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2022/07/12

トーク 「舞台芸術はアーカイブ① ~上演の記録と、記録の上演~」ゲスト:三浦直之<後半>

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アーカイビングF/T オンライン連続トーク

「舞台芸術はアーカイブ:消えるものの残し方と活かし方」

15:00-15:50 セッション1「上演の記録と、記録の上演」

ゲスト:三浦直之 モデレーター: 長島 確、中島那奈子




過去の戯曲を、現代で上演することの葛藤


長島 ふたつ目の話も聞きたいのですが、過去の戯曲を上演する時にステートメントがついていることがある……というのは古典の本でもありますよね。何十年か前の文学作品でも「今日では好ましくない表現が含まれていますが、時代背景を考慮しそのままとしています」みたいなことが書いてあったりする。映画もそうです。ブラック・ライブズ・マターを受けて、ある映画(「風と共に去りぬ」)が配信停止になり、後にステートメントをつけて再開したこともありました。そういうふうに歴史的な距離感がある映画を、注釈を付けたうえで今また公開することはあり得ると思います。でも、映画や小説と、演劇の上演とでは違うとおっしゃっていましたね?


三浦 演劇は過去を今に召喚するものだから、どんなに過去に書かれたものであっても今の物語にならざるを得ないと思うんですよね。とはいえ「今の価値観にアップデートしましたよ」という作品で、興味をそそられるものは多くない。どういう形があり得るんだろうとずっと悩んでいます。ただ、過去の戯曲を上演した時に、責任の所在は、今の演出家にあるということは思っていますね。


いやぁ、悩んでいますね。再演ってなんだろう?とか、時代との距離って?と考えますね。僕からシェイクスピアまでの距離や、僕から10~20年前の距離があることによって変わるものはなんだろう。"観客が変わる"というのも、まさにそうですし。


長島 そこには戯曲の問題と、演出の問題もありますか? ちょっと話をややこしくしてしまいますが、思い出したことがふたつあるんです。


ひとつは、僕は海外の上演台本の翻訳をする時に、現代との距離感を考えるんです。具体的に言うと、僕はずっとベケットという作家を研究し、翻訳もしてきました。ある時期「ベケットって半端に古いなぁ」と感じていたんですよ。今の時代からするとベケットは半端に古くてどうにもならない……という気持ちになる時期があって。ベケットは没後30数年になりますが、すごく時代と切り結んだ時期がありました。その後古びて、最近は距離がとれるようになってまた大丈夫になってきたなと、翻訳者や研究者の立場で思ったりします。だから、古くなったらもうダメだという問題じゃないかもしれないなと。蘇る、ということがあるのかもしれない。


もうひとつ。たしかピーター・ブルックが「演出が時代とちゃんと結びつかなきゃいけない。10年経っても通用するような舞台は逆にダメだ」というようなことを本に書いていた気がする。


三浦 へえ~!


長島 古くならなきゃダメで、賞味期限があるのが良い事だ、と。


中島 それは、歴史を切断するっていうことじゃないですか? 三浦さんの言葉で言うと「過去を切断する」という。舞台芸術の場合、私達はたぶん過去とは切れないんですね。戯曲が過去のアーカイブとすると、私達はそれまでの上演からは逃れられない。古典であればあるほど亡霊のように過去の上演が見えてしまう。それは良い意味でもあります。そこを切断することによって現代の演出家として作品を作る、と考えることもできるのかなと思いました。


三浦 なんだか、すごく好きなSFの短編小説を思い出しました。ケン・リュウという作家の『生まれ変わり』という短編で、地球にやってきた異性人が、地球人が過去の自分の連続として今の自分をとらえていることが理解できない。たとえば、過去に罪を犯した人間は、異星人からすると「罪があるのは過去の君であり今の君ではない」と考える。連続したものとして過去をとらえることを理解できない異星人……というのを思い出しました。


中島 すごく面白い! 私達がどうしても持ってしまう過去の歴史があってこそ、記憶が蘇ってくるという話にも繋がります。


三浦 あと、賞味期限について。僕は演劇の"見立て"がすごく好きなんです。それは、想像力の賞味期限を感じるからなんですね。たとえば脚立を山だと見立てた時に、観客はずっと山だと信じているわけじゃない。でもほんの一瞬それが「山かも!」となる瞬間がある。想像力ってとても弱くて、ずっと保つわけじゃないんです。賞味期限がある。山だと思ってもすぐに脚立に戻ってしまう。演劇ってそういう賞味期限が作られているものですよね。


ただ、過去に作られたものに対して、今の自分が「それはもう賞味期限きれてるよ」と積極的には言えはしないです。


長島 そのあたりの意識と、さっきおっしゃっていた「自分が書いたロロの過去作を肯定的にとらえられない」ということは関係しているんですか?

三浦 そうなんですよね……過去に自分が書いた言葉に「もうこれは賞味期限がきれているかもしれない」と思う一方で、それを言ったら書いた当時の自分はブチギレるだろうなと思うんですよね。


長島 うんうん。


三浦 でもやっぱり、賞味期限がきれているものはきれているんだと思おうとはしていますね……。そうしなくちゃいけないな、とも思っています。そのうえで、昔の自分にどう応答していこうかと思うんです。

中島 三浦さんは、自分がつねに変わり続けていることをすごく意識している感じがします。


三浦 していますね。


中島 作品は固定化されたものという考え方がある。現時点では、アーカイブするということは固定化するということです。でも、三浦さんご自身のクリエイティビティや想像力や作品の方向性はどんどん変わっていくから、そこにひずみが起きてくる。


三浦 そうですね。ロロの人達や、それ以外の仕事で出会った人達と話をする中でどんどん変わっていったところもあります。あと、僕は作った直後に反省会が始まっちゃって、自分が作った作品のどこがいかにどうダメだったかみたいなことをずっと考えちゃう性格なので(笑)




記憶は、時と場所を越えて繋がる


長島 最後に質問が届いています。「三浦さんのご発言の中で、記憶は自分の内ではなく外にあるという考えに共感しました。というのは、転居先で道端に咲いてる花を見て、前に住んでいた場所を思い出した体験があったからです。花を通して記憶が思い出されたということと、三浦さんのご発言とはなにか共通するものでしょうか?」


三浦 ああ! それに繋がるかはわからないけれど、僕も似た体験があります。何年か前にアメリカに一週間くらい旅行に行ったんです。初めての海外旅行で、めっちゃめちゃホームシックにかかってしまって、せっかくアメリカに来ているのにずっとホテルでGoogleマップを開いて自宅の近所をお散歩していたんです。アゴラ劇場のまわりとか(笑)。その時に、ホテルの外も散歩しようと思って、公園に出かけてベンチに座っていたら、ハトがコトコトコと近づいてきて、その瞬間に、すごい勢いで泣いちゃった。「ああ、日本の公園でもハトがこうやって近づいて来たことがある!」と思った瞬間にすごくグッときて、今自分がいる海外と、自分が住んでいる日本が繋がったことがありました。


長島 三浦さんからどんどんディープな話が出てくるので、丁寧に話し始めたらかなり時間が必要ですね。三浦さんと一緒にいろんなものを見ながらあーだこーだと長話しをしたらものすごく面白そうです。今日はとても大事なことを話していただいたと思うので、ぜひまた機会があれば嬉しいです。


中島 ロロの『Every Body feat. フランケンシュタイン』(2021年10月)ではないですが、過去と現在の話が伺えて面白かったです。これからもいろいろ考えていきたいテーマです。


長島 そう、『Every Body feat. フランケンシュタイン』を観た那奈子さんは「即身仏と通じるものがある」と言っていましたね(笑)。……ではここまでにしたいと思います。三浦さん、今日は本当にどうもありがとうございました。


(テキスト・河野桃子)

前半はこちら 


三浦直之

ロロ主宰。劇作家。演出家。2009年、主宰としてロロを旗揚げ。「家族」や「恋人」など既存の関係性を問い直し、異質な存在の「ボーイ・ミーツ・ガール=出会い」を描く作品をつくり続けている。古今東西のポップカルチャーを無数に引用しながらつくり出される世界は破天荒ながらもエモーショナルであり、演劇ファンのみならずジャンルを超えて老若男女から支持されている。ドラマ脚本提供、MV監督、ワークショップ講師など演劇の枠にとらわれず幅広く活動。『ハンサムな大悟』で第60回岸田國士戯曲賞最終候補作品ノミネート。2019年脚本を担当したNHKよるドラ『腐女子、うっかりゲイに告(コク)る。』で第16回コンフィデンスアワード・ドラマ賞脚本賞を受賞。

長島確

専門はパフォーミングアーツにおけるドラマツルギー。大学院在学中、サミュエル・ベケットの後期散文作品を研究・翻訳するかたわら、字幕オペレーター、上演台本の翻訳者として演劇の現場に関わり始める。その後、日本におけるドラマトゥルクの草分けとして、演劇、ダンス、オペラからアートプロジェクトまでさまざまな集団創作の場に参加。フェスティバル/トーキョーでは2018〜2020年、共同ディレクターの河合千佳と2人体制でディレクターを務める。東京芸術祭2021副総合ディレクター。

中島那奈子

老いと踊りの研究と創作を支えるドラマトゥルクとして国内外で活躍。プロジェクトに「イヴォンヌ・レイナーを巡るパフォーマティヴ・エクシビジョン」(京都芸術劇場春秋座2017)、レクチャーパフォーマンス「能からTrio Aへ」(名古屋能楽堂2021)。2019/20年ベルリン自由大学ヴァレスカ・ゲルト記念招聘教授。編著に『老いと踊り』、近年ダンスドラマトゥルギーのサイト(http://www.dancedramaturgy.org)を開設。2017年アメリカドラマトゥルク協会エリオットヘイズ賞特別賞。

アーカイビングF/T オンライン連続トーク
「舞台芸術はアーカイブ:消えるものの残し方と活かし方」

日程 ライブ配信:2022年3月5日(土)14:00-19:15
<配信は終了しました>

アーカイビングF/T

フェスティバル/トーキョー(F/T)は、2009年から2020年まで、13回にわたって開催されました。舞台芸術を中心に、上演・上映プログラム数204、関連イベントもあわせ、のべ77万人の観客と出会ってきました。これらの出来事を通じて、国内外にまたがる多くの人々や作品が交差し、さまざまな活動・交流の膨大な結節点が生み出されました。 上演作品やイベントは、「もの」として保存ができません。参加者や観客との間で起こった「こと」は、その場かぎりで消えていきます。しかしそのつど、ほんのわずかに世界を変えます。その変化はつながって、あるいは枝分かれして、あちこちに種子を運び、芽ばえていきます。 F/Tは何を育んできたのでしょうか。過去の記録が未来の変化の種子や養分になることを願い、13回の開催に含まれる情報を保存し、Webサイトを中心にF/Tのアーカイブ化を行います。情報や記事を検索できるデータベースを作成し、その過程で過去の上演映像セレクションの期間限定公開や、シンポジウムを開催します。

 
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