フェスティバル/トーキョー コンセプト

「演劇を脱ぐ」ことによって、演劇をひらく試み

フェスティバル/トーキョー
プログラム・ディレクター

相馬千秋

「新しい価値を創造する『場』としてのフェスティバル」。第一回、第二回の創成期から、いよいよ第三回目で本格的な成長期へと突入しようとしている今、わたしたちはフェスティバル/トーキョーの原点を再確認することからはじめたい。世界中から、同時代の先鋭的な表現が集う場であるF/Tは、個々の表現者の切実な問題意識に根ざした多様な価値観がぶつかり合い、その対話と批評の中から、まだ見ぬ新しい価値を創造・想像する場であり続けることを目指している。

第三回目となるF/T10は、全30日間に渡って開催される。F/Tが主催する作品が15演目、公募によって集まった劇団の主催公演をサポートする公募プログラムが8演目、都内劇場でF/Tと同時期に開催される参加作品が3演目、計26演目、208上演が行われる。うち9作品はF/Tが製作ないし共同製作に参加して共に作りあげる新作で、さらに5作品はF/Tで世界初演を迎えることになる。前回に続き、多くのアーティストや出演者、スタッフ、ボランティア、そして観客の皆さんと共に、F/Tは、舞台芸術を媒介とした対話と共有の場として、そして新しい価値を生み出す運動体として、さらなる進化を目指していきたい。

今回は、各演目の上演と平行した議論と共有の場として、F/Tシンポジウムとそれに関連する各種プログラムを本格化する。「演劇をひらく〜来るべき演劇の創造のために〜」と題した一連のシンポジウムでは、過去2回のF/T開催から生まれた問題意識を4つの切り口に整理し、今わたしたちが向き合う日本の状況を歴史軸/世界軸の中で捉え直すことによって、これからのF/Tが取り組む演劇創造の方向性を、演劇以外のジャンルの批評家や実践者も交えて探求していく。「芸術の公共性を考える」、「演劇から都市を見る」、「日本・現代・演劇を問い直す」、「演劇を拡張する」、これら4つのテーマを軸に議論される内容はすべて、F/Tの各演目の上演にあらたな文脈を与え、またF/Tという場のあり方をも問うものになるだろう。さらにはそれが、「いま、ここ」の日本、そしてアジアの現実からしか生まれ得ない、あらたな価値の創造を後押しする生産的な議論となることを期待している。

「演劇を脱ぐ」。F/T10では、いささか挑発的なキーワードを掲げることで、演劇というメディアの可能性を問うというF/Tの基本的な問題意識をさらに探求していきたい。第一回の「あたらしいリアルへ」、そして第二回の「リアルは進化する」の一連の上演を通じて、わたしたちは演劇というメディアが、ますます複雑化し、単純な物語としての表象が困難になりつつある複数の現実に応答するために、必死で既存の手法を疑い、自らの境界線を拡張しようとする姿を目撃した。第三回目となる今回は、この路線をさらに押し進め、演劇が「演劇」として認知されている前提条件としての「衣」をいったん脱いでみるところから探求を始めてみたい。戯曲、テクスト、物語、俳優、演技、身体、劇場、舞台……演劇を「演劇」たらしめてきたこれらの「衣」を、その一部でも冒険的に脱いでみることによって、わたしたちはどんな「演劇」の素顔を見ることになるのだろうか? そしてその「演劇」は、わたしたちが生きる現実の複雑さ、表象の困難さといかに向き合い、それを乗り越えていくことができるのだろうか? 今回F/Tに集った作品では、そこで扱われる内容のみならず、観客と作品の関係性、上演形式、上演場所、上演時間に至るまで、既存の枠組みに安住しない果敢な試みの数々が展開される。時には「これって演劇?」という素朴な疑問も生まれるだろう。そうした好奇心と懐疑心のはざまで、観客自身がこの試みの目撃者となり、時に共犯者となる関係性を受け入れていただきたい。「これって演劇?」という疑問こそが、「演劇を脱いだ」後の演劇の姿を共に考えていく原動力になることを期待している。

「演劇を脱ぐ」ひとつの方向性として、「物語」から脱することによって新しい演劇言語を切りひらいてきた作品群を紹介したい。演劇の起源から「物語」は演劇にとって重要な要素のひとつであるが、今回海外から招く3つの作品は、いずれも「大きな物語」なき現代に、独自の演劇言語やドラマトゥルギーを発明することによって、世界に対する自らのビジョンを開拓してきた作り手によるものである。クリストフ・マルターラーは、経済危機後の世界に漂う不安感を、共有すべき物語が失われた村の住民たちによる散漫な合唱や身振り、断片的なテクストを通じて、ユーモアとメランコリーたっぷりに浮かびあがらせる。一方ロドリゴ・ガルシアは、大量消費社会が生み出すグロテスクな現実を、そのままグロテスクなマテリアルとして舞台上にぶちまけ、その加担者である観客をも激しく挑発する。また、ジゼル・ヴィエンヌは、もはや社会性もモラルも失われた閉鎖的世界で、個の倒錯した欲望から人間や美の本質を捉えようと試みる。ポストドラマ演劇の流れに位置づけられるこれらの作品を通じて、わたしたちは、大きな物語なき時代の演劇が、それでも語りうる世界の風景を今一度検証してみることはできないだろうか。
一方、日本はどうだろうか? 今、世界的に注目を集める日本の小劇場シーンで無数に生産される「小さな物語」の中で、作り手たちは何と向き合い、それをいかに演劇として再表象しようと企てているのだろうか? 三浦基は、これまでさまざまな戯曲テクストの緻密な解釈で培ってきた演出法をもとに、アントナン・アルトーが残した数々のテクスト・コラージュを演劇として再構成する。また今回唯一、自らが書き下ろす戯曲を演出する前田司郎は、敢えて「うまい劇作」の王道から離れ、「迷子宣言」をするという。これらの上演を通じて、戯曲、俳優の身体をベースとした演劇創造の現在地点を再確認していきたい。

F/T10では「演劇を脱ぐ」もうひとつの方向性として、演劇が行われる場としての劇場を離れ、俳優ではなく観客自身が演劇の担い手となる一連の作品群をアーティストと共に仕掛ける。ロジェ・ベルナットは、パブリックな広場に集う150名余りの観客を出演者とし、個(プライベート)の集積がパブリックな物語へと動員される様を演劇化することで社会全体の構造をさらけ出す。これまでも風俗産業など日本固有のメディアを引用した脱・演劇的作品に挑み続けている高山明は今回、都市に偏在する不可視のコミュニティと観客が出会い、交流するシステムそのものを設計し、演劇という概念の拡張を試みる。そして過去2作では戯曲と俳優の運命的な出会いを演出した飴屋法水も、今回は劇場・戯曲・俳優を使わない脱・演劇的装置を都市の中に作成し、美術と演劇のはざまから再び演劇を問い直す。これら3つの作品では、観客自身の体験の中にいかなる演劇が生成するのか、体験するものの想像力や行動力も問われるだろう。

また、個の記憶や歴史を、物語としてではなく「生きたドキュメント」として提示する一連の作品群も「演劇を脱ぐ」試みの中に位置づけることができるだろう。中国のインディペンデント・シーンの中心的存在であるウェン・ホイとウー・ウェンガンは、文化大革命という国家の歴史の重みを、個人の記憶と自らの身体を通じて、8時間という驚異的な上演時間の中で観客と共に再び身体に刻み直す。松田正隆は、ヒロシマ、ハプチョンという二つの都市の記憶と現在に向き合いながら、敢えて展覧会形式を採用することでドキュメントと観客の演劇的関係性を追求する。そして相模友士郎による「ドラマソロジー」では、高齢者という記憶装置が、「わたし」から「わたしたち」を作り出していくプロセスが演劇化されていく。

ダンスにおいてはどうだろうか? 今回は、ダンスにおける独自のドラマトゥルギーを探求し続ける二人の創り手に新作を依頼した。勅使川原三郎はリゲティのピアノ曲とノイズ音を時間軸に、自らがデザインする光や舞台美術を空間軸に、重力や意味が揮発する世界を身体で体現する。黒田育世は「母なるもの」を巡る思考を眼差しの関係性の中に再構築し、身体を使った壮大なファンタジーへと昇華させる。今、日本国内のみならず世界的にもダンスの新機軸が打ち出せない状況の中、F/Tでは今後「ダンスを脱ぐ」ための問いかけを投げかけていきたいが、そのためには関係者や批評家と問題意識を共有し議論する場を作り出していくことが緊急の課題であろう。

上記の主催演目に加え、F/T10からは新たに「F/T公募プログラム」と題し、若い劇団の自主公演がF/Tに参加する仕組を導入する。80もの応募総数の中から、今回は日本全国から8団体に参加して頂くことになった。それぞれ多様な問題意識や価値観を持つ創り手たちが作品をぶつけ合い、そこから「演劇を脱ぐ」ための予期せぬ試行錯誤が生まれてくることを願っている。なおこのプログラムは来年度以降、応募対象をアジアの国々まで拡大し、アジアで共有可能な批評軸に基づく価値の創造に取り組むプラットフォームへと発展させる予定である。

以上のような「演劇を脱ぐ」試みによって、わたしたちは演劇をひらきたいと考えている。社会に向けて、未来に向けて、演劇をひらいていくことによって、わたしたちは、演劇の、ひいては芸術の公共性について考え、その実践に向けた問いかけを続けていきたい。そもそも個人(プライベート)に根ざす表現行為が、パブリックなものとして共有され、支えられる根拠とは何か?F/Tを含む公的文化事業の大前提となるのみならず、今後、舞台芸術の創造環境を大きく変えるであろう劇場法も見据え、わたしたちは今こそ、演劇の、そして芸術の公共性というものに向き合う必要があるだろう。F/Tに集うすべての作品は、この大きな問いに対して、それぞれの価値観に基づく真摯な応答を示すものになるだろう。そしてそれらを横断的に検証する場として、シンポジウムやF/Tステーションをはじめ大小さまざまな対話の場、相互批評の場によって、F/T自体がひとつの「考えるメディア」としてひらかれていくことを期待している。

相馬千秋
1975年生まれ。1998年早稲田大学第一文学部卒業後、フランスのリヨン第二大学院にてアートマネジメントおよび文化政策を専攻。現地のアートセンター等で経験を積んだ後、2002年よりアートネットワーク・ジャパン勤務。F/Tの前身である東京国際芸術祭「中東シリーズ04-07」をはじめ、国際共同製作による舞台作品や関連プロジェクトを多数企画・制作。06年には横浜市との協働のもと新しい舞台芸術創造拠点「急な坂スタジオ」を設立、09年までディレクターを務める。07-09年、早稲田大学演劇博物館グローバルCOE客員講師。東京国際芸術祭2008プログラム・ディレクターを経て、フェスティバル/トーキョーのプログラム・ディレクターに就任。