これまで演劇、美術、音響、動物店の経営など、フィールドを越境しながら、一貫して「生命」や「身体」を見つめ続けてきた飴屋法水。95年のヴェネツィア・ビエンナーレ参加後、休止していた美術活動を2005年に再開。F/Tでは、09春にオーディションで選ばれた現役女子高校生を起用した『転校生』(平田オリザ作)、09秋にイギリスの劇作家サラ・ケインの遺作『4.48サイコシス』を演出し、日本演劇史に鮮烈、かつ不動の1ページを書き加えた。
今回、新作となる『わたしのすがた』では、ついに戯曲も舞台も俳優もない、脱・演劇的装置の作成に取り組む。2005年、活動再開となった「バ ング ント」展にて、24日間の会期中、全く光の入らない約2メートル四方の白い箱に籠り続けるという、作家自らの存在と不在を主要構成要素とした作品を発表し、反響を巻き起こした飴屋だが、本作では、このテーマをさらに発展させ、自己と他者、存在と不在、その関係性を組み替える特異な時間と空間へ観客を導く。
そこで、観客が体験することになるものとは?
その場、その時に立ち会う者だけが知りうる謎に包まれた30日間の幕が上がる。
コンセプト
飴屋法水
動物の対語と言うと、植物ということになるのだろうか。
しかし、動産という言葉もある。
動産の対語が不動産であるなら、動物の対語は不動物か?
あるいは静物? 生物の対語は死物か?しかし関心は、これら対語の「対」というものが、どうやら「反対」という意味ではないことだ。
ただ、対をなしうる関係性が、そこにはある。ところで演劇は、私という動産が、劇場という不動産に出向いて行く、
そういう営みに基づく経験である。
なぜ出向くかと言えば、そこで、他者の姿を眺めるため。人間は、いくら年を重ねても、
毎日鏡を覗いても、写真やビデオを見せられても、いっこうに自分の姿がわからない。
そういう方法では、自分の姿がどうにもトレースできないのだ。ところが、他人の姿をじっくりと見れば見るほど、
自分の姿をそこにトレースしてしまうという、奇妙な特性を持っているように思う。
それだけが、演劇という仕組みがもつ可能性だと思っている。出会える他者が、俳優という特化された身体であることは、時に必要であっても必須でない。
ただ、この社会の中で、動産として機能している只中の身体であること、
それが演劇の条件であろう、というのが僕の考えだ。同様に、出向く場所が、劇場という特化された場所であることも必須では無い。
その他所が、この社会の中で不動産として機能している他所であること。そのとき、不動産としての他所が、不動産としての自所を、つまり自身の生息する場所を、
不思議とトレースしてくる、そのような現象が起こる事・・。動物の対語である植物は、不動物ではない。
それは静物と言いたいほどに静かではあるが、しかし確かに、動いている。
不動産と呼ばれる場所も、息をするように、少しずつ、動いている。