近年、「都市」をテーマとする作品群を連続して製作・発表している松田正隆率いるマレビトの会。2009年からは長崎と広島という未曾有の出来事を経験した二つの都市を題材にした「ヒロシマ―ナガサキ」シリーズに着手。自身の故郷でもある長崎をテーマに作家自身と父親の関係をドキュメンタリー風に描いた『声紋都市-父への手紙』(F/Tとの共同製作)、戦後「公園」を中心に復興した広島の町をテーマにした『PARK CITY』を続けて上演し、大きな反響を呼んだ。シリーズ第3弾となる今回は、「ヒロシマ―ナガサキ」をみる視点を国外へと広げる。朝鮮半島における「もう一つのヒロシマ」と呼ばれる町「ハプチョン」に注目し、いまなお、広島での被爆者が数多く住む同地を取り上げることで、「唯一の被爆国・日本」からこぼれ落ちる「異邦性」をめぐる問題に迫る。
上演は、博物館のような展覧形式と「演劇」が交じり合ったもの。自由学園明日館の空間に、ハプチョンと広島でのフィールドワーク・取材で得た声や音、映像、テキストなどの素材と、これまで松田が追及してきた、当事者を「代弁していく」演技する身体が「展示」される。ここでは、演劇上演の特徴であり制約でもある「決まった時間に、席に座って観る」という枠組みは取り払われ、上演時間の内であれば、観客は自分の好きな時間に入場できる。したがって作品をどれだけの時間、どのように受け取るかは観客に委ねられることになる。観客の体験と想像力が加わることによって、初めて作品が完成するような上演形態は、これまでの演劇体験を根本から疑う試みとなる。
政治、経済両面から最も注目を浴びるアジア、とりわけ中国・朝鮮半島と日本の新たな関係構築が問い直される2010年代の始まりに、二重写しの都市像を劇場に引き入れる本作品。その試みは、劇場―演劇と都市の関わりについての重要な示唆を与えると同時に、それらといかに向かい合うのかを観客ひとりひとりに問うことになるだろう。
★【F/Tマガジン】 マレビトの会 試演会(2010年9月15日)レポート <部外者>が探す被爆都市のリアル
韓国・ハプチョンについて
大韓民国慶尚南道の北部に位置するハプチョン(陜川)は、釜山より車で約二時間ほどの山あいにある小さな街である。二十世紀初頭から戦時中にかけて、この地域から大勢の出身者が広島に移住し、そして原爆投下の犠牲となった(広島における韓国・朝鮮人被爆者の数は、被爆者総数42万人のうち約5万人と言われている)。戦後、帰郷した人々がいまも多く住むハプチョンは「韓国のヒロシマ」「もう一つのヒロシマ」などと呼ばれている。現在、市内には大韓赤十字社が運営する原爆被害者福祉会館があり、高齢になった被爆者が過ごす施設として約110名の人が入所している(待機者は約130名に上る)。
演出ノート
松田正隆
広島から始まる旅。
朝鮮半島への、韓国の広島、ハプチョンへの。
そして広島のなかの朝鮮を見つめる旅。
われわれのなかのかれら、かれらのなかのわれわれ。
それは郷愁をかかえこむ身体への抵抗であり、異国へとわれわれを開く方策である。二つのHではじまる都市。HIROSHIMAとHAPCHEON。ヒロシマともうひとつのヒロシマ。広島に顔があるとすれば、その顔にハプチョンの面影を見ることはできるだろうか。ハプチョンに顔があるとすれば、その顔に広島の面影を見ることはできるだろうか。既存のヒロシマの物語に回収されることのない「都市」の相貌を報告すること。それは、二つのH都市を往還することで見えて来るわたしたちの外部と、どのように関わり得るのかを探る試みでもある。
また、この作品の創作を通して考えることの一つは、「人を殺してはならない」という倫理的命題のことである。広島においてふるわれた暴力とはなにか。その問いに応える方策は、「他者と共存すること」とある意味「やむを得ない場合は他者を殺す」とする核兵器による抑止力がほんとうに両立し得るのかを粘り強く考え続けることでもある。