グロテスクな人間関係の饗宴の果て [内田俊樹氏]

 松井周の描く家族の肖像は、ルキノ・ヴィスコンティのそれにも似て、どこか歪なとこ
ろがある。
 同じ歪とはいえ、ヴィスコンティが貴族の没落をデカダンたっぷりに表現するのに対し、
松井周はグロテスクな中にどこかバカバカしいユーモアがあり、笑いを誘いながらも後味
はかなり苦い。
 そもそも家族が家族たり得た時代は、とうの昔に過ぎ去り、今や過去への望郷の念の中
にしか存在しない。戦後の高度成長期がもたらした核家族化の波は、古い日本の家長制度
を崩壊に導いた。制度に縛られなくなったおかげで自由を得はしたものの、同時に伝統を
も失い、柱のいなくなった家族は、同じ家に住んではいるにもかかわらず、一家離散状態
へと陥った。
 前々作の『家族の肖像』は、そんな家族なき時代の家族探しとでも呼ぶべき物語であり、
前作の『伝記』では、嘘で固めた自分史のほころびによって侵食され、精神的に自爆する
家長の物語であった。それらで家族の再生と崩壊を描いた松井周。3度目の振り子はどち
らに振れるのか? それともまったく新しい軌道を描くのか?

 『あの人の世界』は、どうやら松井周の中にある先天的な醜悪への羨望、もはやそれを
炙り出さずにいられようか! という強烈な意志の力を目の当たりにさせられずにはいら
れない芝居となった。
 そもそもキクという名の愛犬の墓参りから始まる物語は、一瞬、忠犬ハチ公よろしく、
お涙頂戴のチープな "動物もの" になってしまう可能性を含むが、そんなこちらの手垢に
まみれた連想ゲームを嘲笑うかのように、キクの死は、ほころびた男女関係の泥沼に、大
きな亀裂を招くことになる。さらに意地の悪い取り方をすれば、そもそもキクなしの男女
関係など、最初から成立してなかったじゃないか! とでも言わんばかりの強烈な悪意の
固まりが、観客にビーンボールの如く投げつけられる。
 ペットはもう一人の家族とは、愛犬家がしばしば用いるお気に入りの常套句だが、もう
一人どころか、まるでペットこそが主人で、飼い主の方がペットと見間違う逆転現象は、
ごくごく身近なご近所レベルで同時多発テロ並に発生しており、愛情という名の自分勝手
な思い入れの押しつけが、愛犬家という印籠を携えて、その他一般人の日常生活を蹂躙せ
んばかりにばっこしているのだ。
 ましてやキクの死が、どうやら夫婦それぞれの勝手な都合によりもたらされた、理不尽
極まりないものであるのだから、何をか言わんやである。

 夫婦+1のこの三角形を基本型として、この物語では、三角形に象徴される、相手との
さまざまな関わりが見受けられる。
 例えば、ドクターと名乗るホームレスの男と、動物の姿をした者たちの群。そしてそこ
に加わる少女の三角形。また、お互い首輪でつながれた嫁と姑と、逃げ出した嫁の亭主の
三角形。さらに、映画『メメント』の主人公同様、覚えたそばから記憶を亡くしてしまう
青年と、人探しのビラを配る男。そして探される少女の三角形。何だかまるで世界は三角
形で作られているかのように錯覚してしまう。そういえば舞台も三角形なのは、これは偶
然? それとも必然?
 それぞれがそれぞれの関係の中で、時に足を引っ張り合い、窒息しそうな息苦しさに悶
え、悪意を込めた視線を投げかける。それでも相手を捨て切れないで、ズブズブと底なし
沼にはまり込み、身動きが取れなくなってしまう。
 ドクターはミュージカルで革命を起こすべく、人間を捨てて動物になってしまいたい願
望を抱くホームレスたち、もしくは単なる動物でしかないのかもしれないような、はっき
りとしない曖昧な存在の彼らに、半ば強制的にダンスを教え込む。教えられる彼らは本意
か不本意か良く分からないままそれに従い、いつしか革命とやらを夢見る。
 お互いを首輪でつながれた嫁と姑は、別の方向へ歩き出そうとして相手を引っ張ったり、
ことあるごとにののしり合うのだが、フッと一瞬、相手へのいたわりを垣間見せたりもす
る。その様子はまるで掛け合い漫才のように、息もピッタリだ。
 記憶を維持出来ない青年は、少女の似顔絵を描いたチラシを配る男から与えられた、こ
の少女を捜せ! という指示をテープに録音しておき、それを生きる目的とする。
 先の男女も含め、それぞれが実は磁石のS極とN極の関係にあるにもかかわらず、どう
いうわけか離れられない。
まるで<最大の敵は最高の友>とばかりに、マイナス×マイナス=プラスというこの不
条理!
 人は完全な自由など求めていない。求めているように装ってはいるものの、完全な自由
を与えられた瞬間、どうしようもなく不安に駆られ、拘束されたい、束縛されたいと思い
始める。時には服従し、でも、時には罵倒したりもしたい。そんな不自由極まりない関係
の中でこそ、心落ち着くものなのだ。それが人間という生き物だ。

 死んだ飼い犬と同じ名前のキクという少女は、動物たちの中に紛れ込んで、革命ミュー
ジカルに取り組む。しかし、ミュージカルと謳いながら、歌は欠落し、身体は硬直、ただ
低い唸り声を上げるだけの妙なことになっている。
 革命ミュージカルとは、ドクター曰く、人間が人間の殻を脱ぎ捨て、内なる動物化願望
の赴くままに行動を起こすことなのだ。
 犬と少女が同一人物ならば、やはり少女は犬であり、動物に扮したホームレスは単なる
野良犬であり、ならばドクターは単なる元医者、現ホームレスということになる。革命ミ
ュージカルは彼の世迷言に過ぎず、エサを与えて野良犬に芸の一つも覚えさせようとして
いる、それだけのこと、という考えも成り立つ。
 そう考える一方で、人とか動物とかを隔てる境界線は消失、互いを侵食しつつあるこの
物語世界は、以前観たベルギーのダンス・カンパニー、ピーピング・トムの『ル・ス・ソ
ル/土の下』という作品をも連想させる。この世とあの世の境目にある地中深くに存在する
穴倉のような世界で繰り広げられる、死者たちの何とも不思議なやり取り。どうやらその
血脈がここにもポッカリと顔を覗かせているらしく、物語は全編に渡って死の臭いを濃厚
に漂わせている。
 そんな中、ただ一人、愛犬の墓参りをする男女と接点を持ち、なおかつ、嘘実入り混じ
ったもう一つの世界にも姿を現す記憶を維持出来ない青年こそ、記憶を持たないがゆえに、
2つの世界を行き交うことを可能たらしめたのではないか。特別な存在という立場を与え
られているにもかかわらず、だからといってその青年がこの混沌とした物語の救い手とな
ることは一切ない。

 そして物語の最後に用意された大団円は、ベルリオーズの幻想交響曲最終章「サバトの
夜の夢」の如く、グロテスクな狂態を撒き散らしながら、沸点目指して駆け上る。
 キクは自らの死を再現し、キクの死によって精神の内部崩壊を招き、自分たちが本当は
犬ではないのかと疑い始めた男女は、人間でいるよりも犬として生きる願望を日増しに強
めて行く。
 だが、そもそも男が本当に人間である証拠はない。なぜなら彼の妻と母親は首輪でつな
がれていたではないか。首輪=犬の象徴であるならば、彼はすでに生まれながらにして犬
であったはずだ。
 女もまた犬(夫)と交わり、粘膜の交換を通して、犬化してゆくのは当然の結果と言え
る。
 探していた女がキクであり、彼女こそ運命の女であると信じた記憶を維持出来ない青年
は、キクの死骸を腕に抱き、まるで彼女がまだ生きているかのように、手足を動かして戯
れる。
「人はいつか死ぬ、ならば今死んでいたっていいじゃないか!」
 登場人物たちすべてが舞台上に勢揃いし、勝手に思いをぶちまけ、自爆する。
 サバトの真っ只中、物語はこれ以上の進行を断固拒否するかのように、暗転。
 その後の、買ったばかりの金魚鉢を覗き込む男女の姿からは、失われた愛情の復活など
ではなくて、先ほどまでの悪夢が、再びループすることを暗示する。
 いやいや、それは考え過ぎか?