパシーも感じています。彼女はいつも見捨てられる恐怖を抱きながらピーター・パンに接していて、実際、最終的には老いてピーターに捨てられてしまう。その見捨てられたウェンディに、わたしは自分の姿を重ねることができるのです」
老いたウェンディが疎外されるネバーランド、16歳から26歳の若者ばかりが銃乱射事件で殺されたノルウェーのウトヤ島、そして若さを取り戻そうとするかのように老人が社交ダンスにふける上海の街並み。この三つのトポスを重ねあわせることで、リデルは倍加的に「若さ喪失」の恐怖を強調していく。リデルにとって若さの喪失とは、端的に死への接近であり、つまりは「愛されない人間になること」を意味するという。
「老いとは、愛を失うこと。また、将来的に愛される希望も失うことです。さらに老いは、三島由紀夫が言うように、情感が浅くなることも意味します。舞台を介してわたしは、観客と出演者の苦痛を掘り下げ、魂の深奥から、感性を研ぎ澄ます儀式を構築します。つまり演劇とは、疵口から噴き出されてくる、エネルギー解放の儀式なのです。しかし老いは、このような鋭利な情感を無残にも略奪します。ですから老いに美しさなど、微塵もありません」
もし仮に、道徳的社会的禁忌を故意に犯す文学をポルノグラフィーと定義するなら、リデルの舞台は、彼女自身が告げるように「魂のポルノグラフィー」といえるだろう。彼女の舞台は、観客個々が「見まい、見まい」とひた隠しにする真理を、あえてもっとも痛ましい疵口から、遠慮会釈なく暴いてしまうのだから。原則(礼節)と現実(禁忌)のあいだの不一致に対して、目を瞠るかまえなくしては、リデルの作品は受け止められない。上述したリデルの言葉に、脊髄反射的に腹立たしさを覚えた人は、要注意といえるだろう。欧州でも途中退席者が後を絶たない禁忌を犯す儀式が、日本でどう受け止められるのか楽しみだ。
(インタビュー/文・岩城京子)
アンジェリカ・リデルによるワークショップ (2015年7月24~30日)レポート
毒ぐもに噛まれた、その身体に寄せて
神は言われた。「私は人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく家畜も這うものも空の鳥も。私はこれらを造ったことを後悔する。」
創世記6:07
もしあなたが創世記の前に戻れたとしたらどのように世界を作りますか? また、どのように世界を破壊しますか?あなたは何が嫌いですか?あなたは今まで誰か(または自分)を殺そうとしたことがありますか?
フェスティバル/トーキョー15で予定されている初来日公演に先立って、スペインの劇作家・演出家アンジェリカ・リデルが7月に来日し、一週間にわたって東京でワークショップを行った。参加者募集の際に、リデルが希望者に向けて上記のような質問を数々発信した。応募者は応募資料の一部として、これらの質問に対し何らかの形で返答する映像をリデルに提出した。選ばれた11人のワークショップ参加者はこのワークショップに相当な覚悟の上で臨んだだろうと想像する。彼らの勇気と挑戦精神に感心する。
リデルの今後の新作に向けた、今回のワークショップがテーマにしているのは聖書の創世記。神が人間を創造したことの後悔からアプローチしていくリデルは、何世紀にもわたってアーティストたちを刺激したこの物語から何を見極めようとするのか?新作のコンセプトを解説する時に彼女はこう話す:世界、そして人間の「始まり」を考えるならば、その対極である「終わり」も含めなければならない。その観点について、ルーマニアの哲学者エミール・シオランを引用する。シオランによると、神が創造主であるとすれば、人間を創造された世の破壊者であるという。創造による破壊と破壊による創造、その循環。これまでに多くの哲学者が扱ってきた普遍的な観念、リデルは作品創作において、どのように具体化させていくのだろうか?
ワークショップの初日で早速本題に突入。リデルの自己紹介と作品解説の後に、参加者との話し合いが始まる。あなたは誰かまたは自分を殺したいと思ったことありますか?お母さんに対して憎しみを感じたことありますか?その質問に対して、参加者一人一人が順番で答えていく。話し合いの中で自殺願望や家庭内暴力、普段、お互い知らない同士で絶対に共有しない話題が山ほど出てくる。このような会話が進んでいく間、参加者の精神的な負担を感じられる場面も多いが、途中で雰囲気を逆転させるようなリデルのコメントによって、笑いが起きたりする明るい瞬間も少なくない。
話し合いの内容が身体的な動作に展開される、次のエチュードに進む前に、リデルがこの新作において強い影響を受けた、南イタリアの地域で中世から続いているという風習を紹介する。当地域の村々で誰か(特に女性が対象だったそうだ)が精神的不安・狂気的な状況に襲われたら、本人がタランチュラにかまれたとされ、ある特定の儀式が行われる。かまれたとさせる人の家または村の広場に演奏者が訪れ、楽器で生演奏する。「かまれた」人が音楽にのって、激しい踊りを、疲れ果てるまで続ける。激しい踊りによって、体に広がっているタランチュラの毒を全てとり出すという設定の習慣は、実際に毒ぐもに噛まれなくても、身体を精神的な「暗」から浄化する儀式として残っているそうだ。
この儀式と、翌日、ワークショップの始まりに行われるエチュードが深く関係しているように見える。その日のテーマ設定:「世界の終わりの日」。創世記からアダムとウエヴァが登場。アダム役はリデルと共に創設メンバーでもあるアトラ・ビリス・テアトロのメンバー、シンドさん、エヴァ役はさいたまゴールド・シアターから加わった79歳の神尾冨美子さん。リデルから指示を受けて、参加者全員がアダムを囲んで床に横たわって、長い時間痛みや苦しみの身振りを繰り返していく。彼らの体が小さな震えから大きい痙攣や叫び声まで展開していく様子はクモに噛まれて疲れ果てるまで踊り続ける南イタリアの人々と共通する部分が大いにある感じがする。横に座り、その場面を観ている私の頭の中に、様々なイメージが力強く浮かび上がってくる。自分が野戦病院で死に掛けている兵士たちの風景を見ているのか、昔ながらの、患者が囚人のように扱われた精神病院の部屋を見ているのか、この場面はとにかく観ている側に耐え難いほど大きいなインパクトを与える。途中から、リデルがバッハの教会音楽のアリア「憐れみたまえ わが神よ」を流すと衝撃に悲しみが混じってきて、気持ちが更に複雑になる。そのシーンがしばらく続くと、横からエヴァがゆっくりとグループへ入っていき、パフォーマー一人一人の体を触り、激しい動きを静めていく。一瞬、あ、開放されたと思えば、リデルが次の指示を出す。「20分間、一つの簡単な動作を続けて下さい」。既にヘトヘトになっている参加者がいかに自分の体力や精神力に挑戦する場面を、この数時間のワークショップで絶え間なく目の当たりにする。疲れきった身体、考えられなくなった頭が生み出す、美しい動作・身振りをリデルが深く追求している。自己破壊と創造。その境の真上に生まれる風景が観ている側にも痛感するほどダイレクトに伝わってくる。
ワークショップの最終日に行われる発表会の内容はワークショップの前半で行っていたこととそれほど変わらない。初日から展開されていた参加者が身体の限界に挑む、永遠に一つの動作を繰り返していくシーンや痙攣するシーンがそのまま残っているが、ワークショップが進むにつれ、リデルがそれぞれの身体的「エクササイズ」に、象徴的な人物の登場と行為を織り込んでいく。それによって、全体の流れにより強い連想性が生まれてくる。そこで、3人のエキストラの役割は非常に大きい。冒頭に登場し、妊娠九ヶ月のお腹を観客に見せる新鋪(あらしき)美佳さん。激しい身体の動きに疲れきった参加者を時になだめて時に攻撃する、年配のエヴァ役の神尾冨美子さん。舞台上でパフォーマーの皆さんに差し出される3ヶ月の赤ちゃん、花道くん。ここで構成されていくのが、体の限度を超える身体性と強烈な視覚表現を通じて観客に強いインパクトを与える、生と死、地獄と慈悲、創造と破壊の循環の物語。しかし、その中でリデルは「演出家」らしい振る舞いを全くしない。彼女が客席に座り、パフォーマーの行動を観察しながらメモをとるような瞬間は一切ない。最初舞台の横をうろうろと歩くリデルは途中から舞台上の流れに介入していく。疲れ果てたパフォーマーたちの間を歩き回り、痙攣し続ける彼らの顔に水を流したり、彼らの体に向けてケータリング用だった筈のお菓子を投げたりする。激しい痙攣のシーンが終わると、彼女は床にできた水溜り(または汗)を雑巾でゆっくりと拭いていく。魔女にも女司祭にも見えるリデルはこの舞台上の宇宙の一部であり、彼女の存在をここから離して考えることはできない。観客の目の前で展開しているのは、「演出作品」よりも儀式そのものかもしれない。撮影の手段で言えば、リデルは人間の抱えている恐怖、不安、悔いなどにダイレクトにズームインするが、ズームアウトのタイミングは中々ない。観客は、距離感を保てず、開放がないまま、舞台上の状況に対する自分の拒否感と共感と真正面から向き合わざる終えないことになる。舞台上で起こっているのは間違いなくパフォーマーに対しても観客に対しても暴力だ。そこでリデルがワークショップ中に話したことを思い出す。「現実での暴力はただの暴力だ。しかし舞台上でのみ暴力は美しいものになりうる。」それはまた南イタリアの毒ぐもの儀式に結びつくかもしれない。毒クモの咬傷によって生じた狂気と、解毒のプロセスが踊りとして現れ、美的なものに変容していき、儀式を通じて個人の範囲を超えて、村社会全体で共有される。
このワークショップ発表会で見せてくれた、いや、全身で体験させてくれたパフォーマンスは、エチュードを重ねたり、色々な手法を試したりするような「ワークショップ」のレベルではない。会場で展開していたのはリデルの意図と参加者たちの意欲・挑戦が恐ろしいぐらい働きあうような80分の出来事。アンジェリカ・リデルという演出家は「ワークショップ」と言っても大作しかできないかもしれない。この一週間のワークショップは大作の始まりだったとすれば、その大作をいつかどこかで東京の観客に一般公開で見せることができることを願いたい。
(レポート/文・ウルリケ・クラウトハイム)
キャスト/スタッフ
作・演出・美術・衣裳 | アンジェリカ・リデル |
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出演 | ファビアン・アウグスト・ゴメス・ボオルケス、シエ・グイニュー、ロラ・ヒメネス、ジェニー・カーツ、アンジェリカ・リデル、シンド・プチェ、ジャン・チーウェン、マキシム・トロウセット、イエ・サイトー、フェイス(室内楽アンサンブル)、ドン・ウー・シュエイン(中国琵琶) |
音楽 | チョ・ヨン・ムク |
照明 | カルロス・マルケリエ |
照明操作 | オクタビオ・ゴメス |
音響 | アントニオ・ナバーロ |
技術監督 | マーク・バルトロ |
舞台監督 | ジュリオ・プロベンシオ |
演出助手 | マリア・ホセF・アリステ |
制作 | グメルシンド・プチェ、イエ・サイトー、ジェニカ・モンタルバーノ |
プロデューサー | グメルシンド・プチェ |
製作 | イアキナンディ |
共同製作 | アヴィニョン演劇祭、ウィーン芸術週間、オデオン座、フェスティバル・ドートンヌ、デ・シンゲル劇場、ルパルビス・シーン国立タルブ・ピレネー劇場 |
協力 | テアトロス・デル・カナル(マドリード)、タンツクウォーター劇場(ウィーン) |
助成 | スペイン国立舞台芸術音楽機関-INAEM |
東京公演 | 技術監督 | 寅川英司 |
技術監督助手 | 河野千鶴 |
舞台監督 | 渡部景介 |
演出部 | 中原和彦 |
美術コーディネート | 福島奈央花 |
小道具コーディネート | 定塚由里香 |
音響コーディネート | 相川 晶(有限会社サウンドウィーズ) |
照明コーディネート | 佐々木真喜子(株式会社ファクター) |
字幕 | 上野詩織(舞台字幕/映像 まくうち) |
翻訳 | 田尻陽一 |
制作 | 砂川史織、松宮俊文、十万亜紀子 |
特別協力 | 駐日スペイン大使館 |
主催 | フェスティバル/トーキョー |