カール・マルクス:資本論、第一巻
特別寄稿 カール・マルクス:資本論、第一巻 演出:ヘルガルド・ハウグ、ダニエル・ヴェツェル(リミニ・プロトコル)【ドイツ】

マティアス・リリエンタール (ベルリンHAU劇場(Hebbel am Ufer)芸術監督)

現在の国際金融危機を背景に、リミニ・プロトコルの作品『カール・マルクス:資本論 第一巻』を見ることは、ほとんど考えられないことになっている。というのも、現代の経済に関して確実だと思っていたことのすべてが、目下、ひっくり返っているからだ。皆さんがこの文を読んでいる時、経済の状況は多分、またしても変わっていることだろう。

ヘルガルド・ハウグとダニエル・ヴェツェルは、資本をテーマにしたこの舞台で、これこそドイツの古典だという作品への接近に挑戦した。舞台化のさい、彼らがまさに避けようとしたのは、何十年もドイツでなされてきたこと、つまり、この書物を読みなおすことである。

ハウグとヴェツェルは、彼らの作品『カール・マルクス:資本論 第一巻』のために、カール・マルクスによる未完成の代表作の第一巻に何かを見出せるような人々を探しに行った。この人々は、難解なテキストに対して、自分たちのユーモアや経験を提供したり、これらをテキストに織り込んだり、理論との関わりを断ち切ったり、ストーリーに移行したりする(そのストーリーは舞台上〈だけ〉のものであっても)。

マルクスは、もしかしたら、アジアにおける孔子のようなものかもしれない。多くの人がマルクスをまったく読んでいないかもしれないのだが、にもかかわらず、マルクスは私たちのメンタリティに影響を与えている。ヘルガルド・ハウグとダニエル・ヴェツェルにとって、この本は戯曲のテキストであり、その謎は、この本とともに/のなかで/のために生きてきた8人の人々の助けによってのみ、解かれうる。これは社会主義の葬送行進曲でもなければ、舞台上の理論作りでもない。この作品の場合、演出がこれをどう読むかということではなく、いったい誰がこれを読んだのかということが問題である。この本の内容よりも、現代社会においてこの本がどんな位置を占めているのか、誰がそれを使用し、知っているのか、ということが主題なのであって、政治的なカラーや経済的な実践は問題ではない。

リミニ・プロトコルはラトヴィア人の映画監督の生い立ちを語る。彼はつい最近、かつて自分の母親が彼をすんでのところで売り渡してしまいそうになったことを知った。戦時中にドイツから避難する際、母親はポーランド人農婦から、パンや卵、牛乳を提供された。母子はその食糧なしには生き延びられなかった。母親は断ったが、にもかかわらず、彼女は食糧を手にした。あるいは、東ドイツ出身の老人クチンスキー氏がいるが、その父親(顔が驚くほど似ている)は、彼編集の、現在までよく知られている『資本論』の青い装丁本で東ドイツ国民を〈幸せにした〉。あるいは、ハンブルク出身の投資コンサルタントは金持ちのハンブルク市民の財産をネズミ講で増やし、このネズミ講システムが破綻した。一方、社会主義学生連盟の元メンバーの生い立ちもある。彼は毛沢東主義に関わったあと、ドイツ・中国間で経営者のキャリアを築いた。こうした生い立ちのすべてから、最終的にある全体像がまとまり、この『青本』が現在、なお何を意味しうるのかが示される。

リミニ・プロトコルのプロジェクトの特徴は、〈リアリティのエキスパート〉あるいは〈専門家〉を使った/との作業である。彼らの出発点は、実際に未知のものとは、もはや60年代のようにオーストラリアのアボリジニーではなく、自分と同じ町に住んでいる人間だ、ということである。舞台上の人々は、演劇に関しては素人だが、素人としてではなく、彼ら自身を演じる俳優として登場し、アーティストたちには、エキスパート、またはレディー・メイド俳優と呼ばれている。俳優たちは、戯曲のテキストではなく、自分自身を演じる。そのさい、テキストや進行は、彼らそれぞれの生い立ちや職業に基づいて構成される。リミニのリサーチの対象には、例えば死のプロセスも、F1サーキットのメカニックも入りうる。今回の作品『カール・マルクス:資本論 第一巻』はその意味で、リミニ・プロトコルにとって理想的な素材である。この本ほど、よく知られていながら、知られておらず、読まれていない書物もないだろう。
彼らは無限の好奇心を日本でも展開し、日本の人々の生い立ちを探しに行くだろう。それとも、もしかしたら、やはりマルクスを読むことにして、その中に、もうひとりの孔子を発見することにするのだろうか。

マティアス・リリエンタール Matthias Lilienthal

1959年ベルリン生まれ。1978年から大学で演劇学、歴史学及びドイツ文学を学ぶ。1986年から演出助手やフリーランスライターとして活躍。1988年~1991年バーセル劇場でドラマトゥルク。1991~1998年ベルリン・ヴォルクスビューネのチーフドラマトゥルク及び副芸術監督。1999年からフリーランスとしてドラマトゥルク・ライター。2003年にベルリンHAU劇場(Hebbel am Ufer)の芸術監督に就任。